『エゼキエル・ストーリー』

一章|プロローグ『天よ開けよ』『4つの生き物の行動』『輪になりなさい』『人の姿のような形』
二章|
『人の子よ立ち上がれ』『伝道者の姿勢』『悲しみと嘆きと災の言葉』
三章
『強さの二つの意味』『見張り人の姿』『唖者となったエゼキエル』
 四章
『二つの象徴的な行動』『三つ目の象徴的な行動』
 五章 『頭とひげを剃りなさい』『裁きの理由』
六章『わたしが主であることを知るようになる』
七章
『あなたはもう終わりである』
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プロローグ『聖霊の導きによって御言葉を記録したエゼキエル』

 エゼキエルはバビロニア第2次ユダ侵略時に捕囚の身になりました。当時バビロニアの各地に散らばっていたユダヤ人は亡国民の鬱憤を抑えきれず、深い絶望の中に陥っていました。人々の中には、主なる神への敬虔な信仰を捨て、バビロニアの異邦の風習に同調する人々も出てきました。また、ある人々はエルサレムの滅びを受け入れる事ができず、すぐにでも故郷に帰還することが出来るという偽りの預言者たちの甘い預言を信じて心が浮きあし立つ者さえいました。

このような状況の中でエゼキエルは、エルサレムの滅びは避けられないと言う事実を断固語り伝えると共に、新しく回復された約束の民に、与えられる栄光に輝くビジョンを明らかに示し、人々に大いなる希望を吹きいれようとしました。

 『エゼキエル書』は大きく二つの部に分けることが出来ます。
前半部である1章〜32章までは罪に対する裁きの警告であると言えますが、この裁きは腐敗したユダ王国は勿論、ユダ滅亡の時に傍観し嘲笑した近隣諸国に対しても宣布されました。そして後半部である33章〜48章まではエルサレムの陥落以後に宣布された預言として、新しく回復された約束共同体に、神の栄光が満ち溢れることを生々しく示しています。

 『エゼキエル書』は『ダニエル書』と同じ黙示文学を代表する書物であり、新約聖書のヨハネの黙示録とも密接な関連を持っています。このようにエゼキエル書は神の啓示がおもに幻を通して伝達され、預言に生動感を与える諷刺的な象徴が多く表れます。乾いた骨に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおわれ息が与えられるしるしに関する幻は、今日の聖徒たちにも新鮮な息(霊)と希望を与える内容が書かれています。


『天よ開けよ』(エゼキエル1:1〜3)

 『 第三十年四月五日に,わたしがケバル川のほとりで,捕囚の人のうちにいた時,天が開けて,神の幻を見た. これはエホヤキン王の捕え移された第五年であって,その月の五日に, 主の言葉がケバル川のほとり,カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み,主の手がその所で彼の上にあった.』

 イスラエルは3度に渡るバビロニアの侵略によってバビロニアの捕囚の身となります。エゼキエルはAD(主前)597年頃バビロニア王ネブガデネザルの第2次侵略の際、エホヤギン王統治の時にバビロニアへ連れられて行きました。

バビロニアへ捕われた後エゼキエルは30歳になりました。エゼキエル1:1節の「第三十年」と言うのはエゼキエルの年であるというのが正統的な見解です。なぜならば、民数記4:30節を見る時レビ人が幕屋奉仕に用いられるためには30歳にならなければならないからです。  

1.エゼキエルは如何なる状態に置かれていたのでしょうか?
 
 エゼキエルは捕囚の人々の中にいました。ケバル川はバビロニア東南部に流れる川で、エゼキエルは川辺にある捕囚収容所にいました。その場所の名前をエゼキエル3:15節では「テルアビブ」と表現しています。

 エゼキエルは祭司ブジの子でありました。30歳になり、本来、神の宮で奉仕する時になったにも関わらず捕囚としての立場にいる自分をとても惨めに感じたことでしょう。。エルサレムからおおよそ1000キロも離れた場所で、今や荒廃と化した祖国に対する侘びさに満たされていたと思います(詩篇137:1)それと共に、バビロニアで苦しむ同族を見ながら非常に心を痛めていたでしょう。

 神様はこのような絶望的な状況ににおかれているエゼキエルに天を開いて下さったのです。今日私たちが如何なる絶望の中におかれたとしても神様は決して私たちを見放し、置き去りにするお方ではなく、かえってその絶望の中にこそ共にいて下さるお方です。


2.天が開かれました(エゼキエル1:1).

 ここに記されている「天が開かれる」と言う表現は旧約聖書の中でたった一度だけ出てきた表現です。 たとえ東西南北すべてが塞がれたとしても、神様は天を開いて、神様の御旨と救いのわざを始めるのです。イエス.キリストは、神が人となって、御言葉が体となってこの世に来られたお方です。イエス様は30年のあいだ人としての生活を送る間、御旨を示すことが出来ず、平凡な大工として過ごされました(マルコ6:3)。神が、神であることのご性質を示すことが出来ず、平凡な人間として過ごされる間、どれほど苦しかったでしょうか?

しかし、イエス様がバプテスマのヨハネによるバプテスマを受けて水から上がってくる時、天が開かれました(マタイ3:16)。遂にイエス.キリストの公生涯が始まったのです。今日に生きる私たちが如何なる絶望の中におかれているとしても天が開かれ、神様から用いられる祝福が始まるようにお祈りいたします。


3.神様の幻を見せてくれました(エゼキエル1:1)


 ここにある「幻」はヘブル語では「マルア」で幻象、鏡と言う意味を持っています。鏡で見れば相手が見えるように、神様は御自分の世界を幻象として見せて下さることを意味します。ですから幻は神様の栄光、顕現及び未来に起こりうる事柄に関する啓示を言います。神様がこの幻を見せる際、幾つかの御わざが起こります。先ず神様の御言葉の臨在が起こります。エゼキエル1:3節には、神様の御言葉が臨んだことが記されてあります。

ここに「臨み」にあたるヘブル語は「ハヨ ハヤ」で、これは「強力に臨む」ことを意味する。神様の御言葉が強力的に臨んだ後、エゼキエルは神様の御言葉を語る預言者となります。今日、私たちにも神様の強力的に臨むことによって神様の御言葉を語る人になりますようお祈りいたします。

 エズラ7:28節に、「また王の前と,その議官の前と王の大臣の前で,わたしに惠みを得させられた.わたしはわが神,主の手がわたしの上にあるので力を得,イスラエルのうちから首領たる人々を集めて,わたしと共に上らせた.」と言われています。今日私たちが如何なる絶望の中にあろうとも天が開かれ、神からの幻を見せて頂き、特別な御言葉と神の力が私たちの生活の中に留まる御わざが起こりますよう主の御名によって祝福いたします。


『 四つの生き物の行動 』(エゼキエル書1:4〜14)

「わたしが見ていると,見よ,激しい風と大いなる雲が北から来て,その周囲に輝きがあり,たえず火を吹き出していた.その火の中に?銅のように輝くものがあった.またその中から四つの生きものの形が出てきた.その様子はこうである.彼らは人の姿をもっていた.おのおの四つの顔をもち,またそのおのおのに四つの翼があった.その足はまっすぐで,足のうらは子牛の足のうらのようであり,みがいた?銅のように光っていた.その四方に,そのおのおのの翼の下に人の手があった.この四つの者はみな顔と翼をもち,翼は互に連なり,行く時は回らずに,おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ.顔の形は,おのおのその前方に人の顔をもっていた.四つの者は右の方に,ししの顔をもち,四つの者は左の方に牛の顔をもち,また四つの者は後ろの方に,わしの顔をもっていた.彼らの顔はこのようであった.その翼は高く伸ばされ,その二つは互に連なり,他の二つをもってからだをおおっていた.彼らはおのおのその顔の向かうところへまっすぐに行き,霊の行くところへ彼らも行き,その行く時は回らない.この生きもののうちには燃える炭の火のようなものがあり,たいまつのように,生きものの中を行き来している.火は輝いて,その火から,いなずまが出ていた.生きものは,いなずまのひらめきのように速く行き来していた.』

