「わたしの着物にさわったのはだれか」 |
目に見える奇跡だけを信じるなら、いつかは疑いが生じます。ましてや、奇跡だけでは、神様からきたものか、サタンからきたものか、どうやって見分ける事ができるのでしょう。神様から与えられる奇跡は、必ず御言葉の中で起きるのです。 また、「信じる」という事は、奇跡を見る事によってではなく、御言葉を聞いて悟る事によって確かに信じる事ができるのです。何よりも御言葉の中に生きて働かれる神様の全能の力を信じる事こそ、もっとも大いなる奇跡と言えるのではないでしょうか。その奇跡によって、私たちのうちにある病いが癒されるのです。癒されるというよりも、むしろ、神様の御言葉が臨む事によって、体の病いが逃げ出さざるを得なくなるというのが現実でしょう。 ルカによる福音書16:19〜29の中に、金持ちと乞食ラザロの生前の様子と死後の状況について記されています。金持ちは黄泉で苦しんでおり、このような苦しみを家族には味合わせなくないからと、アブラハムのふところにいるラザロを使いに出して、警告を与えに行かせて欲しいと懇願します。しかし、その願いは聞かれる事はありませんでした。アブラハムはこう答えています。 「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう(ルカ16:31)」と。このように、人は、御言葉を悟る事以外、どんな奇跡であろうと信じる事は不可能なのです。 今日与えられた本文に登場する、長血をわずらう女は、どのようにして、その病いから解放されたのでしょうか。イエス様から癒しの恵みに与った、この女の信仰について学び、共に恵みに与りたいと思います。
1.長血を煩う女の信仰 長血をわずらう女は、群衆の中の一人でした。その時代、不浄の者とされていたこの女は、表立って町を歩く事さえもかなわなかったことでしょう。人目を気にしながらも、どうにか群衆や弟子たちに囲まれているイエス様に近づきます。「せめて、み衣にでもさわりさえすれば、きっと癒していただけるだろう」という願いを込めて。 「女にもし、その不淨の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不淨の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不淨の時と同じように、 その女は汚れた者である。」 −レビ記15:25− イエス様は、これから会堂司の家に向うところでした。会堂司の娘が死にかかっており、必死にイエス様に助けを求めたからです。時は刻一刻を争う状況でした。誰が、長血の女のことなど気にとめる者がありましょう。 その場所には、多くの群衆がイエス様の周りにいて、み衣に触れていた者も多くいたはずです。ところが、その場所で癒されたのは、この女一人だけでした。何故でしょうか。それは、女のイエス様に対するまったき信仰の故でした。この時、イエス様は長血の女の病いを癒される御遺志はありませんでした。ご自分から力が出たことによって、初めて、その女の存在に気がつかれたからです。神様の御心を自分に向けるとは、何と素晴らしい信仰でしょうか。 聖書の記述によると、この女は、12年間も長血をわずらい続け、多くの医者にかかって、苦しめられ、持ち物をみな費やしても、何のかいもなく、なおも病状は悪くなる一方だった、と記されています。12年間、何と長い月日を病いと共に過ごしてきたのでしょうか。 上述したように、血の流出がある者は汚れた者とされ、人と接触することが出来ませんでした。家族や友人でさえも、彼女のもとを去った事でしょう。健康もなく、財産もなく、愛される事もない、完全に外界と遮断された孤独と絶望の中で一人寂しく暮らしていたに違いありません。その女が、一筋の希望の光を見ました。それが、イエス・キリストに対する信仰でした。 イエス様が、この世界に来られたのは、すべての人の病いを負う為でした。聖書の以下の箇所にこう記されています。 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」 −イザヤ53:4− 「これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた。」と言われた言葉が成就するためである。」 −マタイ8:17− イエス様には権威と勢い、そして力があります。それらの力は、愛と憐れみとによって、罪ある人々に対して備えられているものです。私たちが、信仰によって求めるなら、私たちに霊肉の健やかさを与えて下さる事を、神様は、この長血をわずらう女に起った御わざを通して示して下さったのではないでしょうか。たとえどんなに、イエス様から命の水が川のように流れていても、その水をすくう入れ物がなければ、飲む事が出来ません。その入れ物こそ『信仰』なのです。 神様の恵みがすべての場所に満ち溢れている事を信じなければなりません。私たちが、今日も生かされている事自体、大いなる神様の御恵みなのです。そのような、神様の力を信仰によって悟るとき、私たちのうちに大いなる御わざがあらわれるのです。 「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」−ローマ1:20− 「話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。」