『エゼキエル・ストーリー』

[ 1章〜7章 13節まではこちらをご覧下さい]

 7章「裁きの方法」/ 8章「憎むべきことを取り除きなさい」
9章「額に印を受ける者と印を押す者」「裁きはどこから始まるのか」
 10章「裁きの道具」 まわりに目が満ちていた 「最も大きな悲劇」
NEW!11章「偽りの預言者と真の預言者 」

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『裁きの方法』

エゼキエル7:14〜27

人々がラッパを吹いて備えをしても戦いに出る者はない。それはわたしの怒りがそのすべての群衆の上にあるからだ。外にはつるぎがあり、内には疫病とききんがある。畑にいる者はつるぎに死に、町にいる者はききんと疫病に滅ぼされる。そのうちの、のがれる者は谷間のはとのように山々に行って、おのおの皆その罪のために悲しむ。両手とも弱くなり、両ひざとも水のように弱くなる。彼らは荒布を身にまとい、恐れが彼らをおおい、すべての顔には恥があらわれ、すべての頭は髪をそり落す。彼らはその銀をちまたに捨て、その金はあくたのようになる。主の怒りの日には金銀も彼らを救うことはできない。それらは彼らの飢えを滿足させることができない、またその腹を満たすことができない。それは彼らの不義のつまずきであったからだ。彼らはその美しい飾り物を高ぶりのために用い、またこれをもってその憎むべき偶像と忌むべき物を造った。それゆえわたしはこれを彼らに対して汚れたものとする。わたしはこれを外国人の手に渡して奪わせ、地の悪人に渡してかすめさせる。彼らはこれを汚す。わたしは彼らから顔をそむけて、彼らにわたしの聖所を汚させる。強盜がこれにはいって汚し、また荒れ地とする。この地は流血のとがに満ち、この町は暴虐に満ちているゆえ、わたしは国々のうちの悪い者どもを招いて、彼らの家をかすめさせる。わたしは強い者の高ぶりをやめさせる。また彼らの聖所は汚される。滅びが来るとき、彼らは平安を求めても得られない。災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼らは預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。王は悲しみ、つかさは望みを失い、その地の民の手はおののきによってこわばる。わたしは彼らの行いに従って彼らをあつかい、そのさばきに従って彼らをさばく。そして彼らはわたしが主であることを知るようになる」。

神様は色々な方法で裁きを行います。

1.剣と疫病とききんの方法で裁きます(エゼキエル7:15). 
  これらの御言葉は、主前(AD)586年、南ユダ滅亡の前後にエルサレムの人々が受ける災いについて語られています。実際に、バビロン王のネブカデネザルによってエルサレムは3年間包囲され、陥落されるまで数多くの殺戮(さつりく)と疫病とききんが襲いました(列王下25:1〜12)。このことは、私たちがいかに多くの物を蓄えて豊かになったとしても、神様が取り去るなら、人間的などんな手立てによっても守る事は不可能であり、すべてのものが破壊されることを示しています。

2.肉体的に弱くする(エゼキエル7:17)
 エゼキエル7:17節に、「両手とも弱くなり、両ひざとも水のように弱くなる。」と記されています。私たちがどれほど自分の体の健康のために健康食品を多く摂り、健康管理を十分に行ったとしても、神様が私たちの両手と両ひざを弱めるなら、すべての労苦がすべて無駄になると言うことです。私たちがまずすべき事は、神様との関係を正さなければなりません。その上で、自らの健康管理を行うべきでしょう。

3.使い道のない物にします(エゼキエル7:19)
 エゼキエル7:19節で、「彼らはその銀をちまたに捨て,その金はあくたのようになる.主の怒りの日には金銀も彼らを救うことはできない.それらは彼らの飢えを滿足させることができない,またその腹を滿たすことができない.それは彼らの不義のつまずきであったからだ.」と記されているように、神様の裁きが来ると、金銀が何の役にも立たなくなります。ここでいう「あくだ」とは、汚物や排泄物のような汚い物を意味します。

これは、神様の裁きの時には、人間が普段最も大切に思っている金銀や宝石類などがゴミや排泄物のように捨てるようになるであろうと言う御言葉です。今この世は物質万能主義によって、物が神のように慕われ、もてはやされています。しかし物は、物でしかありません。物によって魂が救われることはありません。物が人の心に永遠の満足を与える事はできません。金で高価なベットを買うことはできても、安眠を買うことはできません。金で女性を買うことはできても、真の愛を買うことはできません。金で権力を買うことはできても幸福を買うことはできません。金で教会の役職を買うことはできても救いを買うことはできません。金も神様の被造物に過ぎないからです。このような金を治め、征服する私たちでなければなりません。金を神様の栄光のために用いるべきです。

また、私たちが日々頼りにしているのは、物だけとは限りません。地位や名誉、力のある人がいたとしても、神様は私たちから切り離されます。
エゼキエル7:26節で、「災に災が重なりきたり、知らせに知らせが相つぐ。その時、彼ら預言者に幻を求める。しかし律法は祭司のうちに絶え、計りごとは長老のうちに絶える。」と記されてある通りです。神様の裁きの前に、世の力は、私たちに何も助けを与える事はできません。聖書にこう記されています「もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。ヤコブの神をおのが助けとし、その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。」
                                (詩篇146:3〜5)