ケルビムとは、四つの生き物の異なる名前です。エゼキエル10:15節に、「その時ケルビムはのぼった.これがケバル川でわたしが見た生きものである.」と記されています。このケルビムは霊物ではありますが、普通の御使いとは異なります。黙示録4:6節には、「四つの生き物は御座の周りにある」と記されており、また、黙示録5:11に、この四つの生き物の周りに数多くの御使いがあると記されています。

黙示録5:11節を読んでみましょう。「さらに見ていると,御座と生き物と長老たちとのまわりに,多くの御使たちの聲が上がるのを聞いた.その數は万の幾万倍,千の幾千倍もあって,」と記されています。これは四つの生き物が御使いよりもっと核心的であって重要な働きを担っている霊物(生き物)であることを物語っています。

四つの生き物は四つの姿を持っています。

一つは人の顔です。人は被造物の中で最も偉大な存在です。人の顔とは四つの生き物が持つ知恵を意味します。

二つは獅子の顔です。獅子は野の獣の中で最も偉大な存在です。獅子の顔とは四つの生き物が持つを意味します。

三つは牛の顔です。牛は家畜の中で最も偉大な存在です。牛の顔とは四つの生き物が持つ忠誠を意味します。

四つは鷲の顔です。鷲は鳥の中で最も偉大な存在です。鷲の顔とは四つの生き物が持つ敏速な動きを意味します。

私たち信じる聖徒もこのような四つの姿を持つべきです。アウグスティヌスをはじめ教父たちは「キリストこそこの四つのケルビム(生き物)の姿を完成させた父なる神のしもべである」と表現しています。

四つの生き物の行動を見るといくつかの特徴があります。

(1)一斉に前に向かってまっすぐ進みました(エゼキエル1:9,12)。

四つの顔を持つケルビムが同時に一つのところへ進むということは決して容易いことではないでしょう。しかし、四つの顔は同時に一つのところへと前進しました。これは四つの生き物の団結と協調を意味します。神様の御わざの為に努める人は、一つの目標を決定し、自分のすべてを後にして、先ず、焦点方向を合わせて行動すべきです。

(2)いなずまのひらめきのように速く行き来していた。

エゼキエル1:14節に、「生きものはいなずまのひらめきのように速く行き来していた.」と記されています。終わりの時、神の福音もすべての世界を敏速に征服するでしょう。

ルカ17:24節に、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように,人の子もその日には同じようであるだろう.」と述べています。もし、私たちが遅すぎるなら、いなずまのように速やかに進行される神さまの御わざの落伍者にならざるを得ません。足を速め、思いも決断も速やかにし、務めを速やかに処理しましょう!時を生かして用いましょう(エペソ5:16)。

四つの生き物の姿を完成させたイエス・キリストのように、四つの生き物の姿を私たちの生活の中にも完成しましょう!!

『 輪になりなさい 』(エゼキエル1:15〜21)

『わたしが生きものを見ていると,生きもののかたわら,地の上に輪があった.四つの生きものおのおのに,一つずつの輪である.もろもろの輪の形と作りは,光る貴かんらん石のようである.四つのものは同じ形で,その作りは,あたかも,輪の中に輪があるようである.その行く時,彼らは四方のいずれかに行き,行く時は回らない.四つの輪には輪縁とやとががあり,その輪縁の周囲は目をもって満たされていた.生きものが行く時には,輪もそのかたわらに行き,生きものが地からあがる時は,輪もあがる.霊の行く所には彼らも行き,輪は彼らに伴ってあがる.生きものの霊が輪の中にあるからである.彼らが行く時は,これらも行き,彼らがとどまる時は,これらもとどまり,彼らが地からあがる時は,輪もまたこれらと共にあがる.生きものの霊が輪の中にあるからである.』

 四つの生き物は輪を持っています。輪は速さを意味します。どんな物体でも輪があるとき速く動くことが出来ます。では四つの生き物の輪の特徴は何でしょうか?

 1.輪の中に輪があります。

 輪があるだけでも速いのに輪の中にまた輪があるとどれほど速いでしょうか?この世が速いなら私たちは神様の御わざに使わされる時、世の速さより速くなければなりません。

 この世は私たちが考えられないほど速いスピードで動いています。しかし世の輪の中に存在する教会の歩みはそれほど速くありません。世の速さについて行くことの出来ないほど遅れています。

 しかし私たちは神様の御わざに使わされる時は、何よりも、誰よりも、どこよりも速いスピードで速やかに動く必要があるのではないでしょうか?

 2.四方に生ける(エゼキエル1:17)

 エゼキエル1:17節に、「その行く時,彼らは四方のいずれかに行き,行く時は回らない.」と言われています。これは生き物の輪が生き物の願う方向によって速やかに動かされる構造を指しています。今日私たちも神様が願うとおりに速やかについて行く準備が出来ていなければなりません。

神様は突然私たちの前に多くの変化を要求する時があります。しかし、私たちは躊躇することなく速やかについて行かねばなりません。

「彼らは,女にふれたことのない者である.彼らは,純潔な者である.そして,小羊の行く所へは,どこへでもついて行く.彼らは,神と小羊とにささげられる初穗として,人間の中からあがなわれた者である.」−黙示録14:4−

3.輪の周りには目が満たされてある(エゼキエル1:18、黙示録4:6)

前進する時には目が満たされるべきです。それでこそ私たちの前にある障害物を避けられます。神様の目は炎のような目です(黙示録1・14、黙示録2:18、黙示録19:12)。これは何でも燃えさせる目、何でも見ることのできる目を指しています(歴代下16:9、ゼカリヤ4:10)。炎によってすべてのものが焼かれ、炎の前に総てがあかるみに出されるからです。今日も神様の炎のような目が私たちの生活の中に満ち溢れますようにお祈りいたします。

英語訳には“the spirit of the living creature [was] in the wheels.”と記されてあります。輪の中には生き物の霊があって生き物が願うままに輪を動かしたのです。今日私たちが主の輪になるためには私たちにも神の霊があるべきです。それで、神の霊がどこへ行こうとしたら私たちも霊が行こうとするところに行かねばなりません。

 神の霊が行けばわたしたちも行くし、霊が止まれば私たちも止まり、霊が上がると、私たちも上がるべきです(エゼキエル1:21)。ここで「霊」と言う言葉はヘブル語の意味は「生き物」言うと同時に「神の霊」と言う意味を示します。今日も神の霊が私たちの中に満たされ、神様の願うとおりに速やかに動かされる聖徒となりますように祝福いたします。


『 人の姿のような形 』(エゼキエル1:22〜28)

生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る_銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。

今までの四つの生き物は多くの輪と目を持って四つの姿の形で使わされました。そして四つの生き物の翼の声がありました。この声は大水の声のようでした。この大水の声は、全能者の声のようであって、大軍の声のようであると聖書に記されています。これは四つの生き物を通して神様の御言葉が宣布される御わざが成し遂げられることを示しています。

では、四つの生き物の働きと御言葉の宣布される根源は何処でしょうか?それは大空の上です。エゼキエル1章25節を見ると、「大空から声があった」と記されています。では四つの生き物の頭の上の大空から御言葉を宣布するのは誰でしょうか?それは人の形をしているお方であるとエゼキエル1章26節に記されています。そのお方こそ御子なる神イエス・キリスト御自身です。人の姿を取ってこの世で働くお方はイエス・キリストです。

