備えられる主 |
今日与えられた第一コリント2章9節の御言葉を通して、神様は私たちが目にした事もなく、また、聞いた事もない、人の心では思い浮かぶことすら出来ないものを備えてくださるお方である事を知る事が出来ます。私たちは、日々の生活の中で上手くいった時、神様の力ではなく自分の力で成すことができたと思ってしまいます。それは、人の考えで行動し、神様の大きな力と備えがあると言うことを忘れてしまうからです。 創世記の中に、神様がアブラハムに息子を燔祭として捧げるよう命じる場面が記されています。(新改訳では、試練にあわせたと書いてあります。)これはとても耐え難い試練だったと思います。しかし、アブラハムは神様を畏れ、すべてをゆだねてイサクを捧げようとしました。その時、神様はアブラハムの信仰を見て、一頭の雄羊を備えられました。 このことを通して私たちは、神様がたとえどんなに大きな試練を私たちに与えたとしても、必ず試練と共に神様の備えがあるという事を知る事が出来ます。第1コリント10:13の御言葉を通しても知る事が出来ます。 私たちは、アブラハムの生きた信仰の体験とこの御言葉を通して、神様がどんな時でも備えて下さっているという事を確信する事が出来ます。しかし、時には、神様の備えがなかなか与えられず、つまずいてしまう事があります。実際、私たちの生活の中で、備えが与えられた事よりも、与えられずに苦しい思いをした時の方が多いのではないでしょうか。 それは何故でしょうか。神様が心変わりしたのでしょうか。決してそうではありません。先にも述べたように、神様は私たちが想像すらできないような素晴らしい備えをしておられるお方です。その素晴らしい備えを私たちに下さらないはずはありません。では、何故神様は与えて下さらない時があるのでしょうか。それには二つの理由があります。 1つは、私たちが備えを受けるのに十分な器を持っていないからです。 神様は、備えを与える前に、私たちが充分備えを受ける事が出来る器かどうかを確かめられます。ところが私たちはその時点で、薄い信仰と人間的な考えによって機会を逃してしまうのです。しかし、私たちがアブラハムのような信仰を持っているとしたら、神様は備えてある素晴らしいものをすぐに与えてくださるはずです。 二つめの理由は、準備が足りない事です。 私たちが行うべき準備とは、私たちクリスチャンの基礎である「祈り」です。「祈りとは呼吸である」とよく云われます。呼吸が肉体の生命にとって欠かせないように、祈りもまた霊的生命にとって欠かせないものです。また、祈りは神様との一対一の会話です。この「祈り」を通して私たちは神様を近くに感じ、神様を知る事ができるのです。呼吸することは簡単に行うけれど、祈りの呼吸は難しいというのが私たちの現状ではないでしょうか。 もう一つの準備は、日々御言葉によって信仰を磨き強める事です。御言葉を読み、聞き、学ぶ事も祈りと同様、クリスチャンの信仰の基礎となるものです。これらの基礎ができていない私たちに、どうして神様が、今まで見た事も聞いた事もなく、想像もできないような備えを与える事が出来るでしょうか。 例えば、神様に「教会堂を与えて下さい」と祈って与えられたとします。しかし、その教会を成長させる祈りの力がないのに、どうやって教会を保つ事が出来るでしょう。そのような状態で神様がはたして喜んで教会を与えて下さるでしょうか。 ですから、日々祈りによって力をつけ、御言葉によって信仰を磨き、どんな試練にも打ち勝つことの出来る力を身につけなくては、神様の備えを受ける事は出来ません。そのような準備を私たちが十分に出来ているならば、神様はすぐにでも与えて下さるでしょう。 備えは神様だけが備えるものではなく、神様と私たちが共に備える必要があります。私たちが祈りと御言葉によって備える時に、まだ目で見た事もなく、耳で聞いた事もないような、また、人の心に思い浮かびもしなかった神様の素晴らしい備えを受ける事が出来るのです。 今日の御言葉を通して、神様は私たちがどんなに大きな試練に遭ったとしても、備えて下さっている事、しかも、人の考えを超える備えを私たちの上に与えようとされている事を知る事が出来ました。日々祈り、御言葉によって磨き、輝くダイヤモンドのような信仰を持って、神様から与えられる備えを十分受ける事が出来る器を備える私たちでありますように。そして、一日も早く神様が備えて下さっているものを受け、その喜びを分かち合う日が来る事を願っています。
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