2006.5.21(主日礼拝)

悔改めによって与えられる恩寵
申命記29章

説教 梁 貴貞師

 今日は、申命記29章から御言葉の恵みに与りたいと思います。
1節から9節までは、モーセがイスラエルの民に従順を勧める内容が記されており、10節から終わりまでは、イスラエルの民と神様が結んだ契約の内容が記されています。

 イスラエルの民は、エジプトを脱出後、40年間の荒野の旅路において、神様のなさられた様々な奇跡の御わざを体験しました。そのような恵みを受けながらも、苦難にさらされると彼らはたちまち罪を犯し、神様の御怒りに触れました。その度に彼らは神様の前に悔い改め、神様も、その悔い改めを聞いて彼らを赦されました。しかし、しばらくするとまた神様に逆らって、裁きにあい、悔い改めては赦される、という事の繰り返しでした。そのような、うなじの固いイスラエルの民に対し、神様はいつも忍耐をもって彼らを抱き、導かれました。

 今日読んだ本文は、以前シナイ山で神様とイスラエルの民との間に交わした契約を、もう一度モアブの野でイスラエルの民と契約を結ぶ様子が記されています。神様は、様々な奇跡を行ってこの地まで彼らを導いて来られました。

 紅海を分けて渡らせた事。荒野で水がないために彼らがつぶやいた時、岩から水を出して彼らに飲ませた事。また、食べ物がなくて、指導者であるモーセに「ここでわたしたちを死なせるつもりか」と迫る彼らに、天からマナを降らせ、ウズラを運んで、何百万もの民の腹を満たしたこと。イスラエルの民が敵から攻められた時には、イスラエルの側に立って敵を打ち破られた事。彼らの着物や履物までも守られ、40年間すり減る事なく、すべての面において必要を備えられた事。寒暖の差が激しい荒野では、灼熱が彼らを襲うと雲をもって彼らを覆い、寒さの時には火の柱をもって彼らを暖められた事。

神様は、このような大いなる御わざをもって、彼らに慈しみを示され続けました。その御わざを体験した彼らは、如何に神様が大いなる方であるかを身をもって体験した事でしょう。しかし、彼らは様々な地で、異邦の神である偶像を拝むようになり、真の神様から離れてしまいました。その時ごとに神様は彼らに怒りを発せられ、彼らの咎に対する報いを与えられたのです。

 4節に「今日まで主はあなた方の心に悟らせず、目に見させず、耳に聞かせられなかった」と記されています。なぜ,神様は彼らに悟りを与えず、目に見させず,耳に聞かせなかったのでしょうか。それは、自分の目で見て、耳で聞いて、悟ってから神様に従うのは真の従順とは言えないからです。また、自分の目で見てから信じるなら、それは信仰ではありません。神様がイスラエルの民に求めたのは無条件の従順でした。

 今日イエス・キリストを信じる私たちも,無条件に従順する事が大切です。自分が理解出来る事や、目に見える現実だけを受け入れて信じるのではなく、神様の御言葉に対する全幅の信頼と、神様の御言葉にのみ耳を傾けて従順する信仰を持つ必要があります。

 イスラエルの民が神様から離れる時、神様に立ち返る方法として与えられたのが「悔い改め」でした。「義人はいない。ひとりもいない」と聖書に記されいるように、完全な人は一人もいません。間違いをおかしても、その人が神様の前に心から悔い改めるなら、神様はその人をもう一度立たせて下さるのです。

 人は,自分の人生の中で「なければよかった」という部分があります。ビデオテープなら,自分にとって都合のいい部分だけを残して,不必要な部分はカットする事が出来るでしょう。しかし、私たちの人生はドラマや撮影したビデオではありませんので、決して編集する事は出来ません。それ故に、人は過去の呵責に苦しみ、罪の意識に捕われて生きています。しかし、自分の犯した過ちを事を神様の前に悔い改めることによって、神様は、その部分を完全に消去して下さるのです。誰にでも失敗があります。誰にでも過ちはあります。生きる間には、転ぶ事もあるでしょう。「転ぶと鼻を怪我する」という言葉があるように、その事によって自ら心痛めた事もあるでしょう。しかし、イスラエルの民のように、神様から「それは正しくない」と語られた時、御前にひざまずいて悔い改めるなら、神様はもう一度私たちを抱きしめて下さいます。私たちの人生の「無くしてしまいたい」部分が、神様の恵みへと変わります。