 私たちの物質的な豊かさも、健康も、全てが神様によって与えられています。神様の裁きの前には、人は何人たりとも立ち行く事はできないことを悟り、神様の御前に、私たちは、日々、謙遜な心を持って神様にゆだねるべきです。


『憎むべきことを取り除きなさい』

エゼキエル8:1〜18

 

第六年の六月五日にわたしがわたしの家に座し、ユダの長老たちがわたしの前に座していたとき、主なる神の手がわたしの上に下った。わたしは見ていると、見よ、人のような形があって、その腰とみられる所から下は火のように見え、腰から上は光る青銅のように輝いて見えた。彼は手のようなものを伸べて、わたしの髪の毛をつかんだ。そして霊がわたしを天と地の間に引きあげ、神の幻のうちにわたしをエルサレムに携えて行き、北に向かった内庭の門の入口に至らせた。

そこには、ねたみをひき起すねたみの偶像があった。見よ、そこに、わたしがかの平野で見た幻のようなイスラエルの神の栄光があらわれた。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。

しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。

シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。

見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているこれらの憎むべきわざは軽いことであるか。彼らはこの地を暴虐で満たし、さらにわたしを怒らせる。見よ、彼らはその鼻に木の枝を置く。それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。

 神様の霊は、バビロンに捕囚の身となってケバルの川にいたエゼキエルを、遠く離れた故郷のエルサレムに移す超自然的な御わざを行われました。神様はエゼキエルに、御自分の聖所から遠く離れた理由を説明しています。それは神様の宮で憎むべきことを行ったからです。「憎むべきこと」とは「不埒(ふらち)で憎らしい」「おぞましい」という意味を持っています。彼らは神様の前で、神様の妬みを招く忌むべき行いをしたのです。その忌み嫌うべき行いとは何でしょうか?

1.聖殿の入り口に偶像を置いたからである(エゼキエル8:3、5)

 形作った像だけが「偶像」なのではなく、形のない偶像もあります。コロサイ3:5節に、「欲は偶像礼拝にほかならない.」と言われています。私たちは、普段「神様を愛する」と口で言いながら、実際は自分が神様の座を占領し、神様が受けるべき栄光を横取りする時があります。そして、自分が神様のようになって人を判断し、罪に定め、自分だけが最も正しいと思い違いをしているのです。これも偶像礼拝です。私たちはこのような偶像礼拝から速やかに離れるべきです。

2.二重生活をしたからである(8:8〜11)

 イスラエルの長老たちは神様に礼拝を捧げる為に呼び出された者たちです。エゼキエルがある壁に穴を開けて入って見ると、神殿の中に自分たちの秘密の場所が設けられていて(エゼキエル8:8〜10)、その場所に諸々の這う物や、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家の諸々の偶像をまわりの壁に描いていました。

彼らはそこで偶像に向かって偽りの礼拝を捧げていました。エゼキエル11節を読むと、イスラエルの長老70人が香炉を手にしている様子が記されています。これは、彼らが偶像の前で偽りの祈りを捧げていることを示しています。もし、私たちがこのように、信仰生活を装いつつ、実は、心の内側に自分だけの場所、或いは隙間を設け、偶像を描き、持ち、それに仕えているようなことがあるならば、それらの偽りの二重の礼拝を速やかに止めなければなりません。

3.神様に逆らい、東に向って太陽を拝んだからです(エゼキエル8:16)

 エゼキエル8:16節に、25人ばかりの人が神の宮に背を向け、東に向って太陽を拝んでいる様子が記されています。詩篇84:11節によると真の太陽は神様を象徴しています。しかし彼らは、真の太陽である神様に背を向けて、世の太陽を拝んでいたのです。神様に背を向ける人は、必ず神様の裁きを受けます。エゼキエル8:18節にあるように、そのような者らに対して、神様は憤りを持って事を行い、神様の目は惜しみ見ず、またあわれまないと宣告しています。

その時、彼らが如何に大声で叫び祈っても、神様は答えられないと言われます。叫び祈りさえすれば、神様が何でも聞いて下さると思い違いしてはいけません。私たちが偶像から離れ、真の神に向って霊とまこととを持って礼拝を捧げる生活をしてこそ神様が答えて下さるのです。神様の御座に自分がドッカと座り込み、神様の栄光を横取りしながら、何を祈るのでしょうか。たとえ、どんな大声で祈っても、神様は耳を傾けては下さらないでしょう。

私たちの中に密かにしまってあるすべての忌み嫌われる事を取り除き、神様と偶像に兼ね仕えることを止めましょう。そして真の太陽である神様にのみ向って前進する皆様でありますように、主の聖なる御名によって祝福いたします。


『額に印を受ける者と印を押す者』

エゼキエル9:1〜4

 

時に彼はわたしの耳に大声に呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近よれ」と。見よ、北に向かう上の門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいって来て、ヨ銅の祭壇のかたわらに立った。ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。 −エゼキエル9:1〜4−

 

 エゼキエル4章〜24章は選民イスラエルが神の前で罪を犯し、神様から遠ざかった事によって裁きを受けることが預言されています。エゼキエル8章はエルサレムの滅びの原因が偶像崇拝にあると記し、エゼキエル9章は、エルサレムに与えられる裁きとして、凄惨な大殺戮が行われようとしている事を預言しています。

