2006.7.16(主日礼拝)

モーセ最後の勧めの歌

申命記32:7〜15、イザヤ63:11〜14



 

序論:今日与えられた本文の申命記32:7〜15は、モーセが死を前にして最後にイスラエルの民に訓戒を与える場面が記されています。モーセは、イスラエルの民が神様から与えられた聖なる教えを常に覚え、心に刻むよう、歌に代えて民に語りました。イスラエルの民が神様の命令に従い、いつまでも幸いに生きる為に与えられたこの勧めの歌を今日私たちも心に刻み、御言葉に従い行きましょう。

 

1.モーセの勧め

 申命記32章は五つの部分に分けることが出来ます。

(1)   1〜14節、「イスラエルの人々のために施された神様の大いなる恵みに感謝すること」。
(2)15〜18節、「イスラエルの人々が将来カナンに入った後、幸せになるにつれ神様を裏切り、神様を離れるであろうこと」。
(3)19〜25節、「神様を裏切ったイスラエルの民が受ける刑罰について」。
(4)26〜44節、「神様の裁きを受けはするが、完全に滅ぼされるのではなく、再び回復されること」。
(5)45〜52節、「モーセの最後について」が記されています。

 神様はモーセに、「イスラエルの民はカナンに入って豊かになり、平安になるや神様を裏切り、やがて偶像に仕えるようになる」と啓示されました(申命記31:21)。その啓示を受けてモーセは、「たとえどんなに生活が楽になろうとも、決して神様を裏切って世に向ってはならない」と歌によってイスラエルの民に訓戒を与えました。

 モーセは、神様の権威と聖なる品性をイスラエルの人々が常に心に抱いて、神様の大いなる恵みに感謝するべきことを教えています。また、親が自分の子に大きな期待を持っているように、神様も神様の子らに対する大きな期待があります。その期待を決して裏切ってはならない事を神様はモーセを通してイスラエルの民に諭されたのです(申命記32:15)。

 モーセは、イスラエルの民が神様を捨てて滅びに向かっていく姿を予知し、憂いていたことでしょう。このモーセの歌は、罪を犯さざるを得ない弱い人間の実相を明らかにしています。だからこそ、モーセはここで、つねにへりくだるべき事、神様の御言葉から離れず新たな命の道を歩くことをイスラエルの民に強く勧めているのです。また、それと共に、たとえ不従順の罪を犯したとしても、悔い改めて神様に立ち返るならば、神様は回復の道を備えて下さるという希望のメッセージをも伝えています(申32:36〜43)。

 モーセは、自分が長年夢に見てきた乳と蜜の流れる地、カナンに入ることなく死なねばならない事を知りながらも、この歌をイスラエルの民に聞かせました。モーセは決して神様を恨んだりつぶやいたりはしませんでした。それどころか、最後まで神様を愛し、イスラエルの民を愛し通しました。まさにモーセこそ偉大な信仰者の名にふさわしい指導者ではないでしょうか。

 

2.神様の恵みを覚えなさい

 神様はモーセを通して、「いにしえの日を覚え、代々の年を思え。」と勧めています(申32:7)。この御言葉をイスラエルの親たちは後世に伝えるべきこと、そして、自分たちが、さながら鷲の翼の上に乗せられて運ばれたごとく神様の数々の救いのみわざに与り、導きを受けたことを忘れずに歩むようイスラエルの民に伝えました。

この御言葉は、イスラエルの民に語られたと同時に私たちにも語られています。過ぎ去りし日々に受けた神様の恵みを常に思い起こし、自らの信仰生活を整えて、神様の御心にかなった歩みをしなければなりません(伝道の書12:13、箴言16:9)。

 表面的に見れば、イスラエルの人々は自分たちの足で荒野を乗り越えました。しかし、その行程の中には、人知を遥かに超えた神様の見守りが常にイスラエルの民と共にありました。エジプトで奴隷の苦しみから救うために、神様はすべての御わざを用いて彼らを救い出されました。

荒野では、昼は雲の柱、夜は火の柱を用いて暑さ寒さから守られ(出13:21〜22)、契約の箱は常にイスラエルの民の先頭立って進み、彼らの休むところを探しました。(民10:33)。そして、命の糧であるマナを天から降らせ、すべての民を養われました。それらすべてが神様が御力によるものであり、霊の鷲に彼らを乗せて荒野を渡らせたということに他なりません。

 私たちの今までの人生も、確かに自分たちで切り開き、懸命に生きて来たように思えるでしょう。しかし、目には見えない神様の守りと救いの恵みが常に私たちと共にあり、今日まで、その御腕に私たちを乗せて運んでくださった事を決して忘れないよう、いにしえの日を覚え、代々の年を思うべきです。

 私たちが「いにしえの日を覚え、代々の年を思う」べきなのは何故でしょうか。それは、神様の恵みを常に思い出すためです(出13:3、14、20:2)。私たちも、この世というエジプトから神様の御わざによって救い出されました。そうです、以前の私たちは罪に縛られていた奴隷でした(ローマ6:17)。しかし、イエス・キリストが過ぎ越しの羊となって私たちの罪を購ってくださった事によって救いの恵みに与るに至ったのです(Tコリ5:7、ヨハネ1:29)。その恵みを決して忘れないで生きるよう、今日も神様はモーセの勧めの歌を通して私たちに語られているのです。

 

結論:神様が私たちに与えて下さった救いの恵みを常に覚えなければなりません。その恵みを覚える人こそ祝福に満ちた日々を送る事ができるのです。主に在る兄弟姉妹一人ひとりが、いにしえの日を覚え、代々の年を思い、感謝に満ちた日々を過ごす事が出来ますよう、主の御名によってお祈りします。

 


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