私たちはイエス・キリストが四つの生き物を通して、また自ら四つの生き物の姿でさまざまな御わざと御言葉を宣布していることを知ることが出来ます。四つの生き物と火のような働きは、将来この世に来て聖霊の力でさまざまなしるしを施しながら神の国を示し、罪人らを救い出すイエス・キリストの御わざに対する前触れであると言えます。アウグスチヌスは四つの福音書に示されたキリストの特性を御使いたちの最も美しい四つの御わざの完成であると言われました。

マタイによる福音書に示されたイエス様の姿は、「王として来られたイエス」として、これは獅子のような姿です。マルコによる福音書に示されたイエス様の姿は、「しもべとして来られたイエス」として、これは牛のような姿です。ルカによる福音書に示されたイエス様は、「人の子として来られたイエス」として、これは人としての性質をもつ人の姿です。ヨハネによる福音書に示されたイエス様は、「神として来られたイエス」として神性を持って天を舞う鷲の姿です。

この時、預言者エゼキエルはバビロニアに捕われている状態にありました。これからまもなくユダ王国は完全にバビロニアに滅ぼされるでしょう。このような暗闇の歴史をエゼキエル1:4節では、激しい風と大いなる雲が北から来ると言われています。神様はこのような厳しい状況の中でエゼキエルに四つの生き物と、その生き物たちの上で御わざを示すイエス・キリストの姿を示されました。これは神様がイスラエルの人々の苦しみと痛みを顧みるお方であり、今もこの世で御わざを示し、神の民を救い出すお方であることを教えているのです。

罪人を救い出す神様の御計画は人間の罪や悪のゆえに廃棄されることなく、イエス・キリストによって必ず成し遂げられるでしょう。このお方は確かにこの世にある全ての罪や不条理と闇を追い払い、神様の御国を成し遂げるために再び来られるでしょう。人の姿のような形をしているお方の四つの面の輝く姿は雲にある虹のようであると言われています(エゼキエル1:28)この姿は黙示録に示される再臨の主の姿であります(黙示録14:4、10:1)。預言者エゼキエルはこの主なる神の栄光の前にひれ伏して語られる方の声を聞きました。わたしたちも主なる神の輝く栄光の前に謙遜な姿勢で、語られる御言葉に耳を傾ける者となりますように。


『 人の子よ立ち上がれ 』(エゼキエル2:1-4)

彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。そして 彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして 彼のわたしに語られるのを聞いた。彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。


エゼキエル1章で私たちは四つの生き物と人の姿の中にイエス・キリストの姿を見ました。エゼキエルは非常に驚くべき啓示を受けた時、彼はひれ伏しました。ひれ伏すエゼキエルに「人の子よ、立ちあがれ」と言う神様の御声がありました。なぜ、神様はエゼキエルに立ちあがるように求められたのでしょうか?

1. 神の御言葉を謙って受けるべき。

ネヘミヤ記の中に、学者エズラが書を開いた際すべての民が起立した様子が記されています。ネヘミヤ8:5〜6節に、「エズラはすべての民の前にその書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アーメン、アーメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。」とあります。
イスラエルの民は礼拝を捧げる前に、腰をかがめ顔を地面につけて神様を拝しました。しかし、御言葉を聞くときには立ち上がって、語られる御言葉の前で「アーメン」と答えました。これは御言葉を謙って受け取るという姿勢です。今の時代でも、座っている時に身分の高い人や目上の人があらわれると皆そのところで席を立ちます。今日の私たちも常に御言葉を受ける時には、最も偉大なる神様の御言葉を聞くという心構えを持つ事が大切です。

2.神様の御言葉を聞いて伝えるべき。

 神様はエゼキエルを立ち上がらせて御言葉を聞かせた後「わたしはあなたを彼らにつかわす.あなたは彼らに『主なる神はこう言われる 』と 言いなさい. 」(エゼキエル2:4)と言われました。神様が 私たちに御言葉を与えてくださる理由は、私たちを通してその御言葉を彼らに伝えさせるためです。
神様の御言葉を受けた人は、「生活の現場で御言葉を伝えよ」という勅令の声を同時に聞くことになります。イザヤは6:8節で、「だれがわれわれのために 行くだろうか。」と問われています。「主よ、私をお遣わしください」と告白する者となりますようにお願いします。

 私たちはどうしたら立ち上がることが出来るのでしょうか?
それは、神様の聖霊が臨む時立ち上がることが出来るのです。エゼキエル2:2節に、「霊がわたしのうちに 入り、わたしを立ちあがらせた。」と記されています。今日も聖霊様が私たちを立ち上がらせて下さるようにと祈りましょう。

では、聖霊様は私たちを立ち上がらせ、どこへ使わすのでしょうか?
 エゼキエル2:3節を見ると、「わたしが、わたしにそむいた反逆の民につかわす。」とあります。この「反逆の民」とはヘブル語で「ゴイム ハモルディム」という言葉が使われています。それは「偶像を崇拝することによって神様から捨てられた異邦人のような神聖を侮辱する者」を意味します。神様は御自分に逆らい侮辱した恥知らずな者、心のかたくなな者(エゼキエル2:4)に対しても御言葉を伝えようとされます。


 今日も私たちの周りには、私たちが福音を伝える事を諦めてしまっている人々が数え切れないほどたくさんいるのではないでしょうか?。
しかし神様は御自分を侮辱した恥知らず人々さえも救いに入る事を願っておられます。わたしたちは今日、御言葉を受けた者としてこのような人々に神の御言葉を伝えるために聖霊様の力を頂き、力強く立ち上がる事ができますように。


 
                   
 
『 伝道者の姿勢 』(エゼキエル2:5〜7)

「彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。」

神様は、エゼキエルを御言葉を伝える者として選びました。神様の御言葉を伝える者はどのような姿勢で語るべきでしょうか?

1.聞くか聞かざるかを問わず、伝えるべきです。

「彼らが聞いても、拒んでも....」この言葉は神様の御言葉を伝える時、結果を意識してはならないということを語っています。私たちは御言葉を伝える時、結果を意識しがちです。伝えても所詮無駄であり、結局徒労に終わるのではないか?などの理由で伝道することをやめようとしてしまいます。しかし、結果は私たちにあるのではなく、神にあるのですから、伝道の益がないと言うことで伝道することをやめてはいけません。

何故でしょうか?それは、私たちの伝道、すなわち神の御言葉を伝えることは神様からの命令であるからです。命令は結果に関係なく守らねばなりません。また、伝道は神様の公儀の表現であるからです。伝道を通して神様はすべての人々に救いの機会を与える公儀を尽くそうとしておられるからです。もし私たちが伝道をしないとするならば神様を不義の方としてしまうことになるでしょう。
5節に「彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。人の子よ、彼らを恐れてはならない。」と語られているように、最後まで悔い改めない人々に神様の怒りが発せられる時、彼らに言い訳をさせないと言う意味が含まれています。

2.苦しみが迫るとしても伝えなければなりません。

私たちは、
伝道することで悪口を言われたり、果ては追い出されたり、恥を受けたりすることもあります。しかし伝道をするために苦しみが迫ってくるとしても伝道することをやめてはいけません。エゼキエル2章6節に、「彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。」と言われています。
あざみといばらはパレスチナで自生する棘の多い植物で、人を刺します。さそりはアラビア砂漠で生息し、毒針で人を刺します。それと同じように、伝道をすることで刺される痛みもあるでしょう。
しかしイエス様はマタイ5章10〜12節で、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天國は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」と語っています。
今日も天の大いなる報いを望みながら困難の中からも熱心に伝道する皆さんになりますようにお祈ります。

3.神様の御言葉を伝えるべきです

エゼキエル2章7節には、「あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。」エゼキエル3章4節にも、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。」と言われています。  
私たちは神様の御言葉を伝える者となる為に呼び出されました。教会で様々な集会が開かれていますが、教会の果たすべき役割は神様の御言葉を伝えることが優先されなければなりません。今日、私たちは神様の御言葉を伝えているのでしょうか?神様の御言葉とは言いながらも、世の言葉を神様の御言葉に混ぜて伝えていないでしょうか?




