神の恵みをいたずらに受けてはならない 第2コリント6:1〜13、詩篇116:12 |
序論:神様の救いの計画は決して変わることがありません。神様は日々まどろむ事なく、御自分の民である失われた魂を探しておられます。その神様が今日、私たちにコリント61〜2の御言葉を通して「神の恵みをいたずらに受けてはならない。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。(第2コリント6:1〜2)」と語られています。 神様はどのような思いでこの御言葉を語られたのでしょうか。私たちは、与えられている御言葉に真摯に耳を傾け、神様から与る恵みをどのように受けるべきであるかを共に考えたいと思います。
1.「今」は恵みの最後の時である事を知らせています。 私たち人間にとっての「今」とは、時間的な概念でしかありません。「今」は瞬時に過去へと移り変わって行きます。そして「今」が「昨日」となり、やがて「過去」となって「歴史」を刻んで行きます。そして、過ぎ去った「今」は決して繰り返される事はありません。しかし、神様は時間も空間も超越されるお方です。その神様にとっての「今」とは、人のそれとは異なります。 「今」と言う時は、恵みと救いの時です。すなわちイエス・キリストの誕生から、主の再臨直前までの新約時代のすべての期間です。狭い意味では、私たち個々の人間が生まれてから死ぬまでの期間であり、更には、こうして使徒としての勧めを受けている、この瞬間が「今」という時です。 ぶどう園の主人が、朝早く働き人を探しに町に出かけるというたとえ話しが福音書に記されています。その主人に出会って雇われた人こそ、まさに「今」を表しています。神様の救いの御わざは必然的であり、計画的なものです。時間と空間、この世界の歴史という過程を通して、神様の「今」は展開されて行きます。人が、イエス・キリストを信じるか否かに関わらず神様の「今」は、私たちの前に置かれています。 また、ヘブル人への手紙の著者によって「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。(ヘブル1:1〜2)」と語られているように、イエス・キリストの救いの福音が語られる時が、「今」であると同時に、終わりの時でもある事を知らなければなりません。今こそ、神様が御自身の働き人を通して「今である」と語られる御言葉に耳を傾けるべき時です(第2コリント7:31、ヘブ4:7)。 神様は、時が満ちるに及んでイエス・キリストを女から生まれさせられました。(ガラテヤ4:4)イエス様御自身が「最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らのところにつかわした」と語られています(マタイ21:37)。まさに、この御言葉は、「見なさい!今が終わりであり、この人が終わりの人である。」と、私たちに終わりの地点を知らせているのです。イエス・キリストの誕生から約2000年経過した今を生きる私たちにとって、この恵みの「今」の時は、最後の最後のチャンスではないでしょうか。 使徒パウロが、コリント教会の人々に宛てた二回目の手紙の中で、「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、自分を吟味するがよい。」と記しています(第2コリント13:5)。何故なら、もしイエス様が私たちのうちにおられなければ、悟らなければ、神様の恵みをいたずらに受けることになるからです(ガラテヤ6:7)。
2.「今」こそ恵みの福音を受けるべき時である事を知らせています。 私たちは明日の事さえも分かりません(箴言27:1)。神様の恵みなしには一日として生きる事ができないのが私たち人間です。しかし、人は明日の事を誇り、おろかにも罪を犯します。そのような罪ある私たちを神様は、イエス・キリストの十字架の血潮によって購いだしてくださり、イエス・キリストを信じる信仰によって義人と認めてくださいました。これが「恵み」なのです。 この恵みを握って離さない限り、私たちは如何なる困難からも守られます。戦争や迫害、病や貧困、危険、死さえも、私たちを神様の愛から離す事は決して出来ません。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた(第2コリント6:2)」との約束の御言葉によって、神様は恵みの今を生きる私たちのすべてを守って下さいます。もしも、私たちがその恵みの中にいないのなら、神様の耳にはどんな祈りの声も届かないでしょう。 「よくよく言っておく。もし、人がわたしの言葉を守るならば、その人は、いつまでも死を見ることはないであろう。(ヨハネ8:51)」とイエス様が語られているように、常に神様の御言葉を守り行う人こそ、恵みの「今」、救いの「今」を生きる者です。