2005/8/14(主日礼拝)

新地の主役になろう
ヨシュア1:1〜9



 聖書には、エジプトを脱出したモーセ率いるイスラエルの民が、40年にわたる荒野の旅路において、様々な紆余曲折に遭いながらも主の導きの中を、約束の地目指して歩んで来た道程が赤裸々に描かれています。

今日与えられた本文、ヨシュア記1:1〜9は、彼らイスラエルの民が、荒野の生活を清算し、いよいよ神様から与えられた約束の地、カナンに入る直前の出来事が記されています。神様がヨシュアをモーセに代わる指導者として立てて、新しい地における歩みについて申し渡しを行っている場面です。

荒野に於ける偉大な指導者モーセが死に、これから先イスラエルの人々は、新しい指導者ヨシュアに従って進み行かなければなりません。カナンの地は、イスラエルの人々にとって未だ見ぬ地、未開の地であると共に、希望が待ち構えている地でもありました。何故なら神様による、乳と蜜の流れる豊穣が約束された地だったからです(申命記11:10〜15)。

これから新しい時代を迎え入れようとするイスラエルの民に向かい、神様が語られた御言葉は何でしょうか。私たちも、イエス様に在る勝利者(イスラエル)であり、ゴールを目指す者として、今日神様が語られる御言葉に、謹んで耳を傾けましょう。

 

1.神の約束を最後まで信じ従おう

 それまでイスラエルを導いて来た偉大なる指導者モーセが死んだ時、民の間には、様々な恐れと不安の思いがよぎった事でしょう。「今までモーセだけを頼りに旅を続けて来たが、彼が亡くなってしまった今、これから私たちは誰を信じて、従っていけばよいのだろうか。果たして私たちの行く末はどうなるのだろうか?」と。

 その時、カナンの入城を前にして、新しい指導者ヨシュアに神様が最も先に語った御言葉は、彼らの先祖に与えられた約束を思い起こせよ、との御言葉でした(ヨシュア1:3〜6)。神様は、約束の地カナンの地に入って新しい時代を開かねばならないイスラエルの民に先ず、神様の約束の真実さを思い起こさせ、それを信じて従うように勧めています。

 

2.御言葉を日々思い、守り行おう

次に神様は、「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。(7〜8節)」と言われました。この御言葉は、しごく当たり前のことのように聞こえます。なぜなら、神様を信じる者なら常に触れている御言葉であるからです。しかし、決して侮ってはなりません。実際、エジプトからカナンの地までは、長くかかったとしても40〜50日あれば充分に到達できる距離です。ところがイスラエルの民は、その期間に40年もの時を要しています。何故でしょうか?それは彼らが神様の御言葉から離れたからであることを、聖書は如実に記しています(ヨシュア14:34)。

「あなたがたは、かの地を探った四十日の日數にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう。」  −ヨシュア14:34−

神様の御言葉から離れない生活。このことは、当面の間は出来そうに思えるでしょう。しかし、大切なことは「最後まで」御言葉から離れない、ということが重要なのです(マタイ24:23、黙示録2:26)。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。」  −マタイ24:23−

勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。−黙示録2:26−

初めがどんなに信仰熱心であっても、その信仰を最後まで保つことが出来なければ、何の役にも立たなくなります。また、過程がいかに優れて華やかだったとしても同じです。始まりと終わりが異なってはいけません。終始一貫変わらない信仰を持たなくてはならないのです。

 

3.神が共におられることを信じよう

本文9節の御言葉に、「強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、 あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」と言われています。この御言葉は旧約に於けるインマヌエルの祝福であります。神様を私たちの目で見る事は出来ません。しかし、目には見えなくても私たちから遠く離れているのでは決してありません。

こうして彼らは主の山を去って、三日の行程を進んだ。主の契約の箱は、その三日の行程の間、彼らに先立って行き、彼らのために休む所を尋ねもとめた。 −民数記10:33−

神様は、イスラエルの民と共に進まれ、彼らに先んじて憩いの場所をさえ尋ねもとめて下さいました。事実、40年間の荒野の旅路に常に彼らと共にいて下さったのです。昼は雲の柱、夜は火の柱としてイスラエルの人々と共に進み、そして敵から守り、昼は熱い太陽の日射しから守り、夜には砂漠の寒さから守られました。

このように、神様は選ばれた民と常に共にいます。イエス様も「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(マタイ28:20節)と言われました。2千年前は、御言葉が肉体となって私たちの中に来られました。イエス・キリストは肉体においては天に上げられましたが、聖霊を通して今も働かれ、信じる者にご自身を示して下さり、御言葉を語って下さるのです。

宇宙のどこであろうと神様の御腕の届かない場所はありません。その大いなる神様が、御言葉を通して常に私たちと人格的な交わりを行う事を求めておられます。そして、今も「強く、また雄々しくあれ。」「恐れてはならない、おののいてはならない。」語り続けてくださるのです。

 

結論:イエス・キリストを救い主と信じる者は、主の来臨を待ち望みつつ、この世を旅する寄留者です。私たちが目指すべきカナンの地は、天の御国です。私たちの為に備えられた希望に輝く新地への道程は、決して遠くはないのです。そして、この新しい地は、主人公の到着を待ち望んでいることでしょう。この主人公とは誰でしょう。それは、神様の約束の言葉を常に思い起こし、最後まで御言葉に聞き従い信仰を保つ者。そして、神様が共におられる事を信じて強く、また雄々しく、恐れなく、神様に従い通す者なのではないでしょうか。皆さんが、この新しい偉大なる時代の主人公になりますように主の聖なる名によってお祈りいたします。

 


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