シュルの荒野とメラに出会った人々 |
まさに、今日読んだ聖書の箇所に出てくるシュルの荒野とメラは、重荷を背負い苦労している者が現在置かれている場所ではないでしょうか。私たちがすべての重荷から解放され、休む事が出来るのは、ただイエス様の御もとに進み出る事です。 今日与えられた御言葉に心を開き、悟りを得て、重荷から解放される御わざが、聴く一人ひとりにありますように。
1.荒れ果てて、淋しい「シュル」と「メラ」の苦しみの声 ヘブル語で「シュル」は「固い岩」を意味し、「メラ」は「苦い」、「苦しい」を意味する言葉です。シュルの荒野は、太陽の日差しを避ける樹木一つない荒涼とした砂漠です。イスラエルの人々がエジプトを出た後に、シュルの荒野でメラの苦い水に出会った事は、私たちが荒野のようなこの世で遭う苦しみを表しています。 人の苦しみは、必ずしも病いだけとは限りません。仕事や財産を失う事も、或いは受験に失敗する事も苦しみでしょう。人それぞれに、シュルのような荒野があり、メラのような苦みを経験する事があります。まさに、世の富も、地位も名誉も権力も、すべてシュルの荒野であり、メラの水です。何故なら、夢見ていたものが現実に手に入ったとしても、それが自分にとって最も大切なものでない事を知るようになるからです。 イスラエルの民がシュルの荒野についたのは、エジプトを出てから三日目の事でした。ようやく水にありつけると喜んだのもつかの間、メラの水は到底人が飲めるような代物ではありませんでした。その時の人々の反応は、どのようなものだったでしょうか。 彼らは、エジプト脱出に際して神様がなされた様々な御わざを体験し、つい三日前には紅海を分ける奇跡を体験しました。ところが、目の前のメラの苦い水を前に、彼らの神様に対する感謝と喜びは、一瞬にしてつぶやきと不平に変ってしまいました。 私たちがもし、シュルやメラのような危機に見舞われたならどうでしょうか。イスラエルの民のように、立てられた指導者につぶやき、神様につぶやく事はないでしょうか。民の訴えを受けたモーセは、不平やつぶやく事もなく、ひたすら神様に叫びも留めました。このモーセの姿こそ、まことの聖徒のあるべき姿ではないでしょうか。私たちの人生に訪れるシュルやメラの苦しみは、避ける事は出来ないかも知れません。しかし、モーセのように、神様の前に祈る時、困難を克服する事が出来るのです。 神様は、メラの苦い水を前にして祈るモーセの声に応え、一本の木を示されました。それは、問題解決の道具でした。モーセが神様に示された通り、その木をメラの水に投げ入れた時、「メラ(苦い)の水」が、「甘い水」と変わりました。 神様は、シュルとメラのような困難や苦しみを前にして、神様に叫び祈る者に、一本の木、すなわちイエス・キリストの十字架を与えて下さいます。その十字架によって、私たちが抱えている問題を解決して下さるのです。この十字架こそ、恵みの木です。今日、与えられた御言葉を通して、私たちのシュルとメラの中に問題解決の木が投げ入れられる恵みがありますように!
2.人生の「シュル」と「メラ」の苦しみを癒す神 今日与えられた御言葉を通して神様がイスラエルの民に伝えたメッセージは何でしょうか?それは、「わたしはあなた方を癒す神である」という御旨です。私たちの病いや問題、すなわち、シュルとメラの苦しみを癒して下さるお方こそ、私たちの信じる神様であるという事です。 この世のどこにも私たちに真の満足や喜び、楽しみや生き甲斐をもたらせる場所はありません。しかし、私たちがたとえこの世で暮らしていても、癒すお方を信じ委ねるならば、その所は甘い水が湧き出るメラとなり、シュルの荒野が緑の牧場と変ります。 シュルとメラでなされたのと同じような御わざが預言者エリシャの時代にも行われました。エリコの町は、流れる悪い水のせいで種をまいても実る前に落ちてしまう苦しみがありました。その時、エリシャが塩をもって水の源に投げ入れると、それまで人々を悩ませていたすべての問題が解決したのです(列王下2:19〜22)。 エリシャが投げ入れたこの「塩」は、イエス・キリストを表しています。何故なら、この世の腐敗を止める役割を果たした方こそ、イエス・キリストだからです。イエス様は、腐って悪臭を放つような私たちの人生を十字架の尊い血潮をもって清めて下さいました。 メラの苦い水のように、そしてエリコの町に流れていた川の悪い水のように、実を結べない私たちの人生の真中に、「イエス・キリスト」という塩を投げ入れるなら、私たちは豊かに実を結ぶ者となるのです。その時、神様はこう仰せになるでしょう。「わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう。」(列王2:21)と。 ところで、カナの婚礼でイエス様が水をぶどう酒に変えるしるしを行われたことが福音書の中に記録されています。この奇跡を行う際、イエス様は特別な行動を行ったわけではありませんでした。ただ、空の水瓶に水を汲み入れ、その水瓶から汲んで持って行くようお命じになられただけでした。その水が最高級のぶどう酒に変るなどと、誰が想像できたでしょうか。 しかし、その水は確かにぶどう酒に変っていました。では、その水は如何にしてぶどう酒へと変ったのでしょうか。それは、水を瓶に汲み入れ、その瓶から汲んで運んで行った僕たちの従順の故です。イエス様の母マリヤに、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい。」と言われた通り、黙って従いました。 そのように、人生のシュルやメラという苦しみに出合った私たちは、心の瓶を空にして、イエス様の御声に素直に従うだけでよいのです。私たちに如何なる病や苦しみが訪れたとしても、主の命令に従って、十字架という木を投げ入れ、イエス・キリストという塩を投げ入れるならば、苦い水が甘い水に変わり、シュルの荒野が歓喜に満ち溢れるカナンへと変るのです。
結論:イエス様は私たちの弱さを自ら背負い、私たちの病をも背負われました(マタイ8:17)。だからこそ、どんなに私たちの人生にシュルとメラの苦しみが臨むとしても、私たちには希望があるのです。主の十字架を私たちのすべての病や苦しみの源に投げ入れましょう。家庭や職場など、私たちが使わされている場所にイエス・キリストの十字架を投げ入れ、驚くべき神様の御わざを体験する皆様でありますように、主の御名によってお祈りします。 |