 9章の始めに、殺戮の武器を手に持っている者が6人が登場します(エゼキエル9:2)。この殺戮に用いられる「武器」は、原語で「崩壊させる道具」「完全に滅ぼす道具」という意味を持っています。その、完全に滅ぼす武器を手に、彼らは、宮で偶像崇拝を行う人々を町で殺します(エゼキエル9:7)。

 次に、物を書く墨つぼを腰につけている人が登場します(エゼキエル9章2節)。この「彼らの中のひとり」は6人の内のひとりではなく、6人以外の別の一人を指しています。なぜなら、初めに出てくる6人は殺戮の武器を持っていますが、この人は物を書く墨つぼを持っていたからです。新改訳には、「もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。」と訳してあります。
では、この「 物を書く墨つぼを腰につけている人」はいったいどのような人でしょうか?

 

1.額にしるしをつける人です(エゼキエル9:4)

 このしるしは、殺戮の為の武器を持っている人々によってエルサレムが裁かれる時に、救われるためのしるしです。このしるしは黙示録7:1〜4節に記されている神の印と同じです。世の終わりの時も大艱難を目の前にして神様は神の印を刻印し、御自分の民を保護されるのです(黙示録9:4)。

世の終わりの時に神の印を額に受けるように、エゼキエル9:4節でも額に救いのしるしを受けるわざについて明記されています。黙示録7:3節を読むと、「わたしたち」という特定の人々が神様の僕たちの額に印を押すわざが起ります。今日私たちは、しるしを押される事を待ち望む立場ではなく、各々が霊の「わたしたち」となって、神様の印を押す役割を求めるべきではないでしょうか。

 

2.(書記)墨つぼを持っています

 古代イスラエルの社会では、非常に少数の人たちだけが文字の読み書きができました。元来、ヘブライ人の家庭教育が主に口述によるものであったため、普通の家庭の中では文字を教えませんでした。ですから町の中で文字を書いたり読んだりできたのは「書記」という人々のみでした。彼らは常に墨つぼを腰につけており、求めに応じて人々のために文字を書き残していました。

私たちも、この「書記」の役割を担う者となり、神様の御言葉を民に供給する者となりましょう。その為には、御言葉を思いのままに自由自在に取り出して教える者とならなければなりません。新約と旧約、どちらかに偏る事なく聖書全体を通して教えるべきです。そして、表面に表された文字だけではなく、霊的にも精通し、いかなる御言葉も教えられる「書記」となる必要があります。

 

 3.最後に印を押す人が出てきます

 エゼキエル9:1〜4節の「彼ら」とは、エルサレムで起こるすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ者です。「嘆き悲しむ」とはヘブル語で「アナフ」で、これは「呻く」「恨み嘆く」という意味をも持っています。この人たちは、この世に歩調を合わせ、快楽を楽しむ人ではありません。彼らは、世の罪が全て除去されることを切に望む人々です。そして、罪を憎み、罪を犯す人々を見て悲しむ人たちです。第二ペテロ2:7節に、義人ロトも「非道の者どもの放縱な行いによってなやまされていた。」と記されています。

 

 今の時代、世に蔓延している罪を、私たちはどのような思いで見ているでしょうか。自分には関係無い、他人事と思っていますか?又は、彼らが思いのままに罪の中を歩んでいる事を「良し」と思って見ていますか?
もし私たちが、この世の罪を見てその心を痛め、罪の中に生きる人々が真の命を得る事を切に望むなら、額に印が押される者となると、御言葉は約束しています。主に在る皆様が世の艱難から守られる父の印を頂くと共に、神様の子らにしるしをつける尊い役割を授かる霊の書記になりますように主の御名によってお祈りいたします。


裁きはどこから始まるのか?

エゼキエル9:5〜11

 

またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって。撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。さて彼らが人々を打ち殺していた時、わたしひとりだけが残されたので、ひれ伏して、叫んで言った、「ああ主なる神よ、あなたがエルサレムの上に怒りを注がれるとき、イスラエルの残された者を、ことごとく滅ぼされるのですか」。主はわたしに言われた、「イスラエルとユダの家の罪は非常に大きい。国は血で満ち、町は不義で満ちている。彼らは言う、『主はこの地を捨てられた。主は顧みられない』。それゆえ、わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。彼らの行うところを、彼らのこうべに報いる」。時に、かの亜麻布を着、物を書く墨つぼを腰につけていた人が報告して言った、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」。                −エゼキエル9:5〜11−

 

上記の御言葉は、神様が堕落したエルサレムをどう裁くかについて記されています。

 

1.神様の裁きは必ず「しるしをつける」後に起こります

神様は裁きを行う前に、まず御自分の民にしるしをつけ、艱難から守られる事が、エゼキエル9:4節に記されています。墨つぼを腰につけた人が町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人?の額にしるしをつけます。その後に、殺戮する人々のあとに従い、額にしるしをつけてない人をすべて撃つように命じられました(エゼキエル9:5)。

