肉における残りの生涯の生き方 第1ペテロ4:1〜3 |
序論:肉における残りの生涯とは、イエス・キリストを救い主として迎え入れてクリスチャンとなった人々が、聖なる神の民として生きる生涯を意味します。今日与えられた御言葉は、この生涯を人の欲によらず、ひたすら神の御旨によって過ごすよう勧めています。では、神の御旨によって過ごす生き方とはどのような生き方でしょうか。 1.キリストの苦しみをいつも覚えて生きることです。 神様は今日の御言葉を通してクリスチャンに、イエス・キリストのような心構えで心を武装するよう勧めています。何故なら肉における苦しみは罪から逃れる術だからです。親が子どもを育てる際、子どもが過ちをおかした時に愛のムチを与えます。それによって子どもは、やっていい事と悪い事の区別が出来るようになり、後に同じ過ちをおかしそうになった時、過去に経験した痛みを思い起こして思いとどまる事ができるのです。 同じように、私たちクリスチャンが罪を犯しても何事もなく過ぎるならば、再び同じ罪をおかしかねません。しかし、たとい救いに与った者であっても、罪を犯すならば、後に悔い改めの祈りを捧げたとしても、その罪による報いは必ずもたらされる、ということを忘れてはなりません。確かに犯した罪を悔い改める事によって、その罪は赦されます。しかし、罪による報いまでも避けることは出来ないのです。 罪に対する神様の公儀は「裁き」です。この世で罪を犯した際、何らかの情状酌量を得たとしても、果たすべき責任があるように、悔い改めによって、罪がゆるされる事はできても、その罪によってもたらされる結果は、必ず自らが負わなければなりません。 一度痛い経験をした人は、身をもって教訓を得る事が出来ます。それこそが正に、キリストの苦しみを常に覚えながら過ごすという事です。
2.つねにイエス・キリストの十字架を見上げて生きる事です。 「救い」は、律法によって得るものではなく、イエス・キリストの十字架によるあがないを信じる信仰によって与えられるものです。それは、罪人にとって実に幸いな事です。何故なら、もしもイエス様の十字架がなければ、すべての罪人は、自らの救いを得る為に十字架につけられて死ななければならないからです。 イエス様は「救いは律法の行いによるものではなく、信仰によってのみ可能である」と教えて下さいました(エペソ2:8、ガラテヤ2:16)。だからこそ、私たちはつねにイエス・キリストの十字架を見上げ、十字架の恵みを思い起こしながら生きなければなりません。 実際、自分が直接十字架につけられなかったとしても、信仰によってイエス・キリストと共に十字架につけられるならば、イエス様が復活されたように、私たちにも同じ復活の恩寵が与えられる事を聖書の御言葉は約束して下さっています。(ローマ6:6〜9)。イエス・キリストの死が私の死となり、イエス・キリストの復活が私の復活になるとは、なんと大きな恵みでしょうか。 日々イエス・キリストの十字架の御苦しみを思い、十字架を見上げて生きる事が、私たちの肉にある残りの生涯の生き方です。 3.古い姿を捨てることです いったん罪によって死に、イエス様の復活に与って新たな生を与えられたなら、再び古い姿に戻ってはいけません。しかし、私たちの中で実際にそのようなことが起こりうることを聖書は警告しています(マタイ12:43〜45、第1ペテロ2:20〜22)。しばしば信仰生活の中で、絶えず古い習慣による罪の衝動を受けることがあります。使徒パウロ自信も、このような問題で悩んでいました(ローマ7:24)。 「善をしようと欲しているわたしに罪が入り込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る(ローマ7:21〜23)」と罪の衝動が、日々心に戦いを挑む事をパウロは告白しています。 このような戦いに勝つ秘訣は、「キリストにあること」です(ローマ8:1〜2)。私たちが、いつもキリストの中にとどまるならば、聖霊による命の法則によって、私たちを罪と死の支配から解き放って下さるのです。 決論:まことに、この世は罪の波が渦巻いています。その流れにのみ込まれないように、頑丈で隙間のない信仰の箱舟を造らなければなりません。そして、箱舟の内と外にはイエス・キリストの十字架の尊い血潮を塗って防備する必要があります。すなわち、常にイエス・キリストの十字架の経験が私たちの中に生きているべきである、という事です。 肉における残りの生涯を、いつもイエス・キリストの御苦しみを覚えつつ、十字架を見上げ、新しくされた者に相応しく生きるなら、例えどんなに罪の力が私たちに挑んで来たとしても、イエス様の十字架が、信じる者の盾となって、勝利を得させて下さるでしょう。 主にある勝利の力によって罪の誘惑に打ち勝つ祝福が、皆様お一人ひとりに豊かにありますように、主の御名によってお祈りします。 |