見よ、レカブの子孫の従順を |
序論:旧約において神様は、イスラエルの民のもとに数多くの預言者たちを遣わして神の御言葉を語らせ、偶像を拝まないようにと、幾度も様々な働きがけを行いました。しかし、イスラエルの民は神様の御言葉を心に留めることなく、偶像を拝む罪をおかし、神様の命令に背き続けました。そのような中、神様は、彼らの信仰の姿勢が如何に間違った事であるかを知らせる為に、レカブの子孫を用いて、神様に従順する正しい信仰のあり方をイスラエルの人々に示されました。 今日の説教のタイトル「見よ、レカブの子孫の従順を」との御言葉は、イスラエルの民に向けて語られたメッセージであると同時に、今もまた、神様を信じる私たちに向かって「見よ、未信者たちの生き方を」と、語られているのではないでしょうか。神様が選んだ民に、己の間違った信仰を気付かせる為に語られた御言葉を、私たちも真摯に耳を傾けるべきではないでしょうか。 今日の御言葉の本文中に、酒について記されていますが、ここでは酒を飲む飲まないの善し悪しを問うているのではなく、神様の語られた御言葉に彼らがどのように従ったのかという事が最も重要な問題です。神様がイスラエルの民を教える為にレカブの子孫を用いたとするならば、このレカブの子孫の働きが神様から認められていると言う事になります。何故、神様はイスラエルの民を正すために、異邦人を用いられたのかと不思議に思われるかも知れません。 しかしどうでしょうか、私たちもイスラエルの人々から見れば異邦人にすぎません。血肉による兄弟でもなければ、何の関わりもないのです。ただ、父なる神様の憐れみと、イエス・キリストによるあがないを受けて、今や神の子とされました。そして神様の恵みによって多くの人々への証人として立てられ、遣わされているのです。 私たちも、神様に選ばれた民としておごり高ぶる事なく、エレミヤ3:1〜19の御言葉から、レカブの子孫の従順について学びたいと思います。このレカブの子孫がどのようものだったので、神様から認められるに至ったのでしょうか。
1. 月日が流れても変わらない従順であった。 「レカブびとの家に行って、彼らに酒を飲ませるように」との御言葉が預言者エレミヤに臨みました。エレミヤが行って、主が言われた通り、レカブびとの前に酒を満たしたつぼと杯を置き、彼らに「飲みなさい」と言った時、彼らは「われわれは酒を飲みません。それはレカブの子であるわれわれの先祖ヨナダブがわれわれに命じて、『あなたがたとあなたがたの子孫はいつまでも酒を飲んではならない。また家を建てず、種もまかず、またぶどう畑を植えてはならないまたこれを所有してはならない。あなた方は生きながらえる間は幕屋に住んでいなさい。そうするならば、あなた方はその宿っている地に長く生きる事が出来ると言ったからです』と答え、ヨナダブが命じたこれらの事を自分たちは、ずっと守り行って来た事を述べました。 ヨナダブが子孫たちに「酒を飲んではならない」と命じた時から、エレミヤによって「酒を飲みなさい」と言われるまで、300年もの歳月が流れていました。その時代、ヨナダブから直接命ぜられた者は、当然すでに世を去っています。一代30年としても、約10世代に渡って、彼らはヨナダブの命令を守って来た事になります。神様から遣わされた預言者であるエレミヤから「神様が『飲むように』と言っておられる」と言われても、彼らは断固として、先祖代々守って来た命令に背きませんでした。 彼らの従順さの何とあっぱれな事でしょう。彼らは300年変わりなく、神様の御言葉の通り守り続けたのです。先祖による信仰に在る命令を聞く彼らが、神様の御言葉を聞かないはずはありません。親の話しを聞かない者は、神様の話しも聞きません。まして300年も前に語られた先祖の命令をどうして聞くでしょうか。 「レカブの子ヨナダブがその子孫に酒を飲むなと命じた言葉は守られてきた(エレミヤ35:14)」と、神様御自身がお認めになりました。まさしく彼らの信仰は、どんなに月日が経っても変わることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。今日語られたら、一日ぐらいは守る事が出来るかも知れません。しかし、二日、三日、一週間、二週間、一ヶ月、二ヶ月、一年、二年経つならどうでしょうか。何年も前に聞いた御言葉が、今も心に残って働いているでしょうか。かなしいかな、私たちの記憶は、月日の経過と共に薄れてしまいます。 ところが、このレカブの子孫たちの従順は、どんなに月日が流れても、変わることも薄れることもありませんでした。だからこそ神様は、このレカブの子孫たちを用いてイスラエルの人々に語られたのです。それに比べイスラエルの民は、語られた時は守るが、月日の経過と共に正しい道から逸れる事の繰り返しでした。それは決して神様に選ばれた者の取るべき信仰の姿勢ではありません。 