『悲しみと嘆きと災の言葉』エゼキエル2:8〜3:3

人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。 あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。彼はわたしに言われた。人の子よ、あなたに与えられものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」。そこでわたしが口を開くと、彼はわたしにその巻物を食べさせた。そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい。わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。

神様はエゼキエルに御言葉を伝えるよう命じられました。そして、その巻物を食べるよう言われました。

この巻物は何でしょうか?

1.悲しみと嘆きと災いの言葉です

この巻物にある御言葉は、反逆したイスラエルの民族が受ける災いと滅びによる悲しみに関する内容が記されています。同時に、この御言葉は、世の終わりに臨む災いと滅びによる悲しみに関する究極的な内容でもあります(黙示録11:6、15:1)。

私たちは世に対し救いの喜びを伝えると同時に、世の終わりに臨もうとしている神の裁きを伝え、世の人々が悔い改めるようにしなければなりません。

2.表にも裏にも文字が書いてある書物です

本来巻物は片側にのみ記録されるのが普通です。しかしこの巻物は表にも裏にも記録されています。これは神様がイスラエルの民に宣布すべき責めと懲戒のメッセージが膨大であることを示しています。また、単純にその量的な分量において膨大であることを示すだけではなく、その質的な次元においても深さがあることを示しています。

この巻物は、黙示録5章1節に出てくる御座に座しているお方の右の手にある巻物と似類であることがわかります、「また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。」

神様の御言葉は、深さによって次元の違いがあります。目を通すだけでも理解することができる表面的な次元もあれば、神様との深い霊的な交わりによってのみ知ることの出来る裏面的な次元、すなわち御言葉の高い次元もあります。私たちは神を知る知識にますます豊む者にならなければいけません(第一ペテロ3:18)。イエス・キリストを知る知識の広さと長さと高さと深さを悟る力を備えることが必要です(エペソ3:18〜19)。

私たちはこの巻物をどうすべきですか?

1.食べるべきです。

 エゼキエル3:1節に、「〜人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」と言われています。同じようにエゼキエル2:8節にも、「あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」とあります。ここで云う「食べる」とは、単純に口に入れる事を意味するのではなく、「飲み込む」ことを示します。

私たちは御言葉を受ける時、自分に合う合わないを問わずに全て丸ごと食べるべきです。そのためにはまず口を開けなければなりません。エゼキエル2:8節に「口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」と記されています。

口を大きく開けるとは、「自らの意志をもって食べる(受ける)」という積極的な姿勢と、「慕い求める心」を表しています。
小さな子供に苦手な食べ物を食べさせようとしても、口を硬く閉めて開きません。しかし、子供の好物を与えると速やかに口を開いて食べようとします。それと同様に、神様の御言葉を慕い求め、すべてを受け入れる積極的な姿勢を表す事が大切です。

2.十分に食べて腹を満たすべきです。

これは御言葉の分量が満たされるべきことを示します。コップに水が満たされないと決して流れ出ることはありません。しかし、コップに水が満たされると水は流れ出ます。同じように私たちの中に神様の御言葉が満たされるとき、自分も知らないうちに私たちの言葉と生活において自然に御言葉が満ち溢れて流れ出るでしょう。コロサイ3:16節に、「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知惠をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」と言われています。私たちの心の中が御言葉によって満たされるならば、私たちは人を教え勧めることも出来るのです。

私たちが御言葉によって十分に満たされた時、蜜のように甘い御言葉の味を体験することが出来ます。黙示録10章にも神の御使いがヨハネに小さな巻物を食べるよう命じています。今日、私たちもこの小さな巻物である御言葉を食べて満たされ、溢れる恵みを流す御わざが、お一人一人の上にありますよう、主の御名によって祝福いたします


『 強さの二つの意味 』エゼキエル3:4〜15

ヘブル語の「ハザク」と言う単語は二つの相反する意味を持っています。エゼキエル3:7節に、「イスラエルの家はすべて厚顔でまた強情(ハザク)である。」と記されています。この「ハザク」はイスラエルの人々の状態をを表しています。しかし3:8節に、「わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅く(ハザク)した。」で用いられた「ハザク」は、「強くする」と言う意味で使われています。このように「強さ」には2つの種類ががあります。
  一つは自ら強くなることであり、もう一つは神様が強くしてくださる強さです。人の強さは長く続くことが出来ません。しかし神様の強さは永遠に続くのです。わたしたちは、神様が与えてくださる揺り動かされることのない強さを持つべきです。

  神様から与えられる強さの最も大きな特徴は何でしょうか?それは神の霊、聖霊の御わざが伴う生き方であると言うことです。神様がエゼキエルに向かって、「わたしがあなたを堅くした」と言われたとき、神様の霊がエゼキエルを引き上げたのです(エゼキエル3:12)。これはエゼキエルの肉体が引き上げられたのではなく、幻の中で彼の霊が引き上げられて移動したことを表しています(エゼキエル8:3、11:1、24)。これは、霊は時空を超えて御わざを行うことが出来るということを示しています。

彼は手のようなものを伸べて、わたしの髪の毛をつかんだ。そして霊がわたしを天と地の間に
引きあげ、神の幻のうちにわたしをエルサレムに携えて行き、北に向かった内庭の門の入口
に至らせた。そこには、ねたみをひき起すねたみの偶像があった。   −エゼキエル8:3−

時に霊はわたしをあげて、東に向かう主の宮の東の門に連れて行った。見よ、その門の入口
に二十五人の者がいた。わたしはその中にアズルの子ヤザニヤと、ベナヤの子ペラテヤを見
た。共に民のつかさであった。    −エゼキエル11:1−

その時、霊はわたしをあげ、神の霊によって、幻のうちにわたしをカルデヤの捕われ人の所へ
携えて行った。そしてわたしが見た幻はわたしを離れてのぼった。   −エゼキエル11:24−

聖霊に引き上げられるとエゼキエルは瞬間的に使命に対する苦々しい思いに陥りました。それで、「霊はわたしをもたげ、わたしを取り去ったので、わたしは心を熱くし、苦々しい思いで出て行った。〜」と言われています。ここで「心を熱くし」を新解約には「憤り」として新共同訳には「怒りに燃える心」として表現しています。KJV訳には「in the heat of my spirit」と書かれています。これは預言者エゼキエルが聖霊による心の熱さの中からどうすれば与えられた指名を果たすことが出来ようかと、主にある義憤によるものです。                                                
その時エゼキエルの上に神様の手(力)が強く臨みました(捕らえた、のしかかった)。まさにこの瞬間「主の手」がエゼキエルを強く捕らえたのです。
日々神様の使命を果たそうとする熱心と善い憤り(苦々しい)を持つ聖徒となりましょう。神様はこのような人々を必ず自らの御手の力を持って捕らえてくださるでしょう。



『 見張り人の姿 』
(エゼキエル3:16〜21)

 

七日過ぎて後、主の言葉がわたしに臨んだ、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、わたしに代って彼らを戒めなさい。わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、」あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う」。

  神様はエゼキエル預言者をテラビブにある捕囚民の中に送られます。そこにと留まってから七日後に神様の御言葉が臨みました。神様はエゼキエルをイスラエルの見張人と立てました。見張り人の真の姿はどういう姿であるべきでしょうか?

1.神の口から出る御言葉を聞くべきです。
エゼキエル3:17節に、「「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに〜」と言われています。見張り人は誰よりも神の御言葉を聴くものにならなければなりません。世には二つの声があります。蛇の惑わす声があり、神様の永遠の命をもたらす声があります。もし蛇の声を聞いて神様の御言葉を離れるなら、その瞬間から人生は不幸になります。アダムとエバは蛇の話に耳を傾け、神様の御言葉から離れた瞬間、喜びの園であるエデンから追い出されました。
 私たち信じる者は神様の御言葉を聴く者にならなければなりません。しかし、私たちはどれほど神様の御言葉を慕い、その御言葉を聞いているでしょう?

