2006.9.10(主日礼拝)

神が望まれるイスラエルのカナン路程

使徒7:21〜36



序論:今日の本文に、「モ―セはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、言葉にもわざにも、力があった。四十歳になった時、モ―セは自分の兄弟であるイスラエル人たちのために尽くすことを思い立った。」(使徒7:22〜23)。と記されています。

 人は、時として「あの時こうしていれば...」と過去の選択に対する後悔の念を持ちます。「もしもあの時」という言葉は、決して取り戻す事の出来ない失ったものの大きさを言い表しているのではないでしょうか。聖書は、今日私たちがイスラエルの歴史を学ぶ事によって、彼らがおかした過ちを繰り返すことのないよう、神様から与えられた恵みの道標です。

 私たちが目指すカナンの地は天国です。イスラエルの民のカナンへの路程を通して、如何にして神様が望まれる路程を進みゆくべきかを、今日与えられた御言葉から共に学び、恵みに与りたいと思います。

1,神様は、アベルのような信仰を求められます。

 序論でも引用したように、モーセがイスラエルの民を最初に救い出そうとしたのは、彼が40歳の時でした。エジプトで最高レベルの教育を受け、王の子としての品格も富も兼ね備えていたであろうモーセは、まさに時の人でした。

 モーセが、奴隷として窮地に立たされている彼の同胞イスラエルの民を憐れみ、自らイスラエルの民に尽くそうとした矢先、その事件は起こりました。一人のイスラエル人がエジプト人によって虐待されているのを見たモーセは、その者をかばい、エジプト人を手にかけたのです。

モーセは、自分の行為は当然、イスラエルの民から承認されるものと思っていました。ところが、彼らイスラエルの民はモーセを拒否しました。反逆罪としてパロに訴えられるのを恐れたモーセは、ミデヤンの地へと逃れて行きました。

 まさに、「あの時、こうしていれば」が、この時のイスラエルの民に当てはまるのではないでしょうか。もしも、このとき彼らが知恵を持ち、悟りを得ていたならば、40年も早く奴隷の苦しみから解き放たれていたことでしょう。モーセを中心に乳と蜜の流れる地、カナンを占領することができたでしょう。しかし、彼らには、その事を悟る信仰の力がありませんでした。

 聖書にこのように記されています「彼は自分の手によって神が兄弟たちを救って下さる事を悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。(使徒7:25)」

 彼らがその先向うカナンの地を占めていた七つの部族は皆背も高く、屈強な肉体を持っていました。また、その地は、すべてのものが豊かで、そこに暮らす人々はすべての面に於いて恵まれていました。それに比べ、430年もの間奴隷としての生活を余儀なくされ、苦境の中で生活していたイスラエル民族には、富はおろか力もありませんでした。

その上、信仰もなければ、どうやったらカナンの地を占領する事などできるでしょう。神様が、彼らイスラエルの民が持つ事を何よりも望んだのは、義人アベルの信仰でした。アベルとは、創世記に登場するアダムとエバの息子です。アベルは信仰によって、カインよりもまさったいけにえを神様に捧げ、信仰によって義なる者と認められました(ヘブル11:4)。

アベルは兄カインの妬みによって殺されてしまいましたが、死してさえも彼の信仰は生きていました。地は義人アベルの血を受け入れる事を拒み、口を開いて神様に訴えました(創世記4:10)。すなわち、アベルの信仰は、この世が受け止める事のできない程のまったき信仰でした(ヘブル11:33〜40)。

2、神様から与えられたサインを見逃してはならない。

 ミデヤンの地へ逃れたモーセが、神様によって呼ばれたのは、彼が80歳の時でした。ホレブの山の燃えるしばの中に現れた主の使いによって、モーセは再びイスラエルの民を救いに導く指導者として召されました。しかし、過去に苦い経験をしたモーセには、もはや以前のような自信も威勢もありませんでした。

 「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」(出エジプト4:1)。恐れ尻込みするモーセに、主は、モーセの兄アロンを立てて、「わたしはあなたの口と共にあり、彼の口と共にあって、あなたがたのなすべきことを教え、彼はあなたに代わって民に語るであろう。彼はあなたの口となり、あなたは彼のために、神に代わるであろう」と伝えました(出エジプト4:15〜16)。

また、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。(出エジプト7:1)」と、モーセを神様に代わる者として立てられました。そのようなモーセを当初、疑いの心を抱き、信じようとしなかったのは誰あろう、イスラエルの民ではなかったでしょうか。40年前も、後も、イスラエルの民の信仰の状態は変わりがありませんでした。

