イエスは彼らにお任せにならなかった ヨハネ2:22〜25 |
序論:私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じる信仰を持っています。では、イエス・キリストはどうでしょう。果たして私たちの信仰を認めて下さっているでしょうか。人に対して「私はあなたを信じています」と言うなら、大方の人は、その言葉を信じるでしょう。しかし、イエス様は天地の創造主なる神様です。私たちの思いをさぐられ、すべてを知っておられる方です。そのお方を欺く事は絶対に不可能です。 私たちの信仰がうわべだけの見せかけに過ぎないのであれば、イエス様は決して御自分を私たちに任せては下さらないでしょう。今日、与えられた「イエスは彼らにお任せにならなかった」の御言葉を通して、今一度、自分自身の信仰を振り返る機会とさせて頂きましょう。
1.イエス様は人の心を探っておられます。 「過越の祭の間、イエスがエルサレムに滯在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」 ここに集まった多くの人々は「イエスの名を信じた」と記されています。にも関わらず、何故主は、彼らに御自分をお任せにならなかったのでしょうか。 ヨハネの福音書を初め、他の福音書の中にも、イエス様がなさった「宮きよめ」の次第が記されています。エルサレムの神殿で商売されていた羊や牛をなわのむちで追い出し、鳩を売る者には「これらのものを持ってここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われました(ヨハネ2:13〜16)。 その時、弟子たちは「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と聖書(詩篇69:9)に書いてあることを思い出した(ヨハネ2:17)。と記されています。「あなたの家を思う熱心」とはどのような事でしょうか。私たちの信仰生活に当てはめてみると、「私は休まず礼拝に出席している」、「熱心に教会の奉仕をしている」、「いつも祈っている」、などの熱心でしょうか。では、何故、そのような熱心が神様を食いつくす事になるのでしょうか。 それは、それらの熱心が、神様のためのものではなく、自分を肥やす為の熱心であることをイエス様は見抜いておられたからです。真の宮であるイエス・キリストを見ず、人が作った宮で、しかも自分の利益を求める彼らに対し、イエス様は「この神殿を壊したら、わたしは三日のうちにそれを起こすであろう。(ヨハネ2:19)。」と言われました。 その事があって後、イエス様がエルサレムにおられる間、多くのしるしを見て信じた人々に「ご自分をお任せにならなかった。それはすべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。(ヨハネ2:24)」と記されています。 この「任せる」とは、「ゆだねる事が出来る」、或いは「頼みとなる者」、「信じて任せられる」という意味です。共同訳聖書では「彼らを信用されなかった」と訳されています。また、韓国語の共同訳では「心を与えなかった」、英訳では「信頼しなかった」、「信じなかった」と訳されています。 イエス様の公生涯のはじめに行われたカナの婚礼でも、その奇跡を見た弟子たちはイエス様を信じました。多くの人々がイエス様がなさる奇跡の数々に驚嘆し、イエス様を信じました(ヨハネ2:11、23)。しかし、イエス様御自身は、すべての人を知っておられる故に、彼らに御自身をお任せにはならなかったのです(ヨハネ1:48、2:24、6:6)。 預言者エレミヤも、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)。と語っています。人の心を探り知られる神様の前にはどんな申し開きも出来ない事を知り、御前に憐れみを乞いひれふすのみではないでしょうか。
2.しるしを見てイエス様を信じる道 マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれ、目に見える世界を表しているのに対し、ヨハネの福音書は、霊的世界が表されています。そのヨハネによる福音書の中に、イエス・キリストを信じる二通りの道が記されているのを知る事が出来ます。 一つめの道は、イエス様によってなされたしるしを見て信じる道です。 そのような奇跡を目撃したり、体験した人々の多くはイエス様を信じました。しかし、しるしを見て信じた人々に、イエス様はご自分をお任せにはならなかったのです。私たちなら、しるしを体験した人が、イエス様を信じるのを見たら、諸手をあげて喜ぶでしょう。しかし、イエス様はそうではありませんでした。しるしによる感動は一時的であり、瞬間的にわいた感情はいつかは冷めてしまうのを、イエス様は充分知っておられたからです。しるしだけを追い求める人は、艱難が立ちはだかると途端につまずき、信仰から離れていってしまう事を誰よりもご存知であった事でしょう。 3、御言葉によってイエス様を信じる道 イエス様がしるしを行われる時、ただ、黙ってなされたのではありません。必ず御言葉をもってなされたのです。その語られた御言葉を疑わずに信じた人々に、癒しの御わざが起った事を私たちは覚えなければなりません。