2.聞いた神の御言葉は伝えるべきです。
エゼキエル3:17「わたしに代って彼らを戒めなさい」と言われています。ここで「戒めなさい」と言う単語は「警告する」「指導する」「教える」などの意味を持っています。私たちは神様の御言葉を用いて人々を警告し、指導し、教える使命があります。
見張り人が御言葉伝えるとき四つの状況が発生します。
第一は:悪しき人を戒めないことによってその悪しき人は死ぬが、伝えなかった見張り人にその血の代価を求めます(エゼキエル3:18)。
第二は:見張り人が悪しき人を戒めても彼が悔改めないならその悪しき人は死にます。しかし伝えた見張り人は命を救われます(エゼキエル3:19)。
第三は:義人がその義に背いて罪を犯してもそれを戒めなければ、その義人は悪のために死ぬ。しかし伝えなかった見張り人にもその血の代価を求められます(エゼキエル3:20)。
第四は:見張り人が罪を犯す義人を戒めて彼が罪を犯さないなら、それによって見張り人も義人も生きることができます(エゼキエル3:21)。

以上のことから、見張り人に与えられた使命は伝えることです。伝えることは人を生かす道であり、同時に自分も生きる道となります。使徒パウロは第一コリント9:16に、「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」と言われています。
私たちは悪しき人にのみ伝えるのではなく、義人でありながら正しく主の道を歩むことのできない人々にも伝えるべきです。

聖書では見張り人はおもに、「災い」と「裁き」を警告する役割を担っています(サム下18:24〜27)。見張り人は町や町の外で敵の侵略や危険、火災や反乱が起こることを見たら直ちに人々に知らせる役割をしました。
 この役割を果たさない指導者たちをイザヤ56:10節は、「ほえない犬とも」と指摘しています。はたして自分が「ほえない犬」なのか「真の見張り人」なのかを省みてみましょう。



『唖者となったエゼキエル』
エゼキエル3:22〜27

その所で主の手がわたしの上に臨み、彼はわたしに言われた、「立って、平野に出て行きなさい。その所でわたしはあなたに語ろう」。そこで、わたしは立って平野に出て行った。見よ、主の栄光が、かつてわたしがケバル川のほとりで見た栄光のように、その所に立ち現れたので、わたしはひれ伏した。しかし霊がわたしのうちにはいって、わたしを立ちあがらせ、わたしに語って言った、「行って、あなたの家にこもっていなさい。人の子よ、見よ、彼らはあなたの上になわをかけ、それであなたを縛り、あなたを民の中に行かせないようにする。わたしはあなたの舌を上あごにつかせ、あなたを口のきけない人にして、彼らを戒めることができないようにする。彼らは反逆の家だからである。しかし、わたしがあなたと語るときは、あなたの口を開く。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言わなければならない。聞く者は聞くがよい、拒む者は拒むがよい。彼らは反逆の家だからである。

神はエゼキエルに二つの御言葉を語られました。ひとつはエゼキエルを縄で縛ばり、家から民の中へ行かせないという言葉と、もう一つはエゼキエルが口をきけなくなるということです。
 神様は預言者エゼキエルを民族の見張り人と立て、彼を通して神様の御言葉を語らせると言われました。では、どうして預言者エゼキエルの口をきけなくするのでしょうか?

 1.イスラエルの反逆のためです。
 これはイスラエルの人々は神様の御言葉を聞く価値さえないということです。どれほどイスラエルの人々の心が強情であって、神様がこのような決定をくだされたのでしょうか?エゼキエル書12:2節にも「人の子よ、あなたは反逆の家の中にいる。彼らは見る目があるが見ず、聞く耳があるが聞かず、彼らは反逆の家である。」と言われています。反逆の民は決して神様の御言葉を聞こうとも見ようともしないからです。今に生きる私たちも、神様が私に向かって口を閉ざす前に御前にへりくだり、神の御言葉を確かに聞く人となりましょう。

 2.神様の御言葉だけを語らせるためです。
 神様は預言者エゼキエルの口をきけないようにされましたが、神様の御言葉を語らせる時には口を開いて御言葉を語ることができるようにされました。そして語らせた後、再び口が聞けないようにしたのです。これは神様によってたてられた神様の働き人は、人の言葉を語るのではなく、ただ神様の御言葉だけを語るべきであることを教えるためです。
 エゼキエル24:27節には、「その日あなたは、そののがれてきた者に向かって口を開き、語り、もはや沈默しない。こうしてあなたは彼らのためにしるしとなり、彼らはわたしが主であることを知る。」と言われています。エゼキエル33:21〜22節にも、「わたしたちが捕え移された後、すなわち第十二年の十月五日に、エルサレムからのがれて来た者が、わたしのもとに来て言った、「町は打ち破られた」と。その者が来た前の夜、主の手がわたしに臨んだ。次の朝、その人がわたしのもとに来たころ、主はわたしの口を開かれた。わたしの口が開けたので、もはやわたしは沈默しなかった。」と記されている通りです。

今日も、私たちは霊の唖者になるべきです。そして私の思いと私の言葉を語る口を閉ざし、神様の御言葉だけを伝える口になるべきです。自分の思いを語り、自分のわがままを示し、自分の言葉を語ろうとする口は速やかに閉ざし、神様の思いと御言葉、神様の愛を語る人となりますように主の御名によって祈ります。

『二つの象徴的な行動』
エゼキエル4:1-8

人の子よ、一枚のかわらを取って、あなたの前に置き、その上にエルサレムの町を描きなさい。そしてこれを取り囲み、これにむかって雲梯を設け、塁を築き、陣を張り、その回りに城くずしを備えてこれを攻めなさい。また鉄の板をとり、それをあなたと町の間に置いて鉄の壁となし、あなたの顔をこれに向けなさい。町をこのように囲んで、その包囲を押し進めなさい.これがイスラエルの家のしるしである.あなたはまた自分の左脇を下にして寝なさい。わたしはあなたの上にイスラエルの家の罰を置く。あなたはこのようにして寝ている日の間、彼らの罰を負わなければならない。わたしは彼らの罰の年数に等しいその日数、すなわち三百九十日をあなたのために定める。その間あなたはイスラエルの家の罰を負わなければならない。あなたはその期間を終ったなら、また右脇を下にして寝て、ユダの家の罰を負わなければならない。わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定める。あなたは自分の顔をエルサレムの包囲の方に向け、腕をあらわし、町に向かって預言しなければならない。見よ、わたしはあなたに、なわをかけて、あなたの包囲の期間の終るまで、左右に動くことができないようにする。 エゼキエル4:1〜8

 神様はエゼキエル4章の御言葉の中に三つの象徴的な行動を示しています。一つは4:1〜3節は一枚のかわらを用いる象徴的な行動、二つ目は4〜8節の、左右の脇を下にして寝るという行動、そして三つ目が9〜17節の汚れたパンを食べる行動です。これらはいったい何を意味しているのでしょうか?

