2006.7.9(主日礼拝)

信じる者が流す三つの尊い涙
マタイによる福音書26:75

梁 貴貞 師



序論:人は人生の中で様々な涙を流します。悲しみや痛みによる涙もあれば、喜びの涙、感動の涙もあるでしょう。男性と女性を比べると(中には涙もろい男性もいるかも知れませんが)、一般的には女性の方が涙を流す事が多いようです。それだけに男性が流す涙は、意味深い涙なのではないでしょうか。今日与えられた御言葉に、イエス様の十二弟子の一人、ペテロが号泣する場面が記されています。

絵画の展覧会などで聖画を観ると、イエス様の弟子の中でもペテロが一番屈強な人物として描かれています。なるほど、ペテロに関する聖書の記述を読めば、彼の大柄な風貌が思い浮かびます。そのペテロが流した涙とはどのような涙だったでしょうか。

 今日は、このペテロが流した涙を通して、「信じる者が流すべき三つの尊い涙」について共に学び、恵みに与りたいと思います。

1、悔い改めの涙

 ペテロは、「自分こそ真のイエス様の弟子であり、他の誰がイエス様を裏切ったとしても、自分だけは決して主を裏切ったりはしない」という自負がありました。それで、イエス様から「あなたは鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた時に「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません(マタイ26:35)」と、断言したほどでした。

しかし、イエス様が捕えられた夜、彼を始め弟子たちは皆一目散に逃げ出してしまい、一人としてイエス様のもとに残る者はいませんでした。それでもペテロは、こっそり大祭司の庭に入り込み、中の様子をうかがっていました。その時、一人の女中から「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言われ「あなたが何を言っているのかわからない」と慌てて否定しました。

そして、三度目にペテロがイエス様を「知らない」と否認した時、鶏の鳴き声が彼の耳に届きました。そのとたん、ペテロはイエス様の言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。つい先ほど、自分がイエス様に誓った言葉が彼の脳裏をよぎったことでしょう。

 ペテロが言った、この「知らない」はギリシャ語で「アルネオマイ」という言葉で、「放置する」「否定する」「何も考えない」「受け入れない」「注意をしない」などの意味を含んでいます。人は、自分が相手に対して行った裏切りは、さほど気に留めません。しかし、裏切られた、という思いは決して簡単には忘れられないのではないでしょうか。

 イエス様と3年もの間、寝食を共にしてきたペテロの口から瞬間的に出たのが、この「知らない」という言葉でした。イエス様の傍で多くの奇跡のわざを目の当りにし、イエス様の愛を豊かに受けてきたペテロ自身、思わず自分が発した言葉に驚愕し、心が張り裂けるような痛みを覚えたことでしょう。

 このペテロの涙は、まさに「悔い改めの涙」です。ところで、「悔い改め」と「後悔」を混同してはなりません。私たちは、自分が犯した過ちを確かに悔いることはします。しかし、その過ちを再び繰り返してはいないでしょうか。それは「悔い改め」ではなく「後悔」に過ぎません。

 「悔い改め」とは、自分の過ちを神様の前に告白し、赦しを求めて祈る事です。そして、犯した罪を二度と繰り返さないよう、自分自身のあり方を新たな方向へ向ける事です。そのような祈りを涙なくして出来るでしょうか。神様は、私たちの心からの悔い改めの涙を御心に留めて下さり、犯した過ちを赦して下さるのです。

 教会には色々な人が集います。この世で傷ついた人も、弱さを持っている者もいます。教会こそ、現在の社会の縮図のような場所です。妬みや嫉妬、悪意など古い性質を持ったままの人もいるでしょう。故に、教会の中で人を頼みとするなら、つまずいてしまいます。また、人から慰めを受けようと期待したり、与えられる事を求めてはなりません。大切な事は、自分自身の場所を守ることです。それは家庭に於いても同じです。自分に与えられた役割を果たすなら、すべてが円滑に進められるのです。

 「義人はいない」と聖書が明言しているように、完全な人間はいません。しかし、私たちは完成を目指して常に前進しなくてはなりません。「神は愛なり」だからと言って、信じる者が何をしても赦されると、勘違いしてはなりません。私たちの目標はキリストの姿に変えられることです。語られる御言葉に謙虚に耳を傾け、その御言葉に従って行く事こそ聖別される道であり、御国への道です。

 ペテロがイエス様と三年間、常に一緒にいたにも関わらず、イエス様を裏切る事になったのは、彼の心が100%イエス様に従順していなかった為です。私たちも、神様と世の両方に仕えるならペテロが犯した過ちを同じように犯す事となるでしょう。ペテロは3度イエス様を否認しました。私たちは果たして何度、イエス様を「知らない」と答えるでしょうか。

 日々御言葉によって、善悪を見分ける心の目を養いつつ、涙の悔い改めによって、3度を2度、1度、0へと変えて行くよう努めるべきです。そして、私たちに与えられた良心に従って行動し、神様の前に堂々と顔を上げる事の出来る皆様でありますように。

2、憐れみの涙

 「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい(ローマ12:15)」とあるように、イエス・キリストを信じる者が流すべき2つ目の涙は「憐れみの涙」です。堕落した人間は、「隣に倉が建つと腹が立つ」のように、人の喜びは自分の不幸となります。また、「人の不幸は蜜の味」のごとく、心に安堵を得ます。しかし、主に在る者は、決してそうであってはなりません。悲しむ者と同じ思いになって、共に悲しみを分かち合う者に神様の恵みが与えられるのです。

善きサマリヤ人のように、私たち信じる者の流す涙は、隣人を心から憐れむ真実の涙であるべきです。

3、聖なる涙

 信じる者が流すべき3つ目の涙は「聖なる涙」です。ヨハネによる福音書11:35に「イエスは涙を流された」と記されています。愛するラザロの死を前に涙するイエス様を見て、多くの人々は「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」と言いました。この時イエス様の流した涙は、ギリシャ語で「エダクルセン」という言葉が用いられており、こらえて泣く、深い涙を意味しています。

 イエス様の涙は、弱い人間に対する憐れみの涙であり、死んだ者を生かす涙です。そして死の力を退ける涙です。聖書、エステル記に登場する王妃エステルも、民族を生かす涙を流しました。モーセも涙をもってイスラエルの民の為に神様に祈り求めました。私たち、主を信じる者も家族の為、教会の為、そして国の為に涙をもって祈るべきではないでしょうか。

結論:私たちが今まで流してきた涙はどのような涙だったでしょう。心からの悔い改めの涙を流した事があったでしょうか。悲しむ者と同じ思いをもって憐れみの涙を流していたでしょうか。また、家族の為、教会の為、祖国の為に涙を流して祈った事があったでしょうか。

人は、生きているからこそ涙を流す事が出来ます。時には思いっきり神様の前に涙を流しましょう。過ちを犯したペテロはイエス様の目を直視する事が出来ませんでした。しかし私たちが、神の子、光の子にふさわしい涙を流すなら、神様の目を恐れることなく見る事が出来るでしょう。

悔い改めの涙、憐れみの涙、聖なる涙を流す皆様に、神様の慰めと平安がありますうよう、主の御名によってお祈りします。

詩編51:1〜4

神よ、あなたのいつくしみによって、
わたしをあわれみ、
あなたの豊かなあわれみによって、
わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
わたしの不義をことごとく洗い去り、
わたしの罪からわたしを清めてください。
わたしは自分のとがをしっています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
わたしはあなたにむかい、
ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。

詩編51:16〜17

あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭を捧げても
あなたは喜ばれないでしょう。
神の受け入れられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。


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