私たちが神様のしるしを受けたならば、いかなるものも私たちに害を与えることはできません。黙示録9:4節にも、「地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。」と記されています。遊女ラハブは「赤い糸」という救いのしるしを受けました。遊女ラハブが受けた救いのしるしを、私たちも受ける事ができますように。

 

2.神様の裁きは聖所から始まります。

エゼキエル9:6節で、「老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。」と記されています。これは何を意味するのでしょうか?聖所の外で偶像を崇めるという行為はあり得る事でしょう。しかし、ここに記されている記述は、明らかに、聖所である宮の内で偶像を崇め、神様が憎むべきことを行っている事を物語っています。これはまさに、神様への冒涜です。

寝室を土足で踏みにじられたも同様です。だからこそ神様は、聖所から裁きを始めるのです。第一ペテロ4:17〜18節にも「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。」と記されています。

黙示録11:1〜2節でも、聖所と祭壇とそこで拝している人々を測ると言われています。聖所や祭壇とは、教会を指しています。祭壇とそこで拝している人々とは、すなわちクリスチャンを指しています。第一コリント3:16節に、私たち自身が神の聖なる宮であると言われています(第一コリント3:9、6:19)。神様の裁きが、この世から始まるのではなく、私たちの聖所である、教会から、そして、一人ひとりのクリスチャンから始まるのであれば、今、私たちは、どのような信仰を持って歩むべきでしょうか。

 

3.神様の裁きは老人から始まります。

この老人とは、主の宮にいた25人を示しています(エゼキエル8:16)。彼らは神様に生贄を捧げるために召された者であるのにも関わらず、神様に逆らい、東方の太陽神を拝んでいた者たちでした。

エゼキエル8:11節に記された70人の長老が、南ユダの民すべてを代表する人であるならば(出24:1、9〜10)、25人は南ユダのすべての祭司長を代表する者たちです。祭司長たちが長子格であるならば、この人たちも長子格を持つ者です。旧約の祭司長たちは24の位から一人ずつ選ばれました。そして、その24人の祭司長の上に、もう一人大祭司長がいたことからも(歴代上24:1〜19)ここに記された25人が、宮で仕える長子格を持った祭司長であると言えます。

本来彼ら祭司長たちは最も先に神様の御心を悟り、神様のために働き、神様の守りを受けるべき存在のはずです。しかし、彼らは神様の御心を害う行いをし、神様に苦しみを与えた故に、先ず裁きを受ける身となってしまうのです。私たちは裁きを受けるべき長子でしょうか?それとも、守られるべき長子でしょうか?

 

亜麻の衣を着て、腰に墨つぼをつけた人は自分に与えられた使命をすべて果たしました。そして、こう告白します、「わたしはあなたがお命じになったように行いました」と。彼が行ったこの最後の告白が、私たち自身の告白となりますよう、主の聖なる御名によって祝福します。


                   さばきの道具

                エゼキエル10:1〜8



時にわたしは見ていたが、見よ、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形をして、その上に現れた。彼は亜麻布を着たその人に言われた、「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」。そして彼はわたしの目の前ではいった。この人がはいった時、ケルビムは宮の南側に立っていた。また雲はその内庭を満たしていた。主の栄光はケルビムの上から宮の敷居の上にあがり、宮は雲で満ち、庭は主の栄光の輝きで満たされた。時にケルビムの翼の音が大能の神が語られる声のように外庭にまで聞えた。彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」。と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。ひとりのケルブはその手をケルビムの間から伸べて、ケルビムの間にある火を取り、亜麻布を着た人の手に置いた。すると彼はこれを取って出て行った。ケルビムはその翼の下に人の手のような形のものを持っているように見えた。

10章は、9章に続きエルサレムの裁きの様子を描写しています。神様の裁きの道具は何でしょうか?それは火です。神様は9章に登場した亜麻布を着た人に、ケルビムの下の回る車の間に入り、ケルビムの間から炭火を取り、それを手に満たして、これを町中にまき散らせ、と言われています(エゼキエル10:2)。同じく10:6節にも、「ケルビムの間から火を取れ」と言われました。これは、神様の裁きの道具がまさに火であることを示唆している御言葉です。

実際、エルサレムが滅ぼされた時、この預言の通り火によって滅ぼされました。列王下25:8〜9に「バビロンの王ネブカデネザルの第十九年の五月七日に、バビロンの王の臣、侍衛の長ネブザラダンがエルサレムにきて、主の宮と王の家とエルサレムのすべての家を焼いた。すなわち火をもってすべての大きな家を焼いた。」と記されており、歴代下36:19節にも、「神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。」と記されています。

神様は、かつて部分的にこの世を裁く際に火を用いたことがあります。ソドムとゴモラの町を滅ぼした時がそうです。「主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。(創世記19:24〜25)」

世の終わりにも「火によって世を裁く」と預言されています。「しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。(第2ペテロ3:7)」また、第2ペテロ3:10にも、「しかし、主の日は盜人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天體は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」と記され、続いて「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天體は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。第2ペテロ3:12〜13節」と記されています。