1.一枚のかわらを取る象徴的な行動
神様は預言者エゼキエルに一枚のかわら(やわらかい粘土を乾かして造ったレンガ・新改訳では粘土板、新共同訳にはレンガとして表現されている。)を取り、その上にエルサレムを刻むよう命じられました。そして、雲梯を設け、塁を築き、陣を張るようイスラエルを包囲するよう言われています。
 ここにある雲梯(うんてい)とは古代の戦闘において城を攻撃する武器として輪がついている一種の見張り台で、高いところから城を覘きながら矢と石で敵を攻撃するために使われる武器です。塁(るい)とは土で作った小さな丘です。城くずしは大きな柱の前に金属を付着して城の壁や門を壊す兵器です。鉄板を預言者エゼキエルとかわらの上に書いたエルサレムの町の間におくように言われたのは、エルサレムの町に対するバビロニアの軍の強力な包囲網を示します。

2.左右の脇を下に寝る象徴的な行動
 左脇を下に390日寝ることの意味は、北イスラエルの罪を負うことです。390日は、一日を一年に計算して390年を意味します。これは北イスラエル王国が、建国の時からユダヤの第一次バビロニア捕囚から帰還するまでの期間である約390年を示しています。
 また右脇を下に寝るのは南ユダ王国の最後の40年間の罪を負うことです。これも一日を一年として計算して40年を示しています。これは南ユダ王国の最後の40年間の犯罪を示します。390年と40年を合わせると430年で、これはイスラエルの人々がエジプトで受けた苦しみの期間と同じです(出12:40〜41)。すなわち南北イスラエルがバビロニアとアッシリアから受ける艱難の期間を象徴的に表現しているのです。
 神様はエゼキエルに、エルサレムに向かって腕をまくり預言するよう言われました(4:7)。腕をまくる行為は争いや戦闘の時に取る姿勢です(イザヤ52:10)。これは神様の御言葉を伝える時、傍観者のような消極的な姿勢ではなく、積極的で戦闘的な姿勢で伝えなさいということです。続いて神様は、エゼキエルになわをかけて罪を負うあいだ、動けないようにすると言われました(4章8節)。これは御言葉を伝える者は完全に神様に捕らえられた者になるべきであることを示しています。

 今日も神様に完全に捕らえられて、積極的な姿勢で御言葉を証する一日でありますようにお祈りします。


三つ目の象徴的な行動

エゼキエル4:9-17

「あなたはまた小麦、大麦、豆、レンズ豆、あわ、はだか麦を取って、一つの器に入れ、これでパンを造り、あなたがメになって寝る日の数、すなわち三百九十日の間これを食べなければならない。あなたが食べる食物は量って一日に二十シケルである。あなたは一日に一度これを食べなければならない。また水を量って一ヒンの六分の一を一日に一度飲まなければならない。あなたは大麦の菓子のようにしてこれを食べなさい。すなわち彼らの目の前でこれを人の糞で焼かなければならない」。そして主は言われた、「このようにイスラエルの民はわたしが追いやろうとする国々の中で汚れたパンを食べなければならない」。そこでわたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしは自分を汚したことはありません。わたしは幼い時から今日まで、自然に死んだものや、野獣に裂き殺されたものを食べたことはありません。また汚れた肉がわたしの口にはいったことはありません」。すると彼はわたしに言われた、「見よ、わたしは牛の糞をもって人の糞に換えることをあなたにゆるす。あなたはそれで自分のパンを整えなさい」。またわたしに言われた、「人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く、彼らはパンを量って、恐れながら食べ、また水を量って驚きながら飲む。これは彼らをパンと水とに乏しくし、互に驚いて顔を見合わせ、その罰のために衰えさせるためである。

 神様は預言者エゼキエルに三つ目の象徴的な行動をするように命じられました。それは6つの穀物を取って一つの器に入れパンを作って食べることです。このパンとはどんなパンでしょうか?

1.このパンは不正のパンです。

 なぜなら六つの穀物を混じって作ったパンであり、糞で焼くパンであるからです。レビ記19:19節にも「二種の種をまいてはいけない、二種の絲の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。」と言う御言葉を見るとき、六つの穀物を混ぜるとは、このパンが汚れたパンであることを教えているのです。

 これは、これから食物がなくなり種々の穀物を混ぜるしかない状態を預言すると同時に、イスラエルの人々の状態がさまざまな世的なもので混ぜられていることを教えています。また、糞で焼くことは、人の糞を使わずにはなれないほどの燃料が足りない時期が来ることを預言していると同時にイスラエルの人々が糞のように汚い臭いがする存在になったことを教えています。

 エゼキエル4:13節で、「そして主は言われた、「このようにイスラエルの民はわたしが追いやろうとする国々の中で汚れたパンを食べなければならない。」と言われました。これは汚れたパンを食べざるを得ない状態である、という御言葉を通して、イスラエルの人々が悔い改めなければ、イスラエルの人々が完全に滅ぼされることを預言し、警告している御言葉でもあります。

2.このパンは苦しみの中で食べるパンです。

エゼキエル4:16節に、「またわたしに言われた、「人の子よ、見よ、わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。彼らはパンを量って、恐れながら食べ、また水を量って驚きながら飲む。」と言われています。ここで、「おびえる」はヘブル語の意味で、「激甚な恐ろしさ」を意味し、「驚き」はヘブル語で、「魂が抜ける、驚愕する」と言う意味を持っています。

参考:「恐れながら、驚きながら」(口語訳)、「おびえながら、硬直」(新共同訳)、こわごわ、おびえながら(新改訳)、

上記の内容は、これからイスラエルが敵に囲まれて激しい恐ろしさと驚きの中で糧を得る事になると語っています。神様がイスラエルの人々に対してそのようになさる理由は、世の糧に委ねるのではなく、神様だけに委ねさせようとする御心によるものです。エゼキエル4:16節で、「わたしはエルサレムで人のつえとするパンを打ち砕く。」と言われているのは、これまでイスラエルの人々の生活が見える糧にのみ委ねて、神様に委ねることをしなかったことを表しているのです。

 今日、私たちは何に委ねているでしょうか?真に神様に委ねているでしょうか?自分の魅力、自分の富、自分の権力、自分の知識、自分の才能、自分の能力に委ねてはいませんか?今日も神に委ねつつ、人生の障害物を乗り越えることができますようにと願います。

「まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。」 −詩篇18:29−


頭とひげを剃りなさい

エゼキエル5:1〜4

「人の子よ、鋭いつるぎを取り、それを理髪師のかみそりとして、あなたの頭と、ひげとをそり、はかりで量って、その毛を分けなさい。その三分の一は包囲の期間の終る時、町の中で火で焼き、また三分の一を取り、つるぎで町のまわりでこれを打ち、さらに三分の一を風に散らしなさい。わたしはつるぎを抜いて、彼らのあとを追う。あなたはその毛を少し取って、衣のすそに包み、またそのうちから少しを取って火の中に投げ入れ、火でこれを焼きなさい。火はその中から出て、イスラエルの全家に及ぶ。」

 エゼキエル5:1〜4はエゼキエル4章につながる第四の象徴的な行動です。神は預言者エゼキエルに鋭いつるぎを取って頭とひげとをそるように命じられました。

 

1.頭とひげをそると言う行動にはどういう意味があるのでしょうか?

それぞれが大きく二つの意味があります。先ず、頭とひげを剃られるというのは侮辱を意味します。ダビデがしもべたちをアンモン人々のところに使わした時、彼らの王ハヌンはダビデのしもべたちを捕らえひげの半ばをそり落としました(サムエル下10:1〜4)。これは大変な恥かしめを受けた事を意味しています。

神様がエゼキエルに言われた「頭とひげを剃りなさい」ということは、これからイスラエルがバビロンによって滅ぼされ侮辱を受けることを預言した言葉です。また、二つ目の意味は、頭とひげを剃られることは祭司長としての働きの停止を意味します。レビ記21:5〜6を見れば、「彼らは頭の頂をそってはならない。ひげの両端をそり落してはならない。また身に傷をつけてはならない。彼らは神に対して聖でなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の食物をささげる者であるから、聖でなければならない。」とありますから、祭司長が頭とひげを剃られることは、神の前で自分の献身と聖別を諦めることです。したがって預言者エゼキエルの頭とひげを剃る行為は、すなわちイスラエルに与えられた祭司の国としての権限(出エジプト記19:6)を神が取り消すという宣言です。

 

 2.なぜ三つの方法で頭とひげを処分するよう命じられたのでしょうか?

