私の歩みは真実であったのか? |
序論:「アーメン」という言葉の意味は「真実」というヘブル語です。ですから、私たちが祈りの時に「アーメン」と言うのは、「それは真実です」と、神様に告白しているのです。実は、イエス様もこの「アーメン」を語られました。聖書の中に、イエス様が弟子たちに向かって「よくよくあなたがたに言っておく」と言われていますが、この「よくよく」が「アーメン、アーメン」という言葉で語られているのです。 このようにイエス様が「真実に、真実に」と語られたのは何故でしょうか。イエス様は、弟子たちの弱さを知っておられました。目の前の弟子たちがやがて主のもとを離れ、逃げ去って行く事を確かにご存知でした。イエス様が語られた命の御言葉を彼らが捨て去る日が来る事を分かっておられたのです。 神様の御言葉が語られても、それを受け取るものがいなければ、道ばたに落ちた種のように鳥が来て取られてしまいます。命の御言葉は決して地に落ちてはならないのです。それ故、御言葉の奥義を悟ることが出来ない弟子たちに代わって、イエス様御自身が御言葉の真実を前もって告白し、「よくよく(アーメン、アーメン)あなたに言っておく」と言いながら、心の両手で御言葉を受けられたのです(ヨハネ1:51)。私たちも御言葉を伝える時、自分自身がその御言葉を信じ、御言葉によって恵まれて語るのでなければ、意味がありません。神様の御言葉は真実です、と自ら信仰を持って語るべきです。 今日のメッセージの主題である「私の歩みが真実であったのか」の問いは同時に「私の歩みがアーメンであったのか」という問いでもあります。この問いに、私たちはどう答えるのでしょうか。語られる御言葉に対して常に「アーメン」と答えてきたでしょうか。自分の心に合う御言葉が語られれば「アーメン」といい、そうでなければ口を閉ざしてきた私たちではないでしょうか。 儀礼的に「アーメン」とだけ唱え、その人の歩みが真実でないなら、その人は偽る者であって、真実はその人の中にありません。私たちは、イエス・キリストの十字架によるあがないを受け、神様からの救いに与り、清められた存在です。ならば、語る言葉は常に真実でなければなりません。そして、神様の御言葉の前では全て「しかり」であるべきです。神様の祝福は、「はい」と答える所に満たされている事を聖書は私たちに示しています。 今日、神様は私たちに「あなたがたの歩みは真実であったのか?」と問われています。私たちは果たして神様の前に、真実な生活を行ってきたでしょうか。それとも偽りの生活を行ってきたのでしょうか。罪の中にあった時は過ちも犯し、偽りがあったかも知れません。しかし、今や恵みに与った者として神様の前に真実を示すべきではないでしょうか。では、真実な歩みを行う為に、私たちはどのようにすればよいのでしょうか。また「アーメン」の生活とは、どのような生活でしょうか。
1.アーメンの歩みは、偽りのないまことの生活を意味します アーメンの歩みは偽りのないまことの生活です。偽りのない歩みとは、イエス様のように、「自分を無にすること」です。イエス様はいつも御自分を無にしておられました(ピリピ2:7)。その事によって、すべてを赦され、受け入れたのです。イエス様は、罪ある者も、病んでいる者も、貧しい者も分け隔てなく迎え入れて下さいました。私たちも、そのようなイエス様にならう者とならなければなりません(ピリピ2:5)。 また、偽りがないというのは「純粋な心」を意味します。この「純粋」な心が「アーメン」の心です。そのような歩みに神様の祝福は留まるのです。心の純粋な人は、「入るときも出るときも祝福を受け、手と足は祝福を受ける(申命記14:29、詩篇121:8)」のです。祝福はその人のみに留まる事なく、祝福を受けた人の傍にいる者にも祝福がもたらされます。純粋な心をもって真実の生活を行う人の生活は祝福が絶えません。 パウロはどうだったでしょうか。彼自身は富も名誉も何一つ持ってはいませんでした。しかし、彼はこのように告白しています。「貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての 物を持っている。(第2コリント6:10)」。このように、「アーメン」の生活とは、自分を無にし、純粋な心で神様だけを信頼して、すべてを委ねる事です。
2.アーメンの歩みは何事も主に在って行う歩みです イエス様は、人類のあがないの為の生贄としてこの世に来られる時、天の栄光の座を捨てて、「アーメン」の心で来られました。(マタイ20:28)。また、「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38〜39)と言われました。それは、イエス様をお遣わしになった父なる神様への「アーメン」による応答でした。 イエス様の神様に対する答えはすべて「はい」でした。イエス様こそ「アーメン」たるお方です。イエス様は地上においても、天上においても真実なお方であり、忠実なお方です(黙示録3:14)。「アーメン」とは、まさしくイエス様の真実なご人格を示すものです。 私たち信じる者はどんな事も主の為に行うべきです。パウロは、様々な迫害や試練に遭いながらも福音宣教の務めをまっとうしました。パウロは書簡の中で「わたしは他のだれよりも多く働いた」と告白し、続いて「全てが神の恵みの故に(第1コリント15:10)」と告白しています。すなわち、「自分が一生懸命働いて来られたのは、すべて自分と共にいて下さった神様の恵みである」と述べているのです。全ての栄光を主に帰す信仰、これこそ、真の「アーメン」の歩みです。 世の終わりの時「アーメン」の人は、神様の召しを受けた選ばれし勝利者となる、と聖書は約束しています(黙示録17:14)。
3.アーメンの歩みは御言葉に従順する歩みです アーメンは「真実である」という意味と共に「その通りになることを願います」という告白であると同時に同意を表す言葉でもあります。イエス様は「汝の敵を愛せよ」と言われました。それは、実に容易ならざる御言葉です。 「敵を愛せよ」と同じような御言葉は聖書の中に他にも多く記されています。 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。」というペテロの質問に対してイエス様は、「七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」(マタイ18:22)、「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」と言われました(マタイ18:35)。 イエス様は、ご自分が語られた「敵を愛しなさい」という御言葉を、十字架の上で実践なされました。イエス様を十字架につけた人々、あざ笑う人々、罵倒を浴びせる人々を前に「 父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈られたのです(ルカ23:34)。 私たちは皆イエス様から赦しを受けた者たちです。イエス様の愛に与った者なのです。そのような素晴らしい恩寵を受けた私たちであるならば、敵を愛する事が出来るはずです。もしも、私たちの中に赦す事が出来ない心があるなら、それは真実な歩みではありません。何故なら「アーメン」の歩みは御言葉に従順する歩みだからです。
結論:「アーメン」そのものであるイエス・キリストを心の中に宿らせるなら、私たちの日々の歩みも偽りのない純粋な歩みになります。私たちがイエス様に在って歩むなら、すべての栄光が主に帰されます。そして、イエス様の恩寵と共にあるなら、必ず御言葉に従い歩む事が出来るのです。その時、神様の祝福が私たちにもたらされることでしょう。皆様の歩みが祝福に満たされる歩みとなりますよう主の御名によって祝福します。 |