2006.9.24(主日礼拝)

神様の願い
それは私たちが情熱の人となること

イザヤ9:7、エレミヤ33:2〜3



序論:アメリカの思想家であり詩人でもある、ラルフ・ウォルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 1803〜1882)は、「情熱なくして成功なし」と述べています。つまり、どんな偉業も、情熱なくしては決して成就する事が出来ないという事です。情熱《passion》とは、「激しく高まった気持ち」、「物事に対する激しく熱心な気持ち」という意味があります。

 先頃、イエス・キリストの受難に焦点を当てた映画「Passion」が上映されたのは記憶に新しい事でしょう。英語では、「受難」も「情熱」も同じ「Passion」です。この言葉が示す通り、まさに、イエス・キリストこそが情熱の人でした。イエス様は、私たちの罪を購うために十字架に掛けられ、最後まで情熱的に人類への愛を示された方でした。

 御子イエス・キリストが情熱の人なら、父なる神様はそれ以上でしょう。情熱を持ってこの世界を創造し、永遠に代わらない情熱によって、この世界を保っておられます。そのイエス・キリストにあって、神様の子とせられた私たちも、情熱的に生きるべきではないでしょうか。

 神様は、私たちに「情熱的」である事を願っておられます。では、情熱的な人とは、どのような特徴があるのでしょうか。

1.情熱的な人は与えられた務めを全うする人です。

 「そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平を正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。(イザヤ9:7)」

 神様は、自らの熱情を持って必ず御心を成し遂げるお方です(イザヤ9:7、エレミヤ33:2〜3)。「わたしは神である。今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう。(イザヤ43:13)」と語られている通り、神様が一旦決定されたことは、なにびとたりとも御わざをとどめることはできません。

 情熱的な人とは、自分に与えられた務めや成すべき事を状況や環境によって変更したり、頓挫(とんざ)したりせず、最後まで全うする人です。イエス・キリストは、最後まで情熱をもって御自分に与えられた務めを全うされました。私たちも、イエス・キリストに似ていく者としてふさわしく、与えられた務めを最後まで行うべきです。

 御前に、礼拝を捧げることも私たちに与えられた務めです。主の日に、悔いた心と砕かれた魂のささげものを持って主を拝し、情熱的な愛を神様に示しましょう。

 

2.熱情的な人は障害を乗り越えて行く人です

 イエス様は、あらゆる障害を乗り越えて進むお方でした。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになってからも、また、公生涯の初めにサタンの試みにあわれた時も、律法学者やパリサイ人らの誹謗や中傷、殺意の中にあっても、そして、十字架への道を歩まれる時も、イエス様は常に神様の御心に従って、すべての障害を乗り越えて前進されたのです。

 使徒10:38に、イエス様は様々なよい働きをしながら「巡回された」と記されています。この「巡回する」のギリシャ語の意味は「開き通る」と言う意味を持っています。まさに、イエス様は、すべての困難な道を開いて通られました。

 情熱がない人は障害物に出会うとたちまち心が萎えて諦めてしまいます。しかも、それを人のせいにしたり、自分が生まれた環境のせいにしたり、挙げ句の果てに神様のせいにまでします。しかし、情熱のある人は目の前の障害物を乗り越えようと努力します。

 聖書の中に、四人の友人が中風の病を患っている友を担いで、イエス様のもとを訪れた様子が記されています。イエス様の行くところはどこも大勢の人だかりでした。ある人の家にイエス様がおられた時も、戸口までいっぱい人が押し寄せていて、イエス様の前に病人を運ぶどころか、傍に近寄る事さえも困難な状況でした。まさに、その状況は彼らにとって「障害物」でした。

しかし、彼らは決して諦めませんでした。「友人の病を癒してもらおう!」という情熱が彼らを突き動かしたのです。彼らは病人を屋上に運び上げ、屋根を剥いで天井からイエス様のいる場所に吊り下ろしました。何と大胆な行動でしょうか。情熱がある人は、主に在る確信を持ちます。そして勇気をも持つのです。

 彼ら四人の勇気ある行動とイエス・キリストに対する信仰によって、病人の病は癒されました。私たちも病や困難や弱さを持っている隣人の為に情熱を尽くして祈る者となりましょう。目の前にあるどんな障害も、情熱的な信仰をもって立ち向かうなら、神様による知恵と力によって、どんな障害も乗り越えることができるのです。

 

3.熱情的な人は勤勉です。

 勤勉の対義語は怠慢です。私たちは自分に甘く、どこかで「生まれながらの性格」、「忙しいから仕方ない」、と怠惰を容認してはいないでしょうか。しかし、イエス様は「悪い怠惰な僕よ」と、怠慢を悪としていることを私たちは覚えなくてはなりません(マタイ25:26)。

 怠慢な人の特徴は、意欲や積極性がない事です。神様に与えられた「時」も「能力」も大切に用いるべきです。情熱的な人は、すべての事に意欲をもって取り組みます。失敗をおそれず、積極的に働こうとします。勤勉さ故に、神様に用いられ、祝福された人々が聖書の中に多く登場しています。

 「小事に忠実な者は大事に忠実である」の言葉通り、私たちが御心にあって情熱的に行うなら、神様は必ずや助けて下さいます。隣人の為に、教会の為に、そして神様の為に、情熱をもって勤勉に務める事によって、そこにリバイバルの御わざが起るのです。私たちは今、勤勉でしょうか?それとも怠慢でしょうか?今日与えられた御言葉を通して、自分自身を点検してみるべきではないでしょうか。

 

結論:神様が願われる事、それは私たちが主の為に情熱を尽くして与えられた務めを全うする事です。そして、情熱を持ってどんな障害も乗り越え、勤勉に主のわざに励む事です。

 イエス・キリストは情熱をもって私たちに命を与えて下さいました。情熱をもって命をかけて信仰を守った先人がいたからこそ、私たちも救いに与る事ができました。私たちも情熱をもって主に自分自身を明け渡すべきです。私たちは、生きるにも死ぬにもキリストにあって「アーメン」です。命をかけて情熱的に生きる私たちに、世も、「世は彼らのすむ所ではなかった。(ヘブル11:38)」と認める事でしょう。

熱情の人となって「新しいわざ」を実現する皆様お一人ひとりに、豊かな祝福がありますよう、主の御名によってお祈りします。

 


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