 神様は頭とひげの三分の一は町の中で焼くよう言われます。これはイスラエルの人々が町の中で受ける苦しみを意味します。エゼキエル5:16〜17節を見るとイスラエルの人々が町の中で飢饉と疫病で苦しみを受けるようになると記されてあり、エゼキエル5:12節にも、「あなたの三分の一は疫病で死に、飢饉で滅びる。」と記されています。

 次に、頭とひげの三分の一は町のまわりでつるぎで打つように言われました。これはイスラエルの人々が町のまわりで戦い、つるぎで殺されることを意味します(エゼキエル5:12)。

 そして残りの三分の一を風に散らすように言われています。これはイスラエルの人々が神の懲戒を受けて諸国に散らされることを意味します。それと頭とひげの少しを取って火の中に投げるよう言われています。その火がイスラエルの全家に及ぶと言われています(エゼキエル5:4)。これは災いがイスラエルの一部ではなく、イスラエル全体に与えられることを意味します。

 今日の私たちはどうでしょうか?髪とひげを剃ることは、恥を受ける事を意味します。神の祭司=クリスチャンとしての献身や聖別された歩みを放棄して、神様に対する恥を表してはなりません。自分の美しさを示そうとするのではなく、選ばれた民として、神様から認められる存在になりましょう。


裁きの理由

エゼキエル5:5〜17

 主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。エルサレムは他の国々よりも悪しく、わたしのおきてにそむき、そのまわりの国々よりもわたしの定めにそむいた。すなわち彼らはわたしのおきてを捨て、わたしの定めに歩まなかった。  それゆえ主はこう言われる、あなたがたはそのまわりにいる異邦人よりも狂暴であって、わたしの定めに歩まず、わたしのおきてを行わず、むしろ、あなたがたの回りにいる異邦人のおきてを守っていた。それゆえ主なる神はこう言われる、見よ、わたしはあなたを攻め、異邦人の目の前で、あなたの中にさばきを行う。あなたのもろもろの憎むべき事のために、わたしがまだした事のないような事、またこの後ふたたびしないような事をあなたに対してする。それゆえ、あなたのうちで父はその子を食い、子はその父を食う。わたしはあなたに対してさばきを行い、あなたのうちの残りの者をことごとく四方の風に散らす。それゆえ、主なる神は言われる、わたしは生きている。あなたはその忌むべき物と、その憎むべき事とをもって、わたしの聖所を汚したので、わたしは必ずあなたの数を減らす。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またわたしはあなたをあわれまない。あなたの三分の一はあなたの中で疫病で死に、ききんで滅び、三分の一はあなたのまわりでつるぎに倒れ、三分の一は四方の風に散らされる。わたしはつるぎを拔いてそのあとを追う。こうしてわたしは怒りを漏らし盡し、憤りを彼らの上に漏らして、滿足する。こうして、わたしの憤りを彼らの上に漏らし盡した時、彼らは主であるわたしが熱心に語ったことを知るであろう。

わたしはまわりにある国々の中と、すべてそばを通る者の目の前であなたを滅亡とあざけりに渡す。わたしが怒りと、憤りと、重い懲罰とをもって、あなたに対してさばきを行う時、あなたはそのまわりにある国々のあざけりとなり、そしりとなり、戒めとなり、驚きとなる。これは主であるわたしが語るのである。すなわち、わたしがあなたを滅ぼすききんの矢、 滅亡の矢をあなたに放つ時、わたしはあなたを滅ぼすために放つのだ。わたしはあなたの上にききんを≠オ加え、あなたがつえとするパンを打ち 砕く。わたしはあなたにききんと野原を送って、あなたの子を奪い取りまた疫病と流血にあなたの中を通らせ、またつるぎをあなたに送る。主であるわたしがこれを 言う 」。

 

神様はイスラエルを世界の中心の国家として据えられました。エゼキエル5:5節に「主なる神はこう言われる、わたしはこのエルサレムを万国の中に置き、国々をそのまわりに置いた。」と言われています。実際イスラエルは地理的には様々な国によって囲まれています。上はアラム、アッシリア、バビロン、ペルシヤ、そして下はエジプトなどから常に脅威にさらされていました。

しかしこれは神の御言葉を全世界に伝える使命がイスラエルにあったということを物語っています。同時に、神様によって選ばれた私たちクリスチャンが世の光、塩としての使命があることをも教えています。すなわち神様がイスラエルを神政国家に建てられたのは(出エジプト19:5〜6)、世界全ての民のための救いの方便として建てられたのです。

 神様は創世記18:18節に、「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。」と言われています。これは正にイスラエルが全ての民に祝福を与える祝福の源になるということを語られたのです。

 今日神様が私たちを呼び出されたのも正に世界宣教の中心なる者にさせるためです。しかし世界の中心国家であるイスラエルを、神様は「裁く」と宣言されました。なぜでしょうか?それはイスラエルが罪を犯したからです。ではイスラエルが犯した罪とは何でしょうか?

 

1.神様の掟を捨てて守らなかったからです。

エゼキエル5:6節に、「エルサレムは他の国々よりも悪しく、わたしのおきてにそむき、そのまわりの国々よりもわたしの定めにそむいた。すなわち彼らはわたしのおきてを捨て、わたしの定めに歩まなかった。」と言われています。

エゼキエル5:7節にも、「〜わたしの定めに歩まず、わたしのおきてを行わず、〜」と言われています。ここに記された「掟」はヘブル語では「裁判になる規範」を意味し、「定め」はヘブル語で「イスラエルが守るべき道徳法、意識法、市民法」を意味しています。つまり、掟と定めは神様の御言葉を指しています。

神様の御言葉を捨てるならば、必ず神様の審判を受けます。私たちは御言葉に従う人にならなければなりません。ヤコブ1:25節に、「〜こういう人は、その行いによって祝福される。」と言われています。

 

2.神の宮を汚したからです。

エゼキエル5:11節で、「それゆえ、主なる神は言われる、わたしは生きている。あなたはその忌むべき物と、その憎むべき事とをもって、わたしの聖所を汚したので、わたしは必ずあなたの數を減らす。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またわたしはあなたをあわれまない。」と言われています。

この「忌むべきもの」とは「偶像」を、そして、「憎むべきこと」は「偶像崇拝の行為」を意味します。この言葉の共通点は、忌み嫌うべきもの、吐き出すほどの汚いもの、またそのような行いを意味します。私たちの心は汚れていないでしょうか?淫乱と不正、腐敗と放蕩、貪欲そして利己心などで満たされていませんか?

イスラエルの人々の状態は、異邦人より罪を犯しいている、と書かれています(エゼキエル3:6〜7)。イエス様は「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。(マタイ5:20)」と言われました。私たちは道徳においても世の不信仰の人々より勝る生き方を取るべきです。真に神様を信じるならば私たちの人格が変化され道徳的にも美しい姿を表すべきではないでしょうか。日々、御言葉を実践し、祝福を受ける者となりますように。


わたしが主であることを知るようになる

エゼキエル6:1〜14

 

主の言葉が、わたしに臨んで言った、「人の子よ、あなたの顔をイスラエルの山々に向け、預言して、言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は山と丘と、谷と川に向かって、こう言われる、見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。あなたがたの祭壇は荒らされ、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、骨をあなたがたの祭壇のまわりに散らす。

すべてあなたがたの住む所で、町々は滅ぼされ、高き所は荒らされ。こうしてあなたがたの祭壇はこわし荒らされ、あなたがたの偶像は砕かれて滅び、あなたがたの香の祭壇は倒され、あなたがたのわざは消し去られる。また殺された者はあなたがたのうちに倒れる。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した?のために、みずからをいとうようになる。そして彼らはわたしが主であることを知る。この災を彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない」。主なる神はこう言われる、「あなたは手を打ち、足を踏みならして言え。ああ、イスラエルの家のすべての悪しき憎むべき者はわざわいだ。

