2006.2.19(主日礼拝)

ヤコブが迎えた朝日
創世記32:21〜32



序論:本文中に出て来る「ペニエル」という地名は「神の顔」という意味を持っています。ヘブライ人は、人が神の顔を拝すれば必ず死ぬと信じていました。しかし、ヤコブは、自分が神の顔を拝見したのにも関わらず、死ななかった事に対して喜びと感動を覚えました。そして感謝の気持ちを込めて、その所の名をベニエルと名づけました。

 ヤコブが、ハランに住む叔父ラバンのもとで生活してから20年の歳月が流れた時、神様から「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい」との命令を受けました。その命令に従いヤコブは、他国での生活を清算し、いよいよ自分の故郷へ向けて出発しました。大きな成功を遂げて故郷に戻ることは、本来は最も喜ばしい事です。しかし、ヤコブにとっては例外でした。なぜなら故郷には、彼の命を狙っている兄エサウが暮らしていたからです。

 恐れと不安でいっぱいだったヤコブの心が、目的地を目の前にしたベニエルという地で劇的に変化ました。一体何が起ったのでしょう。それは「彼の上に日がのぼった」のです。これは、ヤコブがヤポク川で「神と人とに、力を争って勝った」事によるしるしでした。勝利をおさめたヤコブが迎えた朝はいかなる朝であったのでしょうか?

 

1.生きておられる神を体験する朝

 ヤコブは、事前にすべての財産と家族を送り出し、自分一人ヤポクの川に一人残り、その場所で、彼はひとりの人と夜通し組打ちしました(創世記32:24)。

 20年前に兄エサウから長子の特権を奪い、祝福を騙しとってエサウの憎しみを買うはめになり、あまつさえ命までも狙われている場所へ、どうして帰りたいなどと思うでしょうか。しかし、神様からの命令である以上従わざるを得ません。その兄との対面を前にしてヤコブの心中や如何であった事でしょうか。

 そのような緊迫した状況でヤコブは、生きておられる神様に会いました。ヤコブが神様と会ったのは、静かな黙想の中ではありませんでした。激しい格闘の末にヤコブは、神様と会い、新しい朝をむかえました。神様とヤコブが行った組打ちは、ヤコブのすべてを懸けた祈りであったことでしょう。必死とは、まさにこの時のヤコブを表しているのではないでしょうか。神様にしがみついて、離れない。そんなヤコブの祈りに、神様が答えて下さったのです。

 ヤコブがベニエルでむかえた朝は、生きておられる神様を全身全霊で体感した朝でした。そして、彼が生涯忘れる事のできない感動の朝でした。神様は、ヤコブの問題を解決するために、その晩ヤボクの川に表れて下さいました。私たちも、乗り越えなければならないヤボクの川のような、解決しなければならない問題はないでしょうか。恐れの故に、不安の故に、問題を先送りしてはいませんか?ヤコブに現れて下さった神様は、今も生きておられます。ヤコブのように神様にすべてをかけて切に祈るなら、神様は私たちの問題も解決して下さいます。その時、生きておられる神様を体験する事が出来るのです。


2.名前がかわる朝です

 ヤポクの川で神様に出会ってヤコブは変わりました。「不信」「ずる賢さ」「卑劣」を意味する「ヤコブ」という名は、もう彼にふさわしくありません。神様と争って勝った彼には「神様の統治」「勝利」という意味の「イスラエル」の名が与えられました。この名前は、将来形成されるべき、「神の国の民」を総称する呼び名となります。

 元来ヤコブは、自己中心的でずる賢い男でした。それによって様々な過ちや失敗を繰り返して来ました。結果、故郷を離れ、追われる身となり、苦難によって綴られた半生を送らざるを得ませんでした。しかし、神様がヤポクの川でヤコブに会って下さった事によって彼の人生は一変しました。

 ペニエルで新しい朝を迎えたヤコブは、自分に向かってくる兄エサウに大胆に向かいました。そして、エサウに会うや、彼は、7たび身を地にかがめて兄に近づきました。これは、ヤコブの謙遜さを示しています。昔、一時の食欲を満たす為に、大切な長子の特権を一杯のお粥と取り替えた兄エサウの行動をせせら笑い、蔑視したであろうヤコブは、もはやそこにはありませんでした。ヤコブはヤポク川の体験を通して確かに変わったのです。

 エサウが宿敵ヤコブと対面した時、そこにはもう「ヤコブ」は存在しませんでした。エサウが出会ったのは、一度死んで、新しく神様から命を与えられた「イスラエル」その人でした。


3.死から命へと生まれ変わった朝です

 ヤポク川に朝日が昇った時、ヤコブは死から命へと移されました。生まれ変わった事の代償に与えられたのは、もものつがいが外された事による激しい痛みでした。ヤコブの上に日が昇った後も「彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた(創世記32:31)」。

 ヤコブの足の不自由さは、彼が真に新しくされた事のしるしとなりました。なぜなら、今までは自分の思いのままに行動して来た彼が、ももを引きずりながら歩くごとに、神様と出会った体験、新しく生まれ変わった朝をまざまざと思い起こす事になるからです。確かにヤコブの身体は不自由になりました。しかし、行いの先祖として神様の栄光の為に用いられたヤコブは真の自由を得たのです。

 ペニエルの朝日を迎えた時、彼の古き人は、もものつがいと共に打たれて外れてしまいました。私たちも、人間的な智恵にしたがって生きて来た古い人を捨てなければなりません。約束の民として、神様だけを信じ、御霊の導きに従って歩む新しい人となるべきです(エペソ4:22〜24)。

 

結論:太陽は必ず昇ります。どこであれ、誰であれ、陽は昇るでしょう。しかし、ペニエルに昇った朝日はヤコブのためのものでした。その朝日は、ヤコブの進むべき道を照らす光となり、彼の新しい人生を祝福するものでした。

 ヤコブが体験したこれらの祝福が、皆様の上にも等しくありますように。過去に犯した過ちも、苦い記憶も、すべてを清算し、新たに出発しましょう。隣人の過ちや咎を暴いたり、批判するのではなく、赦し、受け入れ、憐れみ、愛する事が出来る暖かい朝の光が、皆様一人ひとりの心の空に照り輝きますように、主の御名によってお祈りします。


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