イエス様は群衆の中の孤独者 |
序論:今日は受難週が始まる「棕櫚(しゅろ)の主日」です。この日、イエス様はエルサレムの人々から熱烈な歓迎を受け,栄光の中で入城されました。しかし、「ダビデの子にホサナ!」と歓呼に湧く群衆に出迎えられながらもイエス様はひとり孤独を感じておられました。何故ならば、今、イエス様を歓迎している彼らが、やがて一週間も経たないうちに「十字架につけろ!」と叫ぶ光景をイエス様はすでに見ておられたからです。 群衆の中の孤独ほど苦しい事はありません。 1.イエス様のエルサレム入城 イエス様がこの世界に来られてから昇天するまでに、エルサレムの宮に登られたのは合計7回でした。一回目は、生まれてから8日目に、しきたりに従って割礼を受けれらた時でした(ルカ2:21〜24)。二回目は、12歳の時、両親に連れられ過越の祭りを守るために上られました。その時、宮の中で学者たちと対話している様子が聖書に記されています(ルカ2:46〜50)。 三回目は、宮の中で売買する人たちの台をくつがえされ、宮きよめの儀式を行われた時です(ヨハネ2:13〜25)。四回目は、38年間歩けなかった病人を癒された時です(ヨハネ5:1〜14)。五回目は、仮庵の祭りに密かに宮に上られた時です(ヨハネ7:2、10)宮で教える時ユダヤ人は「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう。 」と驚きました(ヨハネ7:14〜15)。 六回目の時は、朝早くに宮のぼられ、現場で捕えられた姦淫の女を赦されました(ヨハネ8:2〜11)。最後の七回目がこの棕櫚の日で、イスラエルの人々の歓迎を受けながら栄光の入城をされた時でした。この日、宮の中で盲人と足のなえた人がイエス様から癒しを受けました(マタイ21:14)。 このように、イエス様は生涯を通して七度エルサレムへと入場されましたが、その度ごとに御自身に迫り来る死の影を感じておられた事でしょう。確かに多くの人々がイエス様を喜び、心から歓迎していました。そして多くの病人が癒されました。しかし、そこにイエス様を神の子、救い主として真に信じる人は一人もいませんでした。イエス様の孤独を誰一人理解する者はいませんでした。 イエス様は、御自分がやがて十字架にかけられる事、そして三日後に復活される事について、弟子たちに前もって語られていました。最初は、ピリポ・カイザリア地方で、ペテロによる信仰告白があった後に語られました(マタイ16章)。二度目は、変貌山の出来事の後、ガリラヤで語られ(マタイ17:22〜23)、最後は、エルサレム入城を前にして語られました(マタイ20:17〜19)。 しかし、そのイエス様の言葉は弟子たちの中に留まってはいませんでした。エルサレムに上れば上るほどイエス様の人気は高まり、熱狂的な歓迎ムードの中、弟子たちはそれぞれの思いを抱いていました。イエス様が圧政を受ける民を救う王として君臨される事を願い、自分たちは、高官として召し抱えられる事を期待していた弟子もいたでしょう。イスカリオテのユダにいたっては、ひそかにイエス様を売り渡す事をもくろんでいました。 群衆たちは、イエス様が王となる事によって、先になされた病いの癒しの御わざやパンと魚の奇跡が更にもたらされる事を期待していました。イエス様は、そのような弟子や群集の思いを知って「私の心が騒ぐ」と言われました(ヨハネ12:27、13:21)。
2.イエス様の孤独な心を推し量ろう 受難週の第一日目、数多くの人々から歓迎を受けながらもイエス様の心は騒いで死にそうでした。棕櫚(しゅろ)の木の枝と上着を広げて歓迎する群衆が、四日後には誰一人も残らない事をイエス様は知っておられました。このイエス様のような孤独者は、他のどこにもいないでしょう。自ら創造した世界の中で、自ら創造した人間たちによって捨て去られ、人類すべての罪を身代わりに背負って歩くゴルゴダの丘への道ドロローサは、どんなに重く辛い道程だったでしょうか。 このイエス・キリストの受難は、すでに前もって預言者イザヤを通して預言されていました。ひげをぬかれ、ほおを打たれ、つばをかけられ、顔を背けられる神の子の姿が赤裸々に預言されているのです。(イザヤ50:6)それは、私たちのために受けた苦しみでした。イエス様は、骨や金具がはめ込まれたムチで体中をうたれます(マルコ15:19)。茨の冠をかぶせられ、イエス様の頭からは血がとめどもなく流れます。歓呼の代わりにののしり、あざけり、嘲笑の声があがります。そのような光景が、エルサレム入城のこの時すでにイエス様の目には映っていたのです。 イエス様の故郷の村では人々が「あなたは大工の子どもではないか?」とあざ笑います。イエス様の親戚はイエス様を、「気が狂った」と思い、取り押さえに来ます(マルコ3:21)。また、イエス様を人々は「ナザレ人」と言って嘲笑します(マタイ2:23、マタイ21:11)。宗教指導者たちはイエス様の実家を訪れて母や弟たちに「イエスをなんとかしろ!」と脅迫を行った事でしょう。兄弟たちさえイエス様を信じませんでした。(ヨハネ7:4〜5)。これらのすべての光景を、歓呼に湧く群衆の中でイエス様はただ一人見ておられました。 イエス様より六ヶ月前に聖霊によって生まれ、イエス・キリストを証する為に遣わされたバプテスマのヨハネが、ヘロデ王によって無惨にも首をはねられ殺されました。神の子、救い主を証するはずだったヨハネはもういません。ヨハネの悲報を聞いたイエス様はどれほど辛かったでしょうか。 これらすべての重荷を、苦しみを背負ってイエス様は一足一足十字架に向かって歩いています。そして今もなお、私たちは自分の重荷をイエス様に負わせようとします。世界中の人々の罪や重荷が、イエス様が背負う十字架の重みとなっています。もうイエス様が一歩も進む事が出来ないほどに....。
結論:私たちが、真にイエス様を愛しているならば、イエス様をもう孤独にさせてはなりません。イエス様の御心を推し量って、少しでもイエス様を慰め、いたわる者になりませんか?では、イエス様を孤独にさせない為に私たちは何をするべきでしょうか。それは、イエス様を心から信じる者となることです。そして、イエス様の重荷を少しでも軽減させる事ではないでしょうか。イエス様に負わせていた自分の十字架を、イエス様の肩から下ろし、イエス様と共にその十字架を負って歩みませんか? その十字架とは、イエス様が負われた罪の赦しです。私たちがイエス様がなされたように、私たちも自分の敵を赦し、愛する事です。そして、イエス様が人々を癒されたように、隣人を生かす事です。エルサレムに入城されるイエス様の道程に、真にイエス様を信じ、共に十字架を担う私たち一人ひとりが立つならば、イエス様はもはや群衆の中の孤独者にはならないことでしょう。皆様が、イエス様が喜んで休まれる霊のエルサレム、霊のシオンとなりますよう、主の御名によってお祈りします。 |