2006.8.20(主日礼拝)

内なる人を強くされて御わざに励もう

コロサイ1:24〜29、エペソ3:16〜29



 序論:私たちがこの世で神様の為や教会のために働くためには健康が何よりも大切です。健康をそこなうとすべてのことに意欲をなくしてしまいます。それだけでなく、何の役にも立たない死に対する恐怖心さえ起こります。だからこそ、私たちはしっかりと信仰の上に立って健やかさを主の前に願い求めるべきではないでしょうか。

今日の御言葉は、「力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、」と語られています。内なる人が強くなる時、外なる人も力を得ることが出来るのです。では、どうしたら内なる人を強くされるでしょうか。また、内なる人を強くされた者の成すべき務めとは何でしょうか。今日与えられた御言葉を通して共に恵みに与りたいと思います。

 

1.肉なる体は衰えても

私たちの肉なる体は、ある時期を堺に日々衰えていきます。それは、神様を信じようが信じまいが、また神様の為に働くが、世の為に働くが関係なく、みな一様に起きる現象です。

パスカルは、「健康な肉体と祝福された肉体が存在すべきである」と言われました。彼は昼夜を問わず懸命に働いた為にその肉体は機械がすり減るように消耗し、39歳の若さで亡くなったと言われています。しかし、彼の肉なる体は神様の国と主の為、そして多くの信じる群れと自分自身の為に燃やし尽くした祝福された肉体でした。

人はすべて一度死ぬべき事、そして、その後必ず裁かれる事が定められています(ヘブル9:27)。しかし、詩篇に「悟りがなければ滅びうせる獣にすぎない(詩篇49:20)」と記されているように、肉体があっても悟りがないならば、人としての存在はもはやそこにはありません。

確かに肉体は年齢と共に衰えるでしょう。しかし、私たちの肉体がこの世の働きや、肉の欲によってではなく、神の国と義の為、御言葉の為、そして福音宣教の為に消耗するとしたら、神様は決して見過ごしにはなさらないのではないでしょうか。たとえ、外なる人は滅びても内なる人は日ごとに新しくされて行きます(第2コリント4:16)。何故なら、神様の栄光が私たちの内に宿るからです(第1ペテロ4:14)。

私たちに与えられた生涯に決して同じ日はないように、私たちの肉体も日々変化していきます。この事は私たちに「知るべき事があること」、「悟るべきであること」、「真に生きるべきであること」の3つの意義を示しているのです。

人は、例えどんなに豊かであっても悩みがあります。しかし、天に希望を持つ人は、豊かであるときも喜び、貧しくても喜びます。何故なら、主なる神様が必ず報いて下さる事を信じるからです(ヘブル11:6)。例え肉なる体が衰えても、私たちの内なる人を強くして下さる方を信じ、御わざに励もうではありませんか。使徒パウロが「生きるにも死ぬにも、何もするにも神の栄光のために(第1コリント10:31、ピリピ1:20)」と告白したように。

 

 2.神様はいつまでも変わることがありません。

私たちが信じる神様は「有って有る」お方、永遠から永遠に生きておられるお方です。神様はいつまでも変わることがありません(ヘブル1:12)。その神様が私たちの内におられるなら、私たちも永遠に生きる事が出来るのです。主イエス・キリスト自身、御言葉によって「もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう。」と語っておられます(ヨハネ8:51)。

神様は、信じる者に「心を尽くして精神を尽くして、力を尽くして主なる神を愛しなさい」と命じておられます(申命記6:5)。御力をもって内なる人を強くして下さる方を、心を尽くし、力を尽くして愛する時、神様は豊かな報いを与えて下さるのです。私たちが捧げるすべてのものを神様は御心に留めて下さいます。そして、その分に応じて一人ひとりに戻されるのです。

この世の愛は、いつかは過ぎ去ります。しかし、神様の愛は永遠です。その変らない愛で私たちを愛し続けて下さるのです。神様が共にいて下さることを信じるなら、その神様が喜ぶ事を行うべきです(ヨハネ8:29)。

確かに健康は大切でしょう。しかし、その健康を肉の欲の為に用いるべきではありません。私たちにとって最も大切な事は、この肉体すべてを投資してあまりある神様に出会う事です。

 

 