何と恐ろしい内容でしょうか。しかし、ここで、私たちはダニエル書の記述を思い起こす必要があります。ダニエルの三人の友人は、通常よりも7倍も熱い炉の中に投げ込まれました。しかし彼らの中で一人も火によって害われるものはなかった事が聖書に明記してあります(ダニエル3:27)。3人は頭の毛も焼けず、外套もそこなわれず、火の臭いさえも付かずに、生きたまま炉の中から出ることが出来ました。果たして何が彼らを守ったのでしょうか。ダニエル書3:25を読むと、三人と共に、もう一人の人が燃える炉の中に現れ、四人で炉の中を移動しているのが目撃されています。その一人とは神の子イエス・キリストでした(ダニエル3:25)。

世の終わりにもこのような出来事が起こるでしょう。確かにこの世は火によって裁かれます。しかし、世のどんな火よりも熱い火、すなわち太陽のような火である御言葉によって心が熱く燃えている聖徒たちは、決して裁きの火によって焼かれることはなく、永遠に生きるのです。イエス様はわたしたちの中に神様の火、御言葉の火が燃え上がることを願っておられました。「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(ルカ12:49)」

 ヘブル12:29に、「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」と言われています。神様は確かに火を持ってこの世を裁くでしょう。神様が火をもってこの世を裁く時、私たちは火によって消滅される者ではなく、かえって裁きの火を取ってこの世を裁く霊の亜麻布を着た人々となりますように主の聖なる御名によってお祈りいたします。


まわりに目が満ちていた

エゼキエル10:9-17

『わたしが見ていると、見よ、ケルビムのかたわらに四つの輪があり、一つの輪はひとりのケルブのかたわらに、他の輪は他のケルブのかたわらにあった。輪のさまは、光る貴かんらん石のようであった。そのさまは四つとも同じ形で、あたかも輪の中に輪があるようであった。その行く時は四方のどこへでも行く。その行く時は回らない。ただ先頭の輪の向くところに従い、その行く時は回ることをしない。その輪縁、その幹、および輪には、まわりに目が満ちていた。―その輪は四つともこれを持っていた。その輪はわたしの聞いている所で、「回る輪」と呼ばれた。そのおのおのには四つの顔があった。第一の顔はケルブの顔、第二の顔は人の顔、第三はししの顔、第四はわしの顔であった。その時ケルビムはのぼった。これがケバル川でわたしが見た生きものである。ケルビムの行く時、輪もそのかたわらに行き、ケルビムが翼をあげて地から飛びあがる時は、輪もそのかたわらを離れない。その立ちどまる時は、輪も立ちどまり、そののぼる時は、輪も共にのぼる。生きものの霊がその中にあるからである。時に主の栄光が宮の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。』

 

今日の御言葉はケルビムの様々な姿を説明しています。ケルビムの重要な特徴は何でしょうか?

1.ケルビムは四つの顔を持っている

 エゼキエル10:14節を読むと、ケルビムは四つの顔があるのを知る事が出来ます。一つはケルビムの顔、二つは人の顔で、三つは獅子の顔で、四つは鷲の顔です。これをエゼキエル1:10節に出てくる四つの生き物の顔と比較してみれば興味深い事実を見ることが出来ます。

四つの生き物の前は人の顔、右は獅子の顔、左は牛の顔、後ろは鷲の顔です。このような事から、四つの顔の中でケルビムを代表する顔が「牛」の顔であると言えます。

牛は従順を意味します。すなわちケルビムの特性の中で最も代表的なものは「従順」であるということです。今日、私たちがケルビムのように神の前で用いられるためには、先ず従順の人とならなければなりません。

2.ケルビムの輪の回りに目が満ちている

エゼキエル10:12には、「まわりに目が満ちていた。その輪は四つともこれを持っていた。」と記されています。黙示録4:6節にも、「四つの生き物がいたが、その前にも後にも、 一面に目が満ちていた。」と記されています。この「目が満ちている」というのは、四つの生き物が多くを見る事ができるという事です。

目には様々な目があります。近くを見ても遠くを見る事ができない目、つまり目の前のことに捕らわれて未来のことを正しく見る事ができない目を近視眼と言います(第2ペテロ1:9)。また、視野が狭く、もの事の全体を観察できない目を短視、何事も軽く見て、その重要性を十分に把握できない目を軽視と言います。

さらに、物体を正しく見ることが出来ず、正確に焦点を合わせられない乱視といえます。何でも大切に見る事なく、卑しく価値のないように見る目を賎視と言えます。しかし私たちが正しい目が備えられているならば、物事すべてを正しく正確に見る事ができるでしょう。

その目を持っておられるのが神様です。神様の目は全知の目です。すなわち完全な目です。ですから、黙示録5:6節に、子羊には七つの目があると記されてあるのです。

今日、神様から七つの目、完全な目を頂き、皆様の目がすべてを見極める完全な目となりますように主の御名によって祝福します。


最も大きな悲劇

エゼキエル10:18〜22

 

時に主の栄光が宮の敷居から出て行って、ケルビムの上に立った。するとケルビムは翼をあげて、わたしの目の前で、地からのぼった。その出て行く時、輪もまたこれと共にあり、主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった。イスラエルの神の栄光がその上にあった。これがすなわちわたしがケバル川のほとりで、イスラエルの神の下に見たかの生きものである。わたしはそれがケルビムであることを知っていた。これにはおのおの四つの顔があり、おのおの四つの翼があり、また人の手のようなものがその翼の下にあった。その顔の形は、ケバル川のほとりでわたしが見たそのままの顔である。おのおのその前の方にまっすぐに行った。