彼らはつるぎと、ききんと、疫病に倒れるからである。遠くにいる者は疫病で死に、近くにいる者はつるぎに倒れる。生き殘って身を全うする者はききんによって死ぬ。このようにわたしはわが憤りを彼らの上に漏らし盡す。彼らの殺される者がその偶像の中にあり、その祭壇のまわりにあり、すべての高き丘の上にあり、すべての山の頂にあり、すべてのヨ木の下にあり、すべての茂ったかしの木の下にあり、彼らがこうばしいかおりを、すべての偶像にささげた所にある時、あなたがたはわたしが主であることを知るのである。わたしはまた手を彼らの上に伸べて、その地を荒し、すべて彼らの住む所を、荒野からリブラまで荒れ地とする。これによって彼らはわたしが主であることを知るようになる」。

 

 

神様は二つの属性を持っております。すなわち、神様は裁きの神でありながら、憐れみを施す神です。

1.エゼキエル6:1〜7節は裁く神様の姿を示しています。

イスラエルの民が裁かれる理由は偶像崇拝です。エゼキエル6:3〜4節で、「〜主なる神の言葉を聞け。主なる神は山と丘と、谷と川に向かって、こう言われる、見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。あなたがたの祭壇は荒らされる〜」と言われています。偶像崇拝する者は必ず滅ぼされるようになると言われています。

今日、私たちクリスチャンが、山や太陽を偶像として崇拝することはありませんが、私たちには神様より愛する物や快楽と言う偶像があります。私たちは、このような偶像すべてを砕くべきです。

 

2.エゼキエル6:8〜14節は、裁きの中からも憐れみを施す神様の姿を示しています。

エゼキエル6:8節で、「わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、」と言われています。

「ある者」を生しておくのは何故でしょうか?それは、残された人々を通して神様の救いの御わざを進ませるためです。イザヤ10:20節にも、「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、もはや自分たちを撃った者にたよらず、真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、」と言われています。神様は、生かされた人々が真に神様に立ち返り、彼らを通して救いの御わざが進められることを願っているのです。

では、彼らはどのようにして生かされたのでしょうか?それは、彼らが正しかったからでは決してありません。ただ、神様の恵みによって生かされたのです。したがって、私だけが特別だと言う選民意識や高慢な意識を持ってはいけません。

ローマ11:4〜5節にも「しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。それと同じように、今の時にも、惠みの選びによって残された者がいる。」と言われています。神様が彼らを恵みの選びによって残されたのは、彼らを通して他の人々を救うための、救いの管として立てられたのです。

 神様が裁き、憐れみを施す究極的な理由は何でしょうか?それは神様が「わたしを主であることを知らせるために」であると言われています。

 「わたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル6:7)。

 「わたしが主であることを知る。」(エゼキエル6:10)。

 「わたしが主であることを知るのである。」(エゼキエル6:13)。

 「わたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル6:14)。

出エジプト7:17節にも、エジプトでイスラエルの民を救う神様が、「これによってわたしが主であることを、あなたは知るでしょう。」と言われています。
主なる神は救いの神様です。今日、私たちが如何なる困難の中にいても落胆してはいけません。何故ならば必ず主なる神が私たちを救い出して下さるからです。


あなたはもう終わりである

エゼキエル7:1〜13

の言葉がまたわたしに臨んだ、「人の子よ、イスラエルの地の終りについて主はこう言われる、この国の四方の境に終りが来た。いま、あなたの終りが来た。わたしはわが怒りをあなたに漏らし、あなたの行いに從って、あなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき物のためにあなたを罰する。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたを罰する。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。主なる神はこう言われる、災が引き續いて起る。見よ、災が來る。終りが来る。その終りが来る。それが起って、あなたに臨む。見よ、それが来る。この地に住む者よ、あなたの最後の運命があなたに来た。時は来た。日が近づいた。混乱の日で、山々に聞える喜びの日ではない。今わたしは、すみやかにわたしの憤りをあなたの上に注ぎ、わたしの怒りをあなたに漏らし尽し、あなたの行いに従ってあなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき事のためにあなたを罰する。わたしの目はあなたを惜しみ見ず、またあなたをあわれまない。わたしはあなたの行いのためにあなたを罰する。あなたの憎むべき事があなたのうちにある。これによって、あなたがたは、主であるわたしがあなたを撃つことを知るようになる。見よ、その日を。また見よ、かの日が来た。あなたの最後の運命が来た。不義は花咲き、高ぶりは芽を出した。暴虐はつのって悪のつえとなった。彼らもその群衆も、その富も消え、また彼らの名声も消えて何も残らなくなる。時は来た。日は近づいた。買う者は喜ぶな。売る者は悲しむな。怒りがすべての群衆の上に臨むからだ。売る者はたとい生きていても、その買ったものに帰ることはない。怒りがそのすべての民衆の上にあるからだ。それはもとに帰らない。その不義のために、だれも命を全うすることはできない。

上記の本文に最も多く登場するのは「終わり」と言う言葉です。

「〜終わりに」「〜終わりが」(エゼキエル7:2)。「終わりが来た」(エゼキエル7:3)。「終わりが来る。」「その終わりが来る。それが起こって、あなたに臨む。見よ、それが来る。」(エゼキエル7:6)。

 一般的にも何か事が上手くいかなくなった時、「あなたはもう終わりだ」と言い方をします。では神様の「終わりが来た」と言う御声にはどのような意味が含まれているのでしょうか?

 1.神様が必ず私たちを裁く時があるという事です。

「終わりが来た」と言う御言葉はもう神様の裁きの時になったということです。

  神様は私たちを大切に惜しみ見てくださるお方です。マラキ3:17節にも「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの寶となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ(惜しみ見る)。」と言われています。しかし、私たちに対する神様の哀れみにも限界があります。「わたしの目はあなたを惜しみ見ず」と言われています(エゼキエル7:4、9)。

 2.「終わり」は新しい始まりでもあります。たとえ今の私が「終わり」の状態であるとしても、悔改めるならば新たな出発点となります。

 神様が私たちに、「あなたはもう終わりだ」と言われた時、私たちに向かって、「悔改めるならば新しい始まりがある」と言うことをも同時に知らせて下さるのです。「Spare the rod and spoil the child」と言うことわざがあります。これはムチを惜しむと子を駄目にすると言う意味です。

子を立派に育てたいならムチを惜しんではいけないのと同じように、神様も私たちのより良い未来のために今の状態の私たちを惜しむことをしないのです。今日「あなたはもう終わりである!」と言う御声を聞いたなら、過去を悔改め、新しい出発ができる皆様でありますように。

 

  3.神様は私たちの行いに従って報いを与えるお方です。

 エゼキエル7:3節に、「あなたの行いに従って、あなたをさばき、あなたのもろもろの憎むべき物のためにあなたを罰する。」と言われています。また、4節では、「わたしはあなたの行いのためにあなたを罰する。」と言われ、7:8節では、「あなたの行いに従ってあなたをさばき、」、エゼキエル7:9節では、「わたしはあなたの行いのためにあなたを罰する。」と言われています。

神様は必ず私たちの行いにしたがって報いを与えるお方です。確かに私たちが救われたのは、神様の恵みによります。しかし神様の裁きと嗣業は行いに従って受けるのだということを心に明記しましょう。

  黙示録20:21節に、「死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。」と記されています。マタイ16:27節では、「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。」とある通りです。

私たちの行いには必ず賞罰があります。ですから私たちは賞を受ける報いが待っている行動を取るべきではないでしょうか。

結論:たとえ、今、「あなたはもう終わりである!」と言われたとしても、心からの悔改めと決断をくだすことによって、その絶望が希望の始まりに変わる御わざがありますよう主の御名によってお祈りいたします。

 

 



エゼキエル・ストーリーは不定期に更新しますのでご了承下さい。


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