死の力が打ち砕かれた日 |
序論:ハレルヤ!今日、皆様と共にイースターを迎える事ができた事を、父る神様に心から感謝します。 イエス様が葬られて三日目の早朝、墓を訪れたマリヤたちが目にしたのは、空の墓と、イエス様の御体を包んでいた布、そして二人の御使いでした。驚き恐れるマリヤたちに御使いが語った言葉は更に女たちを驚かせました。 「あなたがたは、何故生きたかたを死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話になったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され,十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか(ルカ24:5)」。 イエス様の復活なしにキリスト教はありません。もしも、イエス・キリストの復活が作り話であるとしたら、クリスチャンは世界で最も愚かな者たちであり、信仰そのものがすべて無駄なものとなってしまいます。しかし、イエス様の復活は歴史的な事実です。イエス様は御使いが語った通り、よみがえられて、40日間に11度も様々な場所で、数多くの人々の前にそのお姿を現されました。そして眠る者の初穂となって、死の力を打ち砕いた事を証明されたのです。 『クリスマス』は、人類救霊の御わざの始まりの出来事であり、過去に一度起った事です。『復活』は救いの完成であり、現在も進行中の御わざです。今も私たちは、この、主イエス・キリストの復活に与る事ができるのです。今日、与えられた御言葉を通して共に復活の日を体験する恵みに与りたいと思います。
1.キリスト教には墓がありません 私たちの主、イエス・キリストは、よみがえられました。私たち信じる者もイエス様と共に十字架の上で死に、イエス様を信じる信仰によって、イエス様と共によみがえらされ、今も生きて働く主と共に永遠に生きるのです。ですから、キリスト教に墓はありません。あるとしても空の墓だけです。 墓とは死人を葬る所です。生きている者が入る所は「家」です。この世の生を終えて、イエス様の来臨を待ちつつ眠りにつく時があるかも知れません。その時、永遠の命に与っている私たちが入るべきは決して墓などではなく、「家」なのではないでしょうか。一般的な墓石を見ると「誰それの墓」と刻まれているのをよく目にします。私たちは「誰々の家」と刻み、「アーメン、主イエスよ来たりませ(黙示録22:20)」と記すべきではないでしょうか。 神様の御言葉の約束は永遠に変わることがありません。イエス・キリストの復活によって死の力は完全に打ち砕かれてしまいました。「死は勝利にのまれてしまった。死よ,おまえの勝利はどこにあるのか。(第2コリント15:55)」の御言葉が、イエス様の復活によって成就されたことをパウロが感謝をもって、このように告白しています。「しかし、感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである(第2コリント15:57)」と。 私たちは、今まで主の復活をどのように信じてきたのでしょうか。 ところが、イエス様がラザロを葬ってある墓の石を取りのけるよう言われた時に「主よ、もう臭くなっています。四日もたっていますから」と答えたのはこともあろう、つい先ほど「イエス様の復活の力を信じる」と告白したマルタでした。すると、イエス様は「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」と、マルタの不信仰をいさめられ、墓に向って「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばれました。その時、イエス様の御言葉通り、死んだラザロがよみがえって墓の中から出てきたのです。 私たちも信仰をもって教会に集い、真心から御名を誉めたたえ、祈りと感謝を示し、敬虔な心で神様に礼拝を捧げています。しかし、実際に愛する者の死を前にした時に、墓の石を取りのけるようにと言われるイエス様の御言葉に、果たして、何人が「アーメン」と告白し、行動に示す事ができるでしょうか。マルタの姿は、私たちの姿であるかも知れません。 この御言葉を聞いた私たちは,昨日までの復活の信仰を葬りましょう。そして、今日、新たに復活の信仰を持って、神様のお約束を心から信じる者となりましょう。ラザロをよみがえらせた主は、今も私たちを生かしてくださるのです。 「復活」をギリシャ語で「アナスタシス」といい、「 起きなさい」という意味です。 イエス様の復活の御わざが、皆様の生活の中でももたらされ、聖霊の力によって、絶望から希望へ、悲しみが喜びへと変る神様の特別な恩寵があたえられますように。不安や恐れが、憂いのない真の平安に変えられる御わざがありますようにと祈ります。 「これらのことをあなたがたに話したのは,わたしにあって平安を得る為である。あなたがたは、このよではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。(ヨハネ16:33)」
