2005/8/7(主日礼拝)

すべてのことに恵みを満たす神
第二コリント9:8




序論:唯一無比である神様は、どのようなお方でしょうか。神様は全知全能なるお方です。神様に不可能な事はありません。サムエル上2:6〜7に「主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。」と記されています。また、第二 コリント9:8節でも、「神はあなたがたにあらゆる惠みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」とあります。このように、神様はすべての事に常に満ち溢れる恵みを与える神様であることを知ることが出来ます。では、すべての事に満ち溢れる恵みとは、どのような恵みなのでしょうか?

1.一つを求めても、さらに増し加えて下さる恵み

歴史上類のない栄華を極めたイスラエルのソロモン王は、いかにして偉業をなし、その富を築き上げたのでしょうか。王ダビデの数多い息子たちの中の一人であったソロモンが、誰よりも秀でていたからでしょうか。いいえ、そうではありません。しかし、彼は神様の前に礼拝を捧げる事に於いては、他の誰よりも優れた者でした。

主を愛し、父ダビデの定めに歩んだソロモンが神様の祭壇に一千もの燔祭を捧げたギベオンで、夜、ソロモンの夢の中に神様が現れて「あなたに何を与えようか、求めなさい」と言われました(列王上3:5)。その時、ソロモン王はこう答えました。「聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう。(列王上3:9)」と神様の智恵を求めました。

ソロモンが求めた物は「智恵」一つだけでした。しかし神様は、ソロモンが求めた智恵に加えて、富と栄光も与えられました。神様は言われました。「わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉れをもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。(列王上3:13)」。このように、真心を持って礼拝を捧げることによってソロモンは、もろもろの祝福を受けたのです(列王上3:1〜15)。そして、御心にかなった求めを行った事によって、思いもかけなかった多くの祝福を与えられたのです。

 

2.少なく捧げても多く与えられる恵み

次に、神様の恵みは、たとえ少ない捧げ物であっても、祝福し、多くを増し加えてくださる恵みであることを知る事が出来ます。列王記上17:8〜14を読んでみましょう。ザレパテに遣わされた預言者エリヤは、一人の寡婦に出会います。干ばつによる飢饉で、明日をも知れない中で寡婦は、神の人エリヤの言葉に従い一握りのパンを捧げました。この寡婦の信仰を神様は多くの祝福によって報いられました。寡婦の家のパン粉と油は尽きる事なく、その後も絶える事なく恵みを施されたのです。このザレパテの寡婦は、厳しい状況の中にあっても、神様を信じました。そして一握りの小さな物であっても信仰をもって捧げた結果、神様からの豊かな恵みを味わうことが出来たのです。

また、ヨハネ6:6〜14節を通して、一人の少年が捧げた麦のパン五つと魚二匹が豊かな祝福を受けた事を私たちは知っています。少年の持つパンがイエス様の御手に委ねられた時、大きな奇跡が起こりました。聖書には男性だけで5000人と記されていますが、女子を含めたなら、どれほど多くの人々がお腹を満たす事ができたのでしょう。しかも皆が十分に食べた後に残ったものを集めた時、12のかごに集めるほどの大いなる祝福のわざが起こりました。これらのことから、神様は、たとえ小さな捧げものであっても、少ない捧げものであっても、その純粋な信仰の故に多くのものを持って報いてくださるのです。

 

3.惜しむことなく与えてくださる恵み。

神様は、実に太っ腹なお方です。荒野の旅路でイスラエルの人々に惜しむことなくマナをあたえられました。イスラエルの民の数に合わせてぴったりの量を与えたのではなく、ふんだんに、しかも溢れるほどに与えられました。また神様は、イスラエルの人々が「水が飲みたい」と言えば、水を豊かに与え、「肉が食べたい」と言えば、ウズラの群れを呼び集めてイスラエルの陣営の中に落とされました。イスラエルの民のつぶやきや、不平不満の罪にも関わらず、十分な量を備えられたのです。

しかもその肉を彼らが口にしたのは、一日や二日だけではありませんでした。一ヶ月もの間食べても食べても肉が残りました。その肉の臭いが体に染付くまで与えられた様子が聖書に記されています。「一ヶ月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、私たちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである。(民数記11:20)」

ルカ6:38節は、神様が「ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。」と、惜しみなく与えて下さる方である事を私たちに教えています。

4.予想外に与えられる恵み。

ペテロは夜を通しながら漁をしましたが全く獲ることが出来ませんでしたし。しかし主の御言葉に従って網を下ろしました(ルカ5:5)。その時、ペテロの想像もしなかった状況が起りました。漁の網が破れるのではないかと思われるほどの多くの魚が網にかかったのです。

また、サウロはある日、父キシの言いつけで、いなくなった雌ロバを捜しに出かけた時、意外にもイスラエルの王に選ばれる恵みを受けられたのです(サムエル上10:1〜2)。これらは、どちらも予想外の出来事であり、神様の恵みのわざです。

 

結論:すべてのことに満ちあふれる恵みとは、
1) 一つを求めても多くを与えられる恵みであり、一つを捧げても増し加えられ与えられる恵みです。
2)
少なく捧げても多く与えられる恵みです。
3) 惜しまれる事なく豊かに与えられる恵みです。
4) 想像以上に与えてくださる恵みです。

このような満ち溢れる恵みを受けるならば、喜びに満たされます。そして、すべてが輝いて見えるでしょう。その時、私たちの思いは、只ただ感謝しかありません。また、すべての事に満ち溢れる恵みを受ける時、私たちの心に愛が満ち溢れます。溢れ流れる愛はいかなる隔ての壁も分裂も一つにします。すべての事に変化が起こります。信仰生活が活力にみなぎり、前進があり向上します。何を行うにも希望に満ち溢れ、勇気がわいてくるのです。

この豊かな恵みがあなたの生活の中に、家庭の中に、そして信仰の歩みの中に満ちあふれることができますように、主の御名によって祝福します。

 


NEXT BACKHOME