 

私たちの信仰生活にとって最大の悲劇とは何でしょうか?それは神様の光栄が私たちから離れることです。ある人が、「もし天国に神様がいないなら行かない方がいい。」と言いました。それほど彼にとって、神様と共にいる事こそが最も重要であるという事です。

そのように、私たちがどのような環境に属しているかという事よりも、神様が私たちと共にいるか、いないか、という事が最も重要な事です。たとえ如何に環境が劣悪だとしても、神様が共にいてくだされば、その所は天国になるのです。賛美歌に「やまかわあれ野もしおりやしろでも主イエスをむかえていずこも主の国」という讃美がありますが、まさにその通りです。

エゼキエル9:3の御言葉は、イスラエル民が堕落して行く中で、神様の光栄が少しずつ去って行く様子が描かれています。「ケルビムに座していたイスラエルの神の栄光」が宮の敷居にまで移されています。宮の敷居は、宮の内庭、すなわち主の庭の玄関です。至聖所の中にあるケルビムにとどまっていた神様の光栄が、宮の内庭に移ったことを意味しています(エゼキエル10:4)。そして、次に主の光栄は宮の敷居から出て行き、ケルビムの上に立ちました(エゼキエル10:18)。

エゼキエル10:19を読むと、ケルビムが地からのぼり、「主の宮の東の門の入口の所へ行って止まった」と記されていまが、これは主の光栄が、すでに宮の内庭から外庭に移されたことを意味しています。そのようにして、主の光栄はますます宮の中心から遠ざかって行きました。

やがて、宮の外庭に止まっていた主の光栄は、遂には宮から出て、東の方のエルサレムの前にあるオリブ山の上に立つことになります(サムエル下15:30、ゼカリヤ14:4)。主の光栄が離れる事は、神様の民にとってこれ以上の大きな悲劇はありません。

祭司長エリの時代、イスラエルはぺリシテとの争いが起こりました。そこで、エリの二人の息子は殺され、神様の箱は奪われてしまいました(サムエル上4:10〜11)。これはまさに神様の光栄がイスラエルを離れたことを意味します(サムエル上4:22)。この時からイスラエルの悲劇は始まったのです。神様の箱が奪われたという知らせを聞いて、エリは、座っていた所から落ち、首が折れて死んでしまいました。また、彼の嫁は出産の時が近づいていましたが、夫としゅうとが死んだという知らせを聞いた時、陣痛が起り、子を産む中で力つき、嫁も夫としゅうとの後を追って帰らぬ人となりました。

彼女は死に行く中、子供の名前を、「イカボデ」と名づけました(サムエル上4:19〜21)。その意味は、「神様の光栄がイスラエルから去った、神様の光栄がイスラエルにはない」という意味です。

まさに、主の栄光が離れ去るとこのような悲劇が始まるのです。私たちは、決してこのようであってはいけません。神様の箱を大切に収め、神様の光栄が私たちから離れ去ることのない人生であるべきです。もしも私たちが神様の御言葉を離れるなら、神様の光栄は私たちから遠ざかってしまいます。常に御言葉の箱を心に収め、神様の光栄が留まる皆様であって欲しいと切に願います。

主の栄光は一度イスラエルを去りましたが、イスラエルが悔い改めることによって、再び帰って来られる事が預言されています。エゼキエル43:2で、「イスラエルの神様の光栄が東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその光栄で輝いた。」と言われています。

私たちが罪を犯してしまい神様の栄光が私たちを去ったとしても、その罪を悔い改めて神様に立ち返るなら、私たちを離れ去った神様の栄光もまた私たちを訪ねて下さる事をこの御言葉は教えているのです。

日々、私たちが犯してしまった罪を悔い改める事によって、「イカボデ」(神様の光栄が去った)の人生ではなく、「インマヌエル」(神様が私たちと共にいる)の人生になるように心から願います。

 


偽りの預言者と真の預言者

(エゼキエル書11:1-13)

時に霊はわたしをあげて、東に向かう主の宮の東の門に連れて行った。見よ、その門の入口に二十五人の者がいた。わたしはその中にアズルの子ヤザニヤと、ベナヤの子ペラテヤを見た。共に民のつかさであった。すると彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの者はこの町の中で悪い事を考え、悪い計りごとをめぐらす人々である。彼らは言う、『家を建てる時は近くはない。この町はなべであり、われわれは肉である』と。

それゆえ、彼らに向かって預言せよ。人の子よ、預言せよ」。時に、主の霊がわたしに下って、わたしに言われた、「主はこう言われると言え、イスラエル の家よ、考えてみよ。わたしはあなたがたの心にある事どもを知っている。あなたがたはこの町に殺される者を増し、殺された者をもってちまたを満たした。それゆえ、主なる神はこう言われる、町の中にあなたがたが置く殺された者は肉である。この町はなべである。しかし、あなたがたはその中から取り出される。