 3.神様の御言葉によって強くなります

 ノアは100年の間、箱舟を作り続け、やがて世の終わりが来る事を宣べ伝えました。しかし、その言葉に耳を傾ける者は誰一人いませんでした。ノアが箱舟に入る日まで、人々は、食い、飲み、めとり、とつぎなどしていました。(マタイ24:37〜39)。人の思いは常にこの世にある故に、神様の御言葉を信じる事が出来ません。そのような中でノアを最後まで勇気づけたのは、神様の約束の御言葉でした。

 預言者ダニエルは、先祖や民族が犯した罪を背負い、断食をもって涙の祈りを捧げている時、自分の国の終末、主の再臨に対する啓示を受けました。恐れおののくダニエルの前に、人の形をした者が現れて、「ダニエルよ、恐れるに及ばない。」と御声をかけました。幻を見て、尚も恐れるダニエルに対し、人のこのような者が再びダニエルにさわり、ダニエルを力づけて言いました。

「大いに愛せられる人よ、恐れるには及ばない。心を強くし、勇気を出しなさい。」。この言葉を聞いたダニエルは力づき、「わが主よ、語ってください。あなたは私に力をつけてくださったから」と答えました。(ダニエル10:18〜19)。

 また、イエス・キリストを信じる人々を迫害していたサウロ(後にパウロとなる)が、ダマスコへの旅の途上、突然光がさして、彼をめぐり照らし、地に倒れました。それから三日間、彼は目も見えず、食べることも、飲むこともしませんでした。そのサウロが、神様によってつかわされたアナニヤの言葉によって、たちどころに見えるようになり、食事を取って、元気を取り戻したのです(使徒9:1〜19)。

 私たちの外なる体の健康にとって、食物が必要であるように、私たちの内なる人を強くする霊の糧は、神様の口から出る、一つ一つの御言葉です。そして、今日、世の終わりに臨む私たちが何よりも求めるべき霊の糧は「見えない隠れた霊のマナ」(黙示録2:7、17)です。それは、イエス・キリストの再臨を待ち望む私たちが、受けるべき最後の天の恵みです。

 御言葉の力によって与えられた健やかさをもって、福音宣教に励みましょう。私たちが、御言葉を信じてイエス様の為に働くなら、イエス・キリストの霊が私たちの内に宿ります。そのような私たちを神様は、霊肉共に責任を負って下さり、栄えの道を歩ませて下さると信じます。

 

結論:新たな人生を始めるには、まさに信仰による決断が必要です。「主は、私の内なる人を強めて下さるお方です。その御力によって与えられた健やかさをもって、神様の栄光の為に力を尽くします。」と告白しましょう。神様は、必ずや、その思いに応えて下さるでしょう。

「自分は、もう遅いのでは?」とは言わないで下さい。「時」に支配されてはなりません。神様は時間も空間も超越されるお方です。ただ、イエス・キリストの名によって願えさえすれば良いのです。思い出して下さい、アブラハムが何歳の時に神様の召しを受けて旅立ったかを(創世記12:4)。モーセが何歳の時に招命を受けてエジプトで苦しむイスラエルの民の指導者となったかを(出エジプト7:7)。

彼らは、語られた御声に従い、望みを神様に置いて、すべてをゆだねました。私たちも今日、語られた御言葉を信じ、神様にすべてを委ねて立ち上がるべきではないでしょうか。今日も神様は、詩篇146:5の御言葉を通して、私たちの内なる人を強くして下さいます。「ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが 神、主におく人はさいわいである。(詩篇146:5)

 ユダヤの人々は、70〜80歳までを、「老年の青春期」、80〜90歳を、「前進する老年期」と言い、80歳から再び新たな人生にチャレンジするそうです。「♪主を待ち望む者は新たに力を受けて昇る。走り疲れず、歩み手うまず、和紙のように、昇る(ワーシップソング)」の讃美にあるように、鷲のように翼を広げ、信仰を持って飛び上がりましょう!

そして、日々神様と共に歩み、心配や、悩み、悲しみや苦しみのない、神様の栄光に輝く御言葉の世界を慕い求めながら神様の為に歩みましょう。主に在る皆様お一人ひとりが、聖書に記されている通り、栄光に包まれて来臨されるイエス・キリストと出会う祝福の御わざがありますよう主の御名によって祝福いたします。

 


NEXT BACKHOME