イエス・キリストは御言葉が肉体となって来られたお方です。そのお方のうちに生きる時、私たちは永遠の命を与る者となります。聖書にこう記されています。「それは、罪が死によって支配するにいたったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠の命を得させるためである(ローマ人への手紙5:20)。」 神様が私たちに「今」の恵みに留まるよう強く勧めているのは、神様との和解を得させるためであり(第2コリント5:20)、永遠の命を得させるためです。私たちがまだ弱かったころ、イエス様が私たちのために死んでくださったことによって、神様の愛を示してくださいました(ローマ5:6〜8)。その恵みによって私たちは正々堂々と御国へと入る事ができる者とされたのです。 今日、神様は私たちに、その「恵みをいたずらに受けてはならない」と言われています。では、「いたずらに受ける」とは、どのようなことでしょうか。それは、恵みを受けるべき機会を虚しく過ごすことを意味します。「明日、明日」と決断を先延ばしする傍観者となってはいけません。また、恵みを自分の肉の欲を満たす機会に用いようとする事です。そして、自分はさも出来ているかのように誇る霊的高ぶりも恵みをいたずらに受ける事です。「私は昔すでにもらっている」という思いがあってはなりません(ガラテヤ6:3〜4)。 恵みをいたずらに受けない為には、「今」を生かし、与えられた機会を逃さない事です(エペソ5:16)。日々、御言葉を慕い求め、学ぼうとする人はつまずきません。また、聖霊による積極的な行動を取る事です。そのような人々は、恵みをいたずらに受けない為に、常に集っては祈り、悔い改め、感謝を示しました。そして、受けた恵みを施し、恵みの力によって主の為に生きる決心をする事です(エペソ2:10、テトス2:14)。
3.最後のチャンスを逃してはならないという神様の愛の御声です。 今日与えられた「見よ、今は恵みの時、今は救いの時である」の御言葉はすなわち、「恵みと救いの時は定められており、時が制限されている」という警告を発している御言葉でもあります。聖書は、イエス・キリストを信じない者に対する裁きが定められている事を明言しています(黙示20:15、21:20、マルコ9:48)。私たちの愛する夫や妻、親や子、兄弟や親族が救いの機会を失うことがないよう、恵みの福音を伝えなければなりません。「最後のチャンスを無駄にしてはならない」と切実な思いで語られる神様の御声を聞く者となりましょう。 神様は、終わりの日に天の蔵にしまっておいた恵みの御言葉を解いて、地に住む神様の子らにお与えになります。その後、イエス・キリストが再び来られるのです。光のあるうちに歩むよう、今日も神様は御声を発しておられます。恵みがなくなってから求めても、もうすでに恵みはありません。一旦門が閉じられたなら、どんなに叫んでも決して開けられる事はないのです。その時、「わたしはあなたがたをまったく知らない。何故、恵みを施す時に恵みを受けなかったのか?」と問われる事がないよう、今の恵みの時を大切に過ごす皆様であって欲しいと願います。 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある(伝道の書3:1)」と伝道者は語っています。神様は、救いのわざが進められる過程の中で、恵みが施される時と場所を確定しておられます。雨を求めても、雨雲の下にいなければ、どんなに待っても徒労に終わってしまうでしょう。救いが語られる場所、恵みを受ける場所にいてこそ、受ける事ができるのです。 私たちに与えられた健康も神様から与えられたチャンスです。健康であるうちに奉仕に励み、目が見えるうちに御言葉をたくさん覚え、耳が聞こえるうちに多く御言葉を聞き心に刻みましょう。そして捧げられるうちに溢れる感謝を御国の蔵に蓄えておきましょう。私たちの忠実な働きは、天の蔵に、命の書にすべて記録されるのですから。
結論:ヨブは艱難を神様から与えられた機会であると捉えていました(ヨブ記:22)。ダニエルもまた獅子の穴で恵みを受け、救いの日を確信しました(ダニエル6:10)。ソロモンも、この「時」を逃さないよう「立って、出てきなさい」と言われています(雅歌2:11〜14)。 今は半時間ばかり天に靜けさがある時です(黙示録8:1)。もしも、「今」を失っていた人がいるなら、今日語られた御言葉に従って、恵みを探し、悔い改めをもって恵みの場所に戻って来てください。決して過去の人になることなく、今恵みを受ける人であって欲しいと願います。 神様の前に「私は恵みがある時に恵みを受けます。そして救いの日に救いの確信を持って生きて行きます」と告白する皆様に、父なる神様の祝福が豊かにありますよう主の御名によってお祈りします。 |