 40年前、モーセをエジプトの王パロに告発したのは、他でもない、イスラエルの人々でした。確かに、モーセがエジプト人を殺めた事件は、不幸な出来事だったでしょう。しかし、その事が神様によって与えられた合図であったらどうなのでしょうか。苦しい奴隷の生活、日々繰り返される搾取や虐待、貧しさに喘ぎ、人間としての尊厳も何もない苦しみの中に、一人の力ある勇者が立ち上がり、自分たちを救い出そうとしている最中にも、なお「道徳的、倫理的、社会的に云々...]とモーセを犯罪者として告発する事が、果たして彼らにとってどんな益になるのでしょうか。

事実、彼らがモーセを否んだ事によって、エジプトでの苦しみの生活は40年間延長された事を考えてみてください。一口で「40年」と言っても、それは決して短い時間ではありません。ここにいる私たちの中で、40年後の自分の元気な姿を想像出来る人が何人いるのでしょうか。

 ここで、あらためて使徒7:25を読んでみましょう。「彼は、自分の 手によって神が兄弟たちを救って下さることを、みんなが悟るものと思っていたが、実際はそれを悟らなかったのである。」

カナンへ出発するのが、40年も遅れたのは、彼らイスラエルの民が神様から送られたサイン、すなわち、モーセがエジプト人にした行動の意味を悟り得なかった事によるものであることを、私たちは知る事が出来るはずです。人は、物事がうまくいけばよし、そうでなければ責任を人になすりつける弱さがあります。イスラエルの民もそうでした。このような人々の中に、果たしてアベルのような信仰者を見出す事が出来るでしょうか。

 私たちは、神様から送られるサインを決して見過ごしてはいけません。その為には、日々、御言葉と祈りとによって目を覚ましているべきです。イスラエルの民は40年も無駄に時を過ごしました。その彼らをご覧になっていた神様はどんなにか御心を痛めていたことでしょうか。競技の時、ピストルの合図で一斉に走り出すように、モーセを通して送った神様の合図によって一斉にカナンに向け出発すべきであったイスラエルの民は、最初の時点でつまずいてしまいました。

 今日、このイスラエルの民の路程を通して、私たちは何を学ぶべきでしょうか。神様によって立てられた指導者への不信、背信、告発によって、チャンスを逃したイスラエルの民のようではなく、信仰によって、見えない方を信じ、受け継ぐべき地に出て行った先人たちのように、私たちも信仰によって、まだ見ぬ天のふるさとを望み見て歩むべきではないでしょうか。

 モーセが40歳の時エジプトから逃れ、80歳で主の召しを受ける日まで、彼の見えない方を信じる信仰は決して揺らぐことはありませんでした。だからこそ、神様は再びモーセをイスラエルを救う指導者として立てられたことでしょう。ノアもまた100年間、御言葉の約束を信じ、船を造り続けました。彼らは皆、見えない方を、確かに見ているように信じて忍び通したのです。その結果、彼らは神様のサインを受け取る事が出来たのです。

結論:イスラエルの民は御旨を悟る事が出来ず、神様によって送られた救いのチャンスを逃してしまいました。モーセの行動を理解する事が出来ず、自分たちを救い出す救い主を40年間も荒野で過ごさせてしまいました。また、その後も神様から使わされた多くの預言者を殺し、あまつさえ、御子をも十字架につけて殺してしまいました。知恵がなければ、悟りがなければ、救いを得る事はできません。そのような鈍い民を、神様はどんなにか切ない心でご覧になっていた事でしょうか。

 今日、御国を目指して信仰の道を歩む私たちと、カナンを目指して歩むイスラエルの民の路程の中に多くの類似点を見出す事が出来ます。イスラエルの民がそうであったように、自分たちの常識に合わせ、疑いの心によって神様の救いのわざを遅らせる事のないように、神様が望まれる「アベルの信仰」を持って、まだ見ぬ天の国を望み見て進むべきです。

 私たち人間は弱く、進みゆく路程に立ちはだかる困難を打ち破る力はありません。しかし、信仰によって神様に受け入れられる捧げものを御前に捧げつつ従い行くなら、その度事に神様の知恵に与り、局面を打開する事が出来るでしょう。アベルの血を、地が受け入れる事を拒んだように、イエス・キリストの血潮によって義とされた私たちを決してこの世はのみ込むことは出来ないという事を信じましょう。

 義人アベルの信仰をもって、神様が望まれる御国への路程を歩む皆様でありますように、主の御名によってお祈りします。


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