あなたがたはつるぎを恐れた。わたしはあなたがたにつるぎを臨ませると、主は言われる。またわたしはあなたがたをその中から引き出して、他国人の手に渡し、あなたがたをさばく。あなたがたはつるぎに倒れる。わたしはあなたがたをイスラエルの境でさばく。これによってあなたがたはわたしが主であることを知るようになる。この町はあなたがたに対してなべとはならず、あなたがたはその肉とはならない。わたしは イスラエルの境であなたがたをさばく。

これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。あなたがたはわたしの定めに歩まず、またわたしのおきてを行わず、かえってその周囲の他国人のおきてに従って 行っているからである」。このようにわたしが預言していた時、ベナヤの子ペラテヤが死んだので、わたしは打ち伏して、大声で叫んで言った、「ああ主なる神よ、あなたはイスラエルの残りの者をことごとく滅ぼそうとされるのですか」。

 

預言者には二種類があります。偽りの預言者とまことの預言者です。今日も、多くの人々が偽りの預言者を真の預言者であると思い違いし、彼らの言葉に従って行ってしまい、ついに身を滅ぼす場合が決して少なくありません。

今回の御言葉に登場する、東方の太陽を崇拝する25人の預言者は偽りの預言者でした(エゼキエル8:16)。その中にヤザニヤとベラテヤという人物がいましたが、この二人は、偽りの預言者の中心人物です。では、私たちは偽りの預言者と真の預言者をどう区別することができるでしょうか?

 

1.偽りの預言者は悪い事を考え、悪い計りごとをめぐらします(エゼキエル11:2)。

現代語訳の聖書には「人の子らよ、この人たちはこの都で悪い計画を立て、悪い助言をする人たちである」と書かれています。私たちの周辺にも悪い計画を立てたり、悪い助言をする人たちを見ることができます。どのような理由であっても、悪しき事を広げようとする人を私たちは警戒する必要があります。

 

2.偽りの預言者は、真の預言者の証に反証を唱ます。

神様は預言者エレミヤを通してエルサレムは必ず滅び、エルサレムは煮え立っているなべとなって残された人々は滅ぼされると言われました(エレミや1:13)。しかし、偽りの預言者たちは、エルサレムはむしろ堅固たるなべとなってエルサレムの中にいる人々を守ると言い、そのままエルサレムに留まり、バビロニアで家を建ててはならないと言いました(エゼキエル11:3)

彼らの言葉は真の預言者の言葉よりも、民族的でより愛国的であるように聞こえます。「バビロニアへ囚われて行こう」と言う主張と、「国に残りエルサレムを守ろう」という主張とでは、どちらが人々の心に適い、より愛国的に聞こえるでしょうか。当然、国に残って国を守ろうとする方でしょう。しかし、はっきりしている事は、彼らがバビロニアへ囚われて行く事が神様の御旨であったという事です。

そして、彼らがバビロニアで、罪の代価を払い精錬されることでした。このように、たとえ、この世の常識に照らして合理的でないとしても、神様の真の御言葉に従う人になるべきです。神様は偽りの預言者の言葉に従おうとする人々に向かって、「あなたがたはエルサレムに残っていても間違いなく取り出される」と強く語られました(エゼキエル11:7、9、11)。

 

3.偽りの預言者は神様の定めとおきてを守りません。

エゼキエル11:12節に、「あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。あなたがたはわたしの定めに歩まず、またわたしのおきてを行わず、」と言われています。なぜ偽りの預言者たちは神の御言葉に従わないのでしょうか?それは彼らが神様を真に信じていないからです。人間は誰かを信じる時、その人の言葉に従い、その人に似てゆく傾向があります。

彼らが神様の御言葉に聞き従わないことは、結局神様を信じてないからです。如何に正しい言葉を語り、如何に正しい論理で人を魅了し、如何に人々の心に適う言葉を語ったとしても、彼らの生活が神様の御言葉に聞き従わない生活をしているとしたら、彼らの言葉を信じるべきではありません。

今日、与えられた御言葉を通して、「私の生活は、偽りの預言者に聴き従う生活であるか?真の預言者を通して語られる神様の御言葉に聞き従っている生活であるか」を各々点検しましょう。真の預言者は神の霊によって満たされた者です(エゼキエル11:5)。しかし、偽りの預言者は死と滅びを迎える者です(エゼキエル11:13)。


神様の慰め

エゼキエル11:14〜25

 

14)時に主の言葉がわたしに臨んで言った、15)「人の子よ、あなたの兄弟、あなたの友、あなたの兄弟である捕われ人、イスラエルの全家、エルサレムの住民は言った、『彼らが主から遠く離れた。この地はわれわれの所有として与えられているのだ』と。16)それゆえ、言え、『主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる』と。

17)それゆえ、言え、『主はこう言われる、わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与える』と。18)彼らはその所に来る時、そのもろもろのいとうべきものと、もろもろの憎むべきものとをその所から取り除く。19)そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。20)これは彼らがわたしの定めに歩み、わたしのおきてを守って行い、そして彼らがわたしの民となり、わたしが彼らの神となるためである。

21)しかしいとうべきもの、憎むべきものをその心に慕って歩む者には、彼らの行いに従ってそのこうべに報いると、主なる神は言われる」。22)時にケルビムはその翼をあげた。輪がそのかたわらにあり、イスラエルの神の栄光がその上にあった。24)主の栄光が町の中からのぼって、町の東にある山の上に立ちどまった。