まさに、何よりも力強く、直接的に働かれる「しるし」は、イエス様の口から語られる、一つ一つの御言葉です。 イエス様の「ラザロよ、出て来なさい」という御言葉によって、ラザロは生き返らされたのです。ところが、人々は発せられたイエス様のお言葉ではなく、生き返らされたラザロだけを見て驚きました。 「イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教えにひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。(マタイ7:28〜29)」 実際、イエス様の行われたしるしを見て信じた人々は、すべてイエス様から離れて行ってしまいました。しかし、イエス様の復活後、聖霊による御言葉を受けたペテロや他の弟子たちは、死をも恐れない福音の証人となったのです。では、私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを信じなかった時には、御言葉は、紙に印字された文字でしかありませんでした。しかし、聖書に記されている一つ一つの言葉を信じる時、私たちの心の扉が開かれ、聖霊の御わざによって、御言葉が生きた神様の力になったではないでしょうか。 神様は私たちが御言葉に満たされる事を願っておられます。御言葉に満たされた私たちが遣わされる所々で神様の御わざが起ります。その御わざによって茨やあざみが燃やされ、頑な心の畑が耕されて、良い地へと変えられます。神様の御言葉に心を開く時、心に平安が与えられます。また、すべての問題も御言葉によって解決されるのです(詩篇107:20)。 洗礼者ヨハネは、特別なしるしを行いませんでした。イエス様を証する言葉こそが、真のしるしだからです(ヨハネ10:41)。今日、イエス・キリストを宣べ伝える教会も、御言葉を大胆に伝えるべきです。真理の御言葉、十字架の福音を伝える事こそ、教会の果たすべき使命です。教会は生きた御言葉が働く所、奇跡の御わざが起る場所です。教会が、時代やこの世に合わせて語ってよいでしょうか。いいえ、神様が最も喜び、良しとされることは御自分の御言葉をそのまま伝えることです。 聖霊の力を受けた人々によって、病が癒されるなどの奇跡のわざが起こされています。しかし、御言葉による御わざは、イエス様が御言葉によってラザロを生き返らせたように、命をもたらせる力なのです。
4.慕う心を持ってイエス様を信じる事の大切さ 信仰とは一方的なものではありません。「イエス様と私の関係」でなければなりません。私たちと神様の関係とは、真の親子の関係です。神様がこの世界を創られた時、御言葉をもってすべてをお創りになられました。御言葉が私たちを生んだ親であると聖書ははっきりと語っています(詩篇2:7、第1コリント4:15、ガラテヤ4:19)。子である私たちが信仰の実を豊かに結ぶ事によって、父なる神様が栄光を受ける事が出来るのです。 私とイエス様の関係は「信仰の関係」でもあります。その関係は「献身」と「奉仕」とによって培われます。「献身」は、なにも牧師になることだけが献身ではありません。イエス様を信じる事が「献身」です。イエス様を信じるとは、イエス様が語られる御言葉を信じる事です。語る言葉を聞かずに、一体どうしたら、その人を信じる事が出来るでしょう。 すなわち、神様の御言葉が語られる時、慕う心を持って、御言葉に耳を傾ける事こそ、献身であり、奉仕なのです。マルタはイエス様をもてなす事に心を注ぐあまり、イエス様の語られる御言葉に耳を傾ける事が出来ませんでした。しかし、何よりも御言葉を慕い求めたマリアをイエス様は認められたのではないでしょうか。 また、私とイエス様の関係は「友の関係」です。イエス様は、「人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と語られた通り、私たちの為に命をお捨てになりました。では、私たちは何をして、イエス様との友の関係を持つ事が出来るでしょうか。イエス様はこのように言われました、「あなたがたにわたしが命じることを行うならば私の友である」と。 親子の関係も信仰の関係も友の関係も、神様の愛によって私たちにもたらされたものです。神様の最大の愛は、十字架を通して私たちに示されました。この十字架こそ、最も大いなる「しるし」です。救いを受けた私たちにとって、十字架こそ、神様の力、救いの力です。この十字架の御言葉を慕い求め、悟るなら、私たちとイエス様との関係は、いつまでも「ぶどうの木と豊かに実を結ぶ枝」であることでしょう。
結論:使徒ヨハネが「ヨハネによる福音」を記録した理由について、このように述べています。「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。(ヨハネ20:31)」。 では、神様が私たちに新旧約聖書66巻をお与え下さったのは、どんな目的によってでしょうか。それは、私たちを初めに創られた神様のかたちへと回復させ、御国の民とならせるためです。 御言葉が私の信仰、御言葉が私の生活となるよう、日々、御言葉のしるしを体験しつつ、御国を目指して歩みましょう。そして、イエス様が安心して「任せられる」皆様となりますように、主の御名によってお祈りします。
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