2.復活は、死から命への恵みの御わざをもたらせます。 復活は、死から命へと至らせる恵みの御わざをもたらせます。イエス様は、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と語られました。私たちの人生には時として思いもかけない状況に遭遇する時があります。 目の前が真っ暗になり、命運尽き果てたように感じる事があるかも知れません。しかし、そのような時こそ復活の主を仰ぎ見ましょう。イエス・キリストに望みをおくなら、神様の御わざが信じる者たちに働いて、闇から光へ、絶望から希望へ、そして死から命へと私たちを移して下さり、私たちを脅かすすべての恐れや不安は、主の復活の恵みによって、取り除かれるのです。アブラハムが受けたように、万事に神様の祝福がもたらされる事を信じましょう。 復活の力は、人をも生かす事もできます。ペテロとヨハネが、祈るため宮に上ろうとしていた時、生まれながら足のきかない男が抱えられて来ました。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮野ところに、置かれていたものでした。彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しを求めました。 その時,ペテロとヨハネとは彼をじっと見つめ、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言うと、彼の右手を取って起こしました。すると男は足とくるぶしとが、たちどころに強くなり、躍り上がって立ち、歩き出しました。この、足のきかない男に起った復活したナザレ人イエス・キリストの御わざが、私たちを通して成されるのです。(使徒3:1〜16) 復活節は、悲しみを喜びに変える希望に満ちた祭りです。復活の主をいつも心に迎えている者の顔には輝きがあります。どんなに豊かで、権力があっても、憂いや不安があれば、その顔は沈んでしまいます。 さあ,皆様!たとえ今までの歩みがどうあったとしても、2006年の今日、喜びに満ちあふれて復活の主を迎え入れましょう!復活の恵みが、信仰を復活させ、命溢れた日々の生活をもたらすことでしょう。「あなたの信じた通りになる」と、聖書は語っています。体験しないで、ただ知識だけ持っていても本当の復活の喜びは分かりません。 ワシントン教会に金長老という方がいます。彼は毎年、復活節には決まって、帽子、靴、着る物全てを新しくして礼拝に出席するそうです。復活感謝献金も、新券で捧げる徹底ぶりは圧巻です。この、彼の復活節に対する心構えを、私たちも学ぶべきではないでしょうか。すべて新しい物をあつらえるとまではいかなくても、復活を祝う気持ちを私たちが行いで示すなら、どんなにか神様は喜ばれる事でしょう。 私たちは、神様の前にどのような姿勢で集うべきでしょうか。聖なる神様の前に出るに相応しく、身も心も備えているでしょうか。第1コリント6:19を通してイエス様が「あなた方は知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分のうちにやどっている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである」と語られたように、この体を聖なる体として、保たなければなりません。 イエス様が再臨されるその日まで、私たちの全身と霊と魂が全く傷のないように保つ責任が与えられているのです。全身と霊と魂をきよく保つ為に、私たちは常に復活の信仰によって新たにされなければなりません。心が憂えば、気が塞ぎ、表情が暗くなります。それがやがて体を蝕む事となるのです。私たちが復活の喜びを抱いて生きるならば、全身全霊が健やかに保たれます。 イエス様が私たちに下さった復活の喜びは誰も奪う事ができません。キリストの復活に在って私たちが生かされているのです。すなわちイエス・キリストの復活こそ私たちの希望です。イエス様は私たちの罪の身代わりに,十字架で死なれました。そして、死の力を打ち破り復活されました。その事によって、イエス様の復活は、私の復活となりました。死から命へと移された今、神様の栄光の御わざをたたえずにはいられないのではないでしょうか。
結論: イエス様の復活は、全人類復活の保証です。人類に向けた神様の救いの計画は、永遠の命を与える事です(ヨハネ2:25)。『信じた通りに成る』の御言葉に従って、復活の信仰をしっかりと持って歩みましょう!私たちの人生は、一度罪によって死にました。しかし、復活の主に在って,私たちも再び命が与えられたのです。そして、復活の主が私たちといつまでも共におられ、私たちを守り支えてくださるのです。なんと大きな神様の愛のわざでしょうか。 「だれがキリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。艱難か,苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」 イエス様の復活がなければキリスト教の信仰は虚しいものです。同じように、私たちの中に復活の主を迎え入れていなければ、希望はありません。復活の信仰は私たちに豊かな祝福をもたらす恵みの管です。今日復活の主を迎え入れた皆様に、神様は永遠の命を与えてくださいました。 このイエス様の問いかけに、「はい、主よ、信じます」と心から答える皆様でありますように、主の御名によって祈ります。
|