その時、霊はわたしをあげ、神の霊によって、幻のうちにわたしをカルデヤの捕われ人の所へ携えて行った。そしてわたしが見た幻はわたしを離れてのぼった。25)そこでわたしは主がわたしに示された事をことごとくかの捕われ人に告げた。

 

予言者エゼキエルがこの啓示を受けた時の状況は、バビロンへ捕虜として捕らわれた人々、まだエルサレムに残っている人々と、民が二つに分かれた時でした。エルサレムに残っている人々は捕虜として捕らわれて行った人々を責めました。『あなたがたはエルサレムを離れたことは、すなわち主から遠く離れたことである。この地はわれわれの所有として与えられているのだ』と、捕虜に捕らわれて行った人々を批判しました。

自分たちも今まさにバビロンの攻撃を受けて国が廃墟と化し、悲惨な状態でありながらも、彼らは、同じように苦しみに遭い、捕虜として捕われた人々に対する同情の心を示す事が出来ませんでした。彼らを弁護する事は出来ないまでも、彼らを厳しく批判し責めることは、あまりにも高慢と言えるのではないでしょうが。しかしこの時、神様は捕らわれた人々に限りない慰めの御言葉を与えられました。それはどのような御言葉だったでしょうか。

 

第一にバビロンでも神様が一緒にしてくださるという約束です.

エゼキエル11:16節で、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる」言われました。この御言葉はイスラエルの人々がバビロンでの捕虜の生活を送ることは永遠ではなく、しばらくのはずであり、たとえそのしばらくであるとしても、わたしが彼らの神様になって、彼らと一緒にしてあげるとの約束であります。

 

今日私たちは時々神様の懲戒を受けて難しい立場に陥る場合もあります。しかし私たちが肝に銘じなければならない事実は、そういう難しさの中でも神様は必ず御自分の民と一緒にしてくださるということです。

 

二番目にバビロン捕虜から必ず帰って来るという約束です。

エゼキエル11:17節で、「〜主はこう言われる、わたしはあなたがたをもろもろの民の中から集め、その散らされた国々から集めて、イスラエルの地をあなたがたに与える」と言われています。これは神御自身が選んだ民はたとえ時々試練を受けてもいつかは再び回復させてくださるはずだという約束です。

今日私たちの人生において神様の懲戒と試練を受けたといえども、いつかは回復させてくださる時があります。その日を眺めながら再び神様の懲戒と試練に勝ち抜けるように願いします。

 

三番目に私たちを神様の民で回復させてくださるはずだという約束です.

もし放蕩息子が家に帰って来る時、体だけ帰って来て心には何らの悔改がなかったらそれは正しい回復ではないでしょう。もしイスラエルの人々がバビロン捕虜から帰って来る時、体だけで帰って来て、心は相変らず神様から遠く離れていたらそれは本当の帰還ではないでしょう。

 

しかし神様はイスラエル民たちの心までも変化させて神様の御言葉を守る真の民にすると約束しました。エゼキエル11:19節で、そしてわたしは彼らに一つの心を与え、彼らのうちに新しい霊を授け、彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える。」と言われています。

 

それでは神様の民たちは神様の御言葉を守って行う者となります。彼らは神様の民になり、神様は彼らの神様になることによって関係が回復するのです(エゼキエル11:20)。

神様は私たちの心までも変化させる方です。神様は私たちの心に対してどんなごわざをなさるお方でしょか?

 

第一に一致した心をくださる方です。

イスラエルはソロモンの死後に南側ユダと北イスラエルに割れました。しかし両国で割れた選民イスラエルが捕虜の生活を終えて帰還する時は一つに連合されたのです。

 

第二に、石の心を取り去るお方です。

ここに、「石の心」はヘブライ語で、「レブハエベン」として、これは、「石のようなかたい心」を意味します。心が石のようであるというからその心はどれほどかたいでしょう。しかしそのような心までもとり去るお方は神様です。いくら信じない家族、友達の心が石のようでも絶対に気落ちしないでください。彼らの石のような心を除去させてくださる神様の力を信じて切に祈りましょう。

 

第三に、神様は柔らかい心をくださる方です。

ここに、「肉の心」ヘブライ語で 、「レブバサル」として、これは、「肉のような柔らかい心」を意味します。肉がどれほど柔らかいでしょう。神様はいくらかたくなな心でも肉のように柔らかくするお方であることです。

 

このすべてのものは決して人の力ではできません。「新しい霊」を授けられる時、実現されるのです(エゼキエル11:19)。この、「新しい霊」の御わざはバビロンから帰還する時だけでなく、私たちが世のバビロンから永遠に帰還するべき、再臨の時に授けられる神様の完全な聖霊の御わざ、すなわち神の七つの霊の御わざを(黙4:5、5:6)表した御言葉でもあります。

 

神様は世の終わりの時、明確に、「新しい霊」の御わざを実現するでしょう。この御わざが起きれば、すべての石の心は除去され、この地に小さな者から大きい者に至るまで神様を告白する御わざが起きるでしょう。

 

「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言ってアえることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。      −ヘブル8:10〜11−

 

 

 

 



エゼキエル・ストーリーは不定期に更新しますのでご了承下さい。


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