さて、一同はエルサレムへ上る途上にあったが、イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。するとイエスはまた十二弟子を呼び寄せて、自分の身に起ろうとすることについて語りはじめられた、「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」。 −マルコ10:32〜34−
序論:人類の歴史を振り返ってみると、常に開拓者となって先頭に立つ人がいたからこそ発展するに至ったと言えるでしょう。キリスト教の歴史においてもそれは同じです。また、教会の中でも先頭に立って奉仕し、伝道のために働く人たちがいるからこそリバイバルのわざが起るのです。「先頭に立つ」と言うことは、「道案内」することであり、「先駆者」になることです。確かに先頭に立つ人は風当たりを強く受け、犠牲が伴います。しかし、犠牲を払う事をすべての人々が恐れたなら、この世界の文明も、キリスト教の宣教も立ち消えてしまうことでしょう。
自然を通しても、私たちは多くの学びを受ける事が出来ます。雁は空を飛ぶ時に秩序良く「V」字を描いて乱れることなく飛んでいきます。それは先頭の雁が羽ばたく事によって後方の雁はその気流に乗って容易に飛ぶ事ができるのです。そして、途中、先頭の雁が疲れると、後方に移ります。それまで先頭の雁のすぐ後ろを飛んでいた雁が入れ替わりに先頭の位置に就き、役割を果たすのです。このように、キリストの御旗を掲げ進み行く私たちも、潔い信仰を持って、神の民としての行軍を、互いに担い合い、一人一人が先頭に立って進み行くべきではないでしょうか。今日、与えられた御言葉を通して、先頭に立つ者としてのビジョンを頂きましょう。
1.先頭に立って行かれるイエス様。
イエス・キリストは公生涯の最後にエルサレムに上られました。その道すがら、エルサレムで受けるべき出来事を弟子たちにお知らせになりました。しかし悲しいかな、弟子たちはその御言葉を悟ることが出来ませんでした。実際イエス様は、エルサレムで受ける苦しみについて、本文を含めて三度弟子たちに語られました。
初めは、カイザリヤのピリポ地方で、ペテロが信仰告白をした後に語り(マタイ16:21〜28、マルコ8:31〜38)、二度目は、ガリラヤで、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され,そして、三日目によみがえるであろう」と言われました(マタイ17:22〜23、マルコ9:30〜32、ルカ9:44〜45)。しかし弟子たちは、苦難を受ける為にエルサレムに上るイエス様の心境を量り知ることは出来ませんでした。一番近しい弟子だからこそ、主の御心を知って、真心を尽くして、信仰によって従うべきではなかったでしょうか。しかし、主の御心を悟り、「我こそは」、と先頭だって進む者は一人もいませんでした。それどころか、先頭を行くイエス様の後ろを怯えつつ恐れつつ歩んでいました。
そんな弟子たちの心を知るイエス様のお心がどれほど寂しく、苦しかったことでしょうか。イエス様は、恐れ怖じ惑う弟子たちの先頭に立ってエルサレムに向って上られました。あがない主として、世の罪を背負い、生贄の子羊としてほふられるためにエルサレムに上られたのです(ヨハネ1:29、第一コリント5:7)。イエス様は、私たちの弱さも、足りなさも、すべてをご存知で、先頭に立って歩んで下さるお方です。しかし、イエス様のお心を悟り、御苦しみを知る者となったならば、私たちがイエス様の御足の代わりに先頭を歩く足となることを父なる神様は願われているのではないでしょうか。
2.信仰があってこそ先頭に立つ事が出来る。
旧約聖書に登場するペリシテ軍の大将ゴリアテと、羊飼いの少年ダビデの戦いは、知らない人は少ないでしょう。その背景はこうです。ペリシテがイスラエルに攻めて来たとき、ゴリアテのためにイスラエルの人々は皆恐れ震えていました(サムエル上17:8〜18)。少年であったダビデは、父の使いで、兄たちのいる陣へ行き、その光景を目撃しました。ダビデは、ゴリアテがイスラエルの軍隊を侮辱するのを聞き、「割礼の無いペリシテは何者なので、生ける神の軍隊を挑むのか。」と言い、ゴリアテと戦うために出て行きました(サムエル上17:26)。そこで、少年ダビデは剣の代わりに、万軍の主なる神の名を持ってゴリアテを石つぶてで撃ち殺しました。そしてゴリアテの剣を持って彼の首を切りおとし、サウロ王の所に持っていきました(サムエル上17:45〜51)。