−詩篇19:1〜8−(3〜4) カトリック教会が用いている聖書外典の「ニコデモ書」や「ユセピウス書」の中に、この長血をわずらう女についての詳細な記述があります。それらによると、この女の名前は『ベロニカ』で、イエス様によって病いが癒された彼女は、後に伝道者となる決心をします。そして、イエス様がピラトの法廷に立たされた時、弟子はおろか、誰もイエス様を弁護する者がいない中、このベロニカが進み出て「イエス様は確かに神様です」と告白し、多くの人々を驚かせた、と、記されています。 また、ゴルゴダの丘を血まみれになって歩くイエス様の傍で、その血を拭いながらついて行くベロニカに、イエス様が「娘よ、断じてあなたの報いを忘れない」とお声をかけられた様子も記されています。 今私たちは、直接イエス様のみ衣に触れる事は出来ません。しかし、御言葉の力が信じる者の中に必ず働く事を信じるなら、この長血をわずらう女が病いから解放されたように、私たちも霊肉の病いが癒されることを信じましょう。そして、ベロニカが、イエス様に従い通したように、イエス様の十字架の血潮によって、救いを与った私たちも、主の体なる教会と、御国の為にすべてを捧げ、仕える事ができますように。
1) 人間としての尊厳までも失われた女でした。 この女に、愛する夫や子があったでしょうか。家族や友人に囲まれ、笑いや喜びがあったでしょうか。社会的保障もなく、頼みの綱であるはずの医者からも騙されて、財産も何もかも失った上、病いによって衰弱し、体からは悪臭が漂う一人の弱い女でした。私たちは今、隣人と共に座っています。しかし、この女には「共に」する者が誰一人いなかったのです。世の中で「ひとりぼっち」ほど、不幸な事はないでしょう。 私たちは、家庭で、教会で、職場で、学校で、私たちと共にいる人々がある事を、神様に感謝すべきではないでしょうか。どんな苦しみの中にも、あきらめる事なくイエス様にすべてをかけた長血の女のように、私たちも、イエス様の御言葉にすべてをかけましょう! 2) イエス様に近づく事が困難な女でした。 この女は、12年間も血の漏出が絶えずありました。体から漂う悪臭は、洗っても洗っても、消える事はなかったでしょう。イエス様の噂を聞いて、どうしかしてイエス様に会って、この病いを癒してもらいたい、と切なる思いで機会を待ち望んでいたはずです。ところが、いざイエス様がいると聞いて出て行くも、あまりにも多い群衆にさえぎられ、イエス様に近づく事ができません。ようやくイエス様が見える所まで近寄っても、恐れと戸惑いが彼女の思いをよぎったのではないでしょうか。 しかし、女は決断します、「せめて、み衣にでもさわりさえすれば、きっと癒していただけるだろう」と。イエス様の周りには大勢の人々がひしめいていましたから、当然、イエス様の衣に触れていた者も多くいたのです。しかし、信仰を持ってみ衣に触れたこの女だけが癒されたのです。
「わたしの着物にさわったのはだれか」というイエス様の御言葉は、この女に証の機会を与える御言葉でした。その機会を逃す事なく、女は、多くの人々の前で、自分の身に起った事実を証しました。 「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。(マルコ5:33)」 この「恐れおののきながら」という女の心情は、神様を畏れる心、イエス様に対する敬虔な信仰のあらわれです。まさに、イエス様から語られる御言葉は、私たちの心の思いまでも見分ける生きた剣です。 「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。(ヘブ4:12)」 女の真実さに対しイエス様は、彼女に最高の勲章を授けられました。その勲章の一つは、『娘よ』の御言葉によって、罪ある血肉による系図から、神様の系図へと変えられた事です。二つ目の勲章は、「救い」です。イエス様は、『あなたの信仰があなたを救ったのだ』との御言葉によって、女に救いの経緯を諭されました。すなわち、衣をさわった事によって癒されたのではなく、あなたの信仰によって霊肉の病いが癒され、救いを得る事ができたと、いう事を教えられました。三つ目の勲章は、「安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」の御言葉によって、『平安』と、病いの『完全な癒し』を与えられたのです。 私たちは、救いの恵みを証しているでしょうか。証する者の上に、神様の完全な癒しの御わざが与えられる事を、今日与えられた御言葉を通して知る事が出来ました。神様は、私たちに証の機会をたくさん与えて下さっています。信仰によって、さらに恵みが与えられる事でしょう。その時こそ、この長血をわずらう女が行ったように、真実をもって証する者となりましょう。御国の民となる為に。 結論:今日、イエス様は御言葉となって私たちの心の中に臨在して下さいます。長血をわずらう女が、「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様から認められて、完全な救いに与ったように、私たちも、神様の御言葉に対するまったき信仰をもって、霊肉の完全な救いの恵みに与りましょう。そして、恵みの御わざを真実に証することによって「すこやかであるように」との御言葉が、皆様お一人ひとりの上に豊かに臨みますように、主の御名によって祝福します。 |