では、私たちはどうでしょう。御言葉を聞いてしばらくは、神様のご命令に従順することが出来ます。しかし、長い月日の中で、はやりイスラエルの民と同じような過ちを繰り返してはいないでしょうか。神様が認める従順とは、どんなに月日が流れても変わらない従順である、と聖書は語っています。今日、私たちもレカブの子孫と同じように、変わらない従順さを神様の前に示す必要があるのではないでしょうか。 2. 代々に変わらない従順であった。 次に、レカブの子孫の従順さは、代々変わらないものであったことを知ることが出来ます。彼らの従順は「月日」という時間の概念をも遥かに越えたものでした。すなわち、この世が存在する限り、彼らは「酒を飲むな」と先祖から自分に与えられた命令を厳守することに努めました。 300年もの長い年月に先祖からの命令を守り行う中、彼らのもとに神様から遣わされた預言者エレミヤから「酒を飲みなさい」と言われた時、彼らは「われわれは酒を飲みません」と即座に答えています。そこには微塵のためらいも表れていません。すなわち、彼らの従順が300年という年月で終止したのではなく、彼らの中に永続的な従順、世々限りない従順の姿勢が表れています。その姿を前に、神様はどれほど喜ばれたでしょうか。 イスラエルの民がカナンに定着し、ヨシュアと共にいた長老たちが生きていた時は、彼らは神様の御言葉に聞き従っていました。偶像を崇拝することは決してありませんでした。ところが、ヨシュアや、長老が世を去るとすぐ、偶像を拝み始めました。聖書にこう記されています。「イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また主がイスラエルのために行われたもろもろのことを知っていて、ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた。(ヨシュア24:31)」 神様は、その彼らの不従順に耐えかねてエレミヤを遣わし「見よ、レカブの子孫の従順を」と語らせたのです。自分の子どもを正しく諭す為に、他人の子どもを用いるのは、親としてなんと情けないことでしょう。 信じる、信じないという境目は何だと思いますか?。「神様を信じてバプテスマを受けること」が信じることでしょうか。確かに、それも信じることでしょう。しかしそれだけではありません。神様を信じるとは、レカブの子孫がそうであったように、月日が流れても、時代が変わっても、未来永劫に変わらない御言葉に対する従順な姿勢を持つ事です。
3. 一度の命令を代々守り抜きました。 レカブの子ヨナダブに語られた命令はただの一度きりでした。 また、彼らは300年もの間、自分の家を持ちませんでした。自分の家を持たないというのは、生活の基盤をこの世に置かず、自らの力を誇示する事なく、すべてを委ねている証ではないでしょうか。夜は厳寒の中で過ごし、昼は猛暑の中で過ごしていました。そのような生活を300年行っていたのです。決して容易に出来る事ではありません。しかも、その生活スタイルを変える事なく、子に孫に存続させてきた家庭教育の徹底ぶりは見事なものです。それだけ彼らは先祖から語られた、信仰にある命令を大切にしてきたという事でしょう。 そのような彼らに対して神様が報われないはずがありません。神様はエレミヤを通して彼らにこのように語られました。「あなたがたは先祖ヨナダブの命に従い、そのすべての戒めを守り、彼があなた方に命じた事を行った。それゆえ、万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも欠けることはない」と。 世々神様に従順する者には、神様の祝福も世々与えられるのです。私たちは自分の子に信仰の継承を行っているでしょうか。世々ということは、決して自分の代で終えることではありません。子に伝え、孫に伝え、その継続をもって世々につながるのです。箴言22:6にこう記されています。「子をそのいくべき道に従って教えよ。そうすれば、年老いてもそれを離れる事がない。」 結論:レカブの子孫の従順は、様々な試練を乗り越えた従順でした。神様は、預言者エレミヤを用いてレカブの子孫の信仰を試みました。しかしレカブの子孫は、先祖伝来守ってきた信仰の姿勢を貫きました。 ヨナダブの子孫は、神様の前に欠かける事がなく、永遠に栄える祝福を受けました。彼らは自分の思いによって生きる事なく、成功の為の近道を模索しようとはしませんでした。 私たちは、どこに自分の人生をかけるでしょうか。「見よ、レカブの子孫の従順を」と、神様は今私たちに、御言葉にしっかり立って従って行く事、いつでも変わらない真理の御言葉に人生をかけるようにと語っておられます。皆様お一人ひとりが、決して滅びる事のない神様の守りと祝福によって、日々栄える恵みに満たされて生きる事が出来ますように、主の御名によって祝福します。 |