愛は損得を超える ルカ7:36〜50 |
序論:今日与えられた御言葉のルカ7:36〜50と同じ内容が、マタイ26:7〜13やマルコ14:3〜9、ヨハネ12:1〜8の中にも記されています。それらの記述に共通する内容はこうです。パリサイ人の家に招かれたイエス様のもとに一人の女性が現れて、突然、イエス様の足を自分の涙で濡らし、続いて自分の髪の毛で足を拭ってから、イエス様の頭に香油を注ぐという行動を示しました。 マタイによる福音書には、この女性がどのような人物であるかについて言明していません。ところが、ルカによる福音書だけは、この女性が「罪人」である事を記しています。ルカはどのような意図を持って、ここに女性の立場を記したのでしょうか。それは、一人の罪人が、神様の恵みによって罪許されたことを明らかにするためであった事でしょう。 今日は、一人の罪ある女性が、どのようにして神様の恵みに与ったのかを聖書から共に学び、私たちの信仰の成長につなげたいと思います。
1.恵みは値なしに施される恩寵です。 人は他者と接する時、少なからず損得勘定を働かせるのではないでしょうか。しかし、神様の恵みは人のそれとは全く異なり、一方的に、しかも無条件に与えられる贈物です(エペ2:8)。神様は、人間のように損得を計ったり、合理性を追究するお方ではありません。 神様の愛は、天地創造の日から此の方変わることなく人類のうえに表されています。そして、神様の恵みは人を分け隔てる事なく、すべての人に値なしに与えられています。特にこの世から卑しめられ、排斥されるような罪人を神様はより御心に留められ、彼らに対する深い愛情を示されることを、私たちは聖書を通して知ることが出来ます(第1コリント1:28)。 ところが、神様の恵みを受けた私たちはどうでしょう。自己の利益ばかりにとらわれて生きている事はないでしょうか。付き合いの中で、常に損得を計算する人がいます。実際、そのような人と一緒にいるのはとても疲れます。聖書は、このような打算を行う事が、如何に愚かな事であるかを教えています。 そのような人は、神様から恵みを受けるのを諦めた方がよいでしょう。イエス様は、罪ある私たちを値なしに救い出して下さいました。そのイエス様の愛にならい、私たちも値なしに隣人を愛さなければなりません。私たちがその愛の実践を行う時、神様の恵みが留まり、感謝と喜びが心のうちで泉のように湧く事でしょう。 2.神様を愛するとき、私たちの罪が赦されます。 今日の本文に登場する女性は、自らの髪の毛でイエス様の御足を拭いました。女性にとって、髪は光栄です(第1コリント11:15)。その髪で彼女は、イエス様の足を拭いたのです。イエス様の足は、きれいだったでしょうか?いいえ、あちらこちらを歩いた足はどんなにか汚れていた事でしょう。客人を招いた際、たらいに水をはって旅の汚れを落とすよう計らうのは、その時代、最低限の礼儀であったはずです。しかし、イエス様を招いたパリサイ人は、何の配慮も行いませんでした(ルカ7:44)。 その、イエス様の汚れた足を、この女性は涙でぬらし、光栄である髪の毛で拭きました。また、客人への歓迎のしるしである接吻さえもパリサイ人は行いませんでしたが、女性は何度もイエス様の足に接吻してやみませんでした。そして、彼女の全財産に匹敵するであろう香油を、惜しむことなくイエス様の足へ塗りました。彼女の行為は、まさに損得のない愛と忠誠の表れです。自ら罪人である事を自覚するが故の徹底したへりくだりの姿勢です。その様の何と美しいことでしょう。 この女性に対しイエス様は「あなたの罪はゆるされた」と宣言なさいました。彼女は、イエス様に罪の悔い改めを行ったわけではありません。ただ、ひたすら自分を低くし、イエス様を愛した時、罪の赦しが与えられたのです。 サタンは私たちを誘惑し、罪を犯させます。そして、その罪を暴露し、冷笑を浮かべます。しかし、神様は、私たちの弱さも足りなさもすべてご存知の上、じっと忍耐を持って待っておられます。私たちが、十字架によって示された神様の愛に気付くのを。 神様の恵みを受けた人は、更に熱く神様を愛します。そして、自分を愛するように隣人を愛します。罪ある一人の女性がそうであったように、日々、弱さのゆえに悲しみを覚えつつも御前にへりくだり、神様に精一杯の愛を示す私たちに、神様は恩寵をもって「あなたの罪はゆるされた」と宣言して下さるのです。
3.恵みを受けると謙遜になります。 使徒パウロは、自らをこう告白しています。 しかし、イエス様を信じるようになった彼は「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。私は更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストの故に、私はすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている(ピリピ3:7〜8)。」と、一切の人間的な誇りを捨て去り、自らを罪人であると告白するに至りました。そして、他の誰よりも多く働いてきたことも、自分が受けた困難や迫害さえも、すべて神様の恵みとして賜ったものである、と結論づけています(コリント第1:15:10)。 自分の弱さを悟り、自らを低くする事が謙遜です。神様の恵みを受ければ受けるほど、自分は小さくなります。そして、いつしか自分の姿は見えなくなり、イエス様だけがそこに現れます。そのように、生活の中で、信仰の歩みの中で常にへりくだり、神様に栄光を帰す者のうえに神様の恵みが留まるのです。
結論:私たちは主のものです。すべてが神様の主権的な恵みの御わざの中にあり、自分のものは何一つありません。そのことを悟るなら、すべてが感謝、すべてが喜びとなります。そこにもはや損得は存在しません。恵みに満たされると心が平安になります。そして、溢れた恵みを隣人と分かち合う事が出来ます。そこに平和が実現します。 イエス様の御足を涙で濡らし、髪の毛で拭った女性は、多くイエス様を愛した事によって多くの罪を赦されました。使徒パウロは死を前に、恵みによって自分に与えられた義の冠を目にしました。私たちは、神様の恵みの中で、如何に神様を愛し、仕え、捧げるべきでしょうか。 値なしに与えられた恵みに感謝と喜びをもって応えて行く皆様に、神様の限りない愛と祝福が豊かにありますよう、主の御名によってお祈りします。
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