 人の様を見て、「自分には輝きもない」「智恵もない」「知識もない」「学歴もない」「美貌もないと妬んだり、不平や不満の要素がたくさんあると、自分の人生を恨み、延べては神様までも恨むようになり、結果,神様から離れてしまいます。また、荒野にいたイスラエルの民のように、私たちもまた、心がさまよいやすい世の中にいます。教会にいるときは信仰者のようであり、神様を信じているように思っても、世の中に出ると疑いが生じ、神様よりも世を愛する者となってしまう事があります。

その時、神様は「悔い改めなさい」と言われます。では、私たちが神様の御言葉に従順するならば、神様は何を与えて下さるのでしょうか。それは「恩寵」です。昔荒野を旅したイスラエルの民だけではなく、今日、信仰の旅路を歩む私たちにとって、もっとも必要なものが,この「恩寵」なのではないでしょうか。自分の信仰を正しいとするのではなく、神様の前に常にへりくだる心を持たなければなりません。そして自分の弱さを言い表す事によって,神様の恩寵を受ける事ができるのです。

「恩寵」と「恵み」の違いは何でしょうか。広辞苑によると、「恵み」とは、必要なものが十分に与えられて不平不満がない状況、とあります。環境において与えられる充足が恵みであると言えます。それに対し、神様や王などの君主から一方的に与えられるものが「恩寵」です。

 「恩寵」と言えば、聖書に登場するヤコブを思い浮かべる事ができます。ヤコブには、4人の妻がいました。彼は、それぞれの妻に等しく夫としての務めを果たした事と思います。しかし、彼が最も愛したのはラケルでした。ラケル以外の妻たちは、夫の心が自分にない事を知って、とても寂しい思いをした事でしょう。このラケルが、夫ヤコブから受けた特別な愛を「恩寵」と言います。まさしく「恩寵」とは、特別な恵みです。神様は、この「恩寵」を、悔い改める者に与えて下さるのです。

 申命記29:19に,「そのような人はこの誓いの言葉を聞いても,心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』というであろう」と記されているように、私たちは、自分の過ちを悔い改める事なく、自分に都合良く解釈する事が多いのではないでしょうか。そのような考えに対し、神様は「平安はそこにはない」と言われます。教会に来て、礼拝で御言葉が語られる時、私たちのうちにある良心が叫んでいるはずです。私たちは、決して良心を欺く事は出来ません。その時こそ、神様の前に心から悔い改める必要があります。そして、神様の恩寵に与る者となりましょう。

 御言葉を悟るなら聖霊の感動が与えられます。見る目が与えられているならば,行動が伴うでしょう。聞く耳が与えられているならば信仰が深まります。「信仰なしには神を喜ばせる事は出来ない。(ヘブル11:6)」と記されています。また、ヤコブ書を通して行いがない信仰は死んだ信仰である」と言われます。ただ信じるだけではなく、一つ一つの行いによって完成させる事が大切です。

 心の悟りがなければ感動がありません。人が冷たくなるのは死ぬときです。私たちの心が熱くならずに、冷たくなるならば,私たちが集う教会は、愛のない氷のような教会になってしまいます。私たちは、今日与えられたこの御言葉を通して、心を熱くし,見る目があり,聞く耳がある私たちになるように神様に求めましょう。その時、必ずや神様は大いなる恩寵を与えて下さるでしょう。

 今まで、神様の恵みの言葉を周りの人に伝えられなかった事。忙しいという理由で祈れなかった事。神様に背を向けていた事など、神様の前に悔い改めるべき事があるなら、神様の赦しを求めて祈りましょう。たとえどんなに小さな声でも、神様は私たちの祈りに耳を傾けて下さいます。私たちが悔い改めて、へりくだった心で御前に近づく時、すべての問題が解決される恩寵に与ることでしょう。

 私たちはこの世に生を受け、神様と出会い、クリスチャンとなることができました。そして、「イスラエル」という神様の民という名前を与えられ、今や、神様の子とされました。その中でも、ラケルがヤコブの恩寵をうけたように、また、ダニエルが神様の恩寵に与って、様々な危機から守られたように、皆様お一人ひとりにも、悔い改めることによって、さらなる神様の恩寵が豊かに与えられますように、主の御名によって祝福します。


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