なにをしてダビデをイスラエルの先頭を行かせたのでしょうか。それは彼の「信仰」でした。信仰は、私たちに勇気を与えます。信仰の力は大きなダイナマイトに勝る勢いがあります。ダビデは、ほんの小さな少年であり、戦いの経験も力も何も持ってはいませんでした。戦い慣れたゴリアテには、小さな犬同然でした。しかしダビデは心配して止めようとする王を説得し、単身戦いに挑んで行きました(サムエル上17:33〜37)。彼はただ、神様に対する信頼と信仰だけを持って出て行ったのです。
教会生活も信仰があってこそ先頭に立つことが出来ます。御言葉による確信がなければ、常に人の顔色をうかがうだけで、先頭に立つ事は出来ません。信仰によって先頭に立つ人は、神様を褒め称える事ができます。そのような人が神様を愛する人です。そして、神様は、それらの人に対して恵みを与える事を惜しまれません。
3.先頭に立つ信仰とはチャレンジする信仰です。
モーセ率いるイスラエルの民がエジプトの地を脱出し、40年間荒野を旅しました。しかし、エジプトを出立した人々の中で目指すカナンの地に足を踏み入れる事が出来たのは、カレブとヨシュアの二人だけでした。このカレブは、40歳の時に、偵察隊の一人としてカナンの地を探り、その後40年間荒野で生活しました。やがてカナンの地で5年間の戦いを終えた時、彼の年齢は85歳でした。
その時、カレブはヨシュアに対して、モーセを通して神様から与えられた約束の地ヘブロンの山地を求めました。ところが、実際その地には、既にアナクの人々が住んでいたのです。アナク人らの城は堅固で難攻不落の要塞でした。しかしカレブは「神様が共にいれば彼らを追い払うことが出来る」と言い(ヨシュア14:12)信仰を持って戦いに挑みました。そして、ついにアナクの子孫を追い払い、その地を手に入れることができたのです(ヨシュア14:13)。
85歳という高齢にありながらカレブはこう語りました。「モーセが神様の恵みの中でわたしをつかわした日のように健やかである」と(ヨシュア14:11)。カレブがヘブロンを征服した事によってイスラエルの十二部族は20年間戦争のない平和な時代を送ることが出来ました(ヨシュア14:15)。それは何故でしょうか。イスラエルの十二部族の中で、カレブが先頭に立った故です。それが、どれ程イスラエルの人々に幸いを与えたことでしょうか。私たちの教会にも、困難の時に先頭に立って働いてくれた人々がいました。彼らの働きによって、今日も平安の中に保たれているのです。
イギリスにマロリラと言う登山家がいました。彼はエベレスト登山に何度もチャレンジしましたが、遭難してしまいました。彼と共にエベレスト登山に赴き、大切な仲間であるマロリラを失って下山した登山家たちは、後にエベレスト山の写真にこう記しています。「エベレストよ、おまえは三回わたしたちに敗北を味あわせた。しかしわたしたちは必ず勝利するだろう。何故なら、おまえはもう高くなれないからである」と。これは、「エベレスト山の高さは今以上は高くならないが、自分たちの夢と力は日々高まる。それゆえ、必ずいつかは征服することができる。」と言う偉大なチャレンジ精神を示しました。
アメリカのジョンソン大統領は、「すべての問題が解決できるなら、成就されるべきものは一つもない。」と言われました。「問題があるからこそ実現があり、難問がなければ、あえてそれを克服し、実現しようとする人が起らないだろう」と言うことです。
結論:エルサレムに向って進まれたイエス様、問題に立ち向い、その問題を解くために、先頭に立って行くイエス様の信仰に習いましょう。イエス様は、父なる神の命令が永遠の命であると確信し、先頭に立って歩まれました。私たちも、イエス様の御旨を成す為に先頭に立つ者となりましょう。そして、神様が、教会が必要としているところへ先駆ける者となりましょう。信仰に裏打ちされた勇気と、チャレンジ精神を持って献身しましょう。イエス・キリストの美旗を掲げ、天の国に凱旋する時も先頭に立つ皆様でありますように、主の御名によって祝福します。
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