2006.9.17(主日礼拝)

神様は私たちを信じて投資しておられます

マタイ25:14〜30



序論: “あすなろ”とは木の名前です。 ヒノキにとてもよく似たその木は、 「 明日こそなろう。ヒノキのように強くなろう」とがんばる木です。 そこから、「翌檜(あす なろ)」という名がつきました。

 私たちも、「明日は今日より大きくなるだろう」と日々子どもの成長を願い、出来うる限りの投資を行います。たとえ、愚かな子どもであっても、「いつかきっと親の思いにかなういい子になるだろう」と信じるのが親です。

 神様が私たちになさる投資は、人間のそれをはるかに超えています。私たちの罪、咎は、神様の目に決して隠れてはいません。神様の前に顔を上げる事さえできない愚かな者たちです。しかし神様は、そんな私たちに最後まで望みをおいて下さるのです。

 父なる神様のなされた最も大いなる投資は、御子イエス・キリストの命をもって、この世を購われた事です。罪ある人間の身代わりに、あがないのいけにえとして御自分の一人子を十字架につけられたのです。これ以上大きな投資があるでしょうか。

そのような大きな恵みに与った私たちは、古い肉の性質を持ち続け、神様から与えられた健康や富に対する感謝もなく、世のものに固執して過ごすべきではありません。では、神様の投資によって、新しく生きる者とされた私たちの生き方はどうあるべきでしょうか。

 今日与えられた御言葉を通して、私たちを信じ投資して下さる神様に、どう応えていくべきかを共に学びましょう。そして、一人一人が自らの信仰の姿勢を正すべく、真実な心で御言葉に耳を傾けましょう。

 

1.神様の御心のままに生きるべきです

 マタイによる福音書21:28〜31に、イエス様が語られた、ぶどう園を持つ父のたとえが記されています。その内容はこうです。「ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と応えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と応えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか。(マタイ21:28〜31)」

 イエス様は、このたとえを語られた後、「取税人や遊女の方がイスラエルの民より先に神の国に入る」と言われました。それは、取税人や遊女が神様の望みどおりに行なったからです。神様の望みとは、ヨハネが説いた義の道を信じ、受け入れる事です。すなわち心を入れ変えて神様によって使わされたイエス・キリストを信じる事です。

 しかし、先に選ばれたイスラエルの民は「彼(洗礼者ヨハネ)を見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった(マタイ21:32)」ので、イエス様から咎められました。同じように、神様の選びによって神の子とせられた私たちが、神様の御心を悟ろうとせず、思いのまま生きるならば、せっかく備えられた祝福を逃してしまいます。

 神様が私たちを信じて投資し、すべてを任せて下さったのは、与えられた賜物を世に奪われるためでは決してありません。父なる神様の御心は、私たちが自分の罪を悔い改めて、神様のみもとに帰ることです。そして与えられた恵みに感謝の心をもって生きる事です。そのように行う者こそが、神様の国に入るのです(マタイ7:21)。

 

2.神様を信頼すべきです

 今日与えられた本文(マタイ25:14〜30)もイエス様が語られた天国のたとえです。「ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預け...」の「ある人」は神様を意味します。主人は僕たちにそれぞれの分に応じて、一人は5タラント、一人は2タラント、もう一人は1タラントを預けて出かけました。しばらく経って主人が旅から戻ってきた時、財産の管理を委ねられた僕たちの収支報告はまちまちでした。

 5タラントを預けられた僕と、2タラントを預けられた僕は、おのおのの力量に応じた成果を上げ、主人から誉められました。ところが、1タラントを預けられた僕は、地に穴を掘って金を隠しておいたため、何の成果もあげる事が出来ませんでした。案の定、その僕は主人から大目玉を食うはめにあいました。

 この愚かな僕がおかしたミスは何でしょうか。それは、主人に対する誤解です。この箇所をもう一度読んでみましょう。『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。』(マタイ25:24)とあります。

ここに出て来る「酷な人」の言語を調べると、「固い人」「ケチな人」という意味があります。この愚かな僕の失敗は、憐れみ慈しみ深い神様を「ケチな人」と誤解したことにあります。しかも「承知していた」つまり、充分知っていると言うのですから驚きです。僕は、主人の何を知っていると言うのでしょうか。

 この僕も他の僕と同様に、力を与えられた神様を信じて、預けれたタラントで利益を残すべきでした。おそらく、この聖書の箇所を読んで「なんと愚かな僕だろう」と思わない人はいないでしょう。しかし、神様が、私たちを信頼して多くのものを任せて下さっても、神様を信じる事をせず、自分勝手に神様を誤解するならば、地にタラント(賜物)を埋めてしまう愚かな僕と同じ過ちを犯してしまうでしょう。

しかも、この僕は知恵がありませんでした。せめて銀行にでも預けておけば、利子と元金の両方を得る事が出来たはず!と主人から厳しく咎められました。結局、この僕は、先に預けられたタラントまでも取りあげられてしまいました。

 これらのことを通して、神様に対する信頼がなければ、神様の投資に応える事が出来ないということを知る事が出来ます。神様は恵み深く、憐れみ深いお方です。神様に信頼する者を決して見過ごしになさるお方ではありません。

 例え私たちが試練に遭い、もらった恵みを忘れる時があるとしても、必ずや私たちを立て直し、栄えの道を歩ませる為に投資して下さる神様を最後まで信頼しなくてはなりません。そして、私たちに託されたタラントを最善を尽くして活用するべきです。

 

3.忠実な僕として多くの利益を残すべきです。

 キリストに仕える者に求められる事はことは「忠実である」ことです(第1コリント4:2)。イエス・キリストのあがないによって救いに与り、日々御言葉を通して御心を示されながらも、御言葉を実践しようとせず、自分に与えられた恵みを証しないのは、実のない信仰生活そのものです。

 減らす事も増やす事もしないで現状維持に満足するのは、誠実でも忠実でもありません。神様は私たちに様々なタラントを与えてくださいました。健康も、富も、才能も神様によって与えられたタラントです。私たちはそれらを用いて主の為に忠実に働き、より大きな利益を残さなければなりません。

 では最も大きな利益とは何でしょうか。それは、新たな命を生み出す事です。命の御言葉によって救いを受けた私たちは、その恵みを自分だけのものにする事なく、愛する家族、親族、友人たちもその恵みに与るよう働くべきです。これこそ、神様の前に利益を残す忠実な僕の務めです。

 水鳥は穏やかに水面を泳いでいるように見えます。しかし、その一見穏やかに見えるような水鳥でさえも、えさを探すために絶えず水中に目を光らせています。しかも、水面に表れた優雅さからは想像もつかない早さで力一杯水をかいて進んでいるのです。まさに、主に仕える私たちのあるべき姿ではないでしょうか。神様から与えられた恵みの中で平安に過ごしながら、自分に与えられたタラントを懸命に働かせ、忠実な者として、絶えず努力することが大切です。

 

結論:神様は惜しむ事なく私たちに多くのものを投資して下さいました。私たちに命を与え、造られたすべてのものを与えて下さいました。ところが、今までの私たちは、世にあるものに固執するあまり、神様の御心よりも、自分の思いを優先してきたのではないでしょうか。

 今日与えられた御言葉に悟りを頂き、今からは、神様の期待に応える者となりましょう。神様を信頼し、与えられたタラントを豊かに用いて利益を残しましょう。神様の前に忠実に働く皆様に、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。(マタイ25:21)」という祝福の御言葉が与えられますよう、主の御名によってお祈りします。

 


NEXT BACKHOME