日本基督(キリスト)教団 阿漕教会

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阿漕(あこぎ)教会は、三重県 津市にあるキリスト教会です。
礼拝ははじめてという方もぜひお越し下さい。


阿漕教会の礼拝堂は、大正時代に建てられたモダンな建物です。
毎週日曜日午前10時15分からこの建物で礼拝をささげています。

【次週の礼拝】
 

 

 

 定 期 集 会

<聖 日 礼 拝>
 日曜日
 午前1015分〜午前1130

<聖書の学び・祈り会>
 朝の部 水曜日 10:15

<教会学校>
(子供の礼拝と分級)

 日曜日 午前 9時00分

 


<阿漕教会 礼拝堂> 
 阿漕教会は、カンバーランド長老教会のADヘール宣教師が、1909年(明治42)津市弓之町に大きな家を借りて「弓之町講義所」(津市本町)を開いたことに始まります。その後、最愛の息子J.E.ヘールを浅間山で亡くし、その記念として、1912(大正元年)、阿漕の地に宣教師館を建て、教会堂もこの時に建てられました。それ以来、この教会堂は、第2次世界大戦の戦火を免れて約100年の時を刻んできました。


      *礼拝をささげたいと思う方は
        どなたでもご自由にお越しください。
      教会に初めて行こうと思っている方へ

  


 


       「御言葉の散歩道「神の救いを土台として聖書を読む」
 わたしたちが聖書を読む上で、とても大切な前提があります。それは、神の救いの御業を土台にして読むことです。
 旧約の民は出エジプトの救いに始まり、救いの約束に向かって生きていました。そして、キリスト者は十字架と復活の救いに始まり、最後の審判と救いの完成に向かって生きています。それを見失うと、間違った聖書の読み方をしてしまいます。
 例えば、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。(マタイ7:21)」という主イエスの御言葉を聞いて、「わたしは天の父の御心を行うことができない者だから、天の国に入れないのではないか」と心を痛める人がいます。十字架と復活の救いから聖書を読まないと、そのように間違った読み方をするのです。「父の御心を行う」とは、十字架の罪の赦しと復活による永遠の命、その救いを信じて生き抜くことです。キリストの義を土台に生きることです。それを、律法学者やファリサイ派のように、自分の義を土台にし、救いを心に留めないで御言葉を読むと間違ってしまうのです。
 わたしたちキリスト者は、キリストによって与えられる救いに生きています。この救いの義は、律法学者やファイサイ派の人々の義にまさっています。だから、聖書は喜びのおとずれ、福音となって、わたしたちのすべてに響き渡ります。この世は、自分の義ばかりに目を留めて、いのちを与えてくださる神の恵みの義に目を留めません。聖書は、その失い欠けている恵みを思い起こすために記された神の言葉なのです。

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「神の羊の群れを牧しなさい」ペトロの手紙1 5:1−4

 新しい年が明け、いきなり能登半島地震が発生しました。連日のニュースや人の声に振り回され、痛みを感じ、不安におびえる方々、被災教会の支援や対応に追われる日々を過ごしておられる方々がおられると思います。

 そのような中で、「教会は何をすべきか」を、いつも問われます。キリスト者として被災された方々へのサポートを考える対応は大切ですが、今の日本のキリスト教会、特に地方の教会は、高齢化が進み、奉仕力が低下しています。牧師が、一番若いという教会も多く、その働きが牧師に集中し、牧師が倒れてしまうケースも増えています。そこで、教会は何を大切にすべきなのかが問われるのです。

 ペトロは、ローマ帝国の迫害を受け、家を失い、エルサレムから現在のトルコに逃げ、仮住まいをしているキリスト者に手紙を書きました(1:1)。彼は、この手紙を通して、「このような時だからこそ、キリストの福音とその喜びを見失わないで生きて欲しい!」と伝えました。なぜなら、ここに立って生きる歩みこそが、教会の原動力、教会がなすべき業だからです。どんな時にも、キリストによる罪の赦しの十字架と永遠の命に生きる復活を信じ、キリストをほめたたえ、キリストに自分の魂をゆだね、祈り、神の言葉を聴くのです。

 5章において、ペトロは、教会の長老たちへ勧めの言葉を記しました。「長老たち」とは、今のわたしたちの教会では、牧師や役員(長老、執事)に当てはまります。ペトロは、自分自身、長老の1人として、まず、「わたしは、キリストの受難の証人であり、復活の栄光にあずかる者である」と語りました。よく団体の役員になる人は、何かの能力があるとか、力があるという理由で選ばれます。人として適材適所という場合もありますが、教会では、「自分がキリストの十字架によって罪が赦され、救われ、復活の命に生かされている」と証言できる人が一番大切なのです。

 この世は、自分がどれだけの働きができたかで、評価され、そこに価値を見出します。教会は、キリストが与えてくださった愛と喜びに生きる価値に生きています。教会であっても、「あの人は自分を犠牲にしてこれだけ世のため、人のために愛を尽くした」と、人の愛の業をほめたたえることばかりして、キリストの愛をほめたたえなくなってしまう危険性を持っています。その時、教会は福音を見失うのです。

 ペトロは、復活された主イエス・キリストに「わたしを愛するか」と問われ、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えました。すると、主は「わたしの小羊を養いなさい」と命じられました。このやりとりが3度も繰り返され、ペトロの心に深く刻まれました。そして、今、迫害から逃れ、苦しみの中で仮住まいをしている教会の役員たちに、この主から託された言葉を伝えるのです。「神の羊の群れを牧しなさい!」

 ここで重要なポイントは、「主イエスへの愛」が、「神の羊である教会の人たちを牧する業」とつながっている点です。「主イエスを愛する」とは、抽象的で理解しづらいと思います。「主を愛する」、「神を愛する」と聞いた時、すぐに「隣人を愛すること」と結びつけるかもしれませんが、この御言葉の重要な点は、「神の羊である教会の人たちを牧する業」です。

 羊を牧する羊飼いは、「羊」を外敵から守り、まちがった道を行ってしまう時に、正しい道に導きます。羊飼いは、「神さまは、苦しみの中にある私を見守ってくれるだろうか」と不安になった時には励まし、「私は、神さまのことより、今、直面している問題が大事だ」と神さまを見失っている時には戒めて、狼である悪魔の誘惑から羊を守るのです。それが主を愛することにつながるのです。

 キリストは、何よりも「キリスト者である神の羊がわたしの与えた恵みと救いを見失わないで、最後までわたしを信頼して従って来てほしい」と願っておられます。その願いを受けとめて、羊を見守る業が主イエスへの愛につながるのです。この愛を教会は見失ってはならないのです。

(2024年3月 三重地区通信の説教)
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宗教教誨活動から

教誨師だより13抽出 説教 へのリンク


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             教会メール akogichurch@hotmail.com

514-0805 三重県津市下弁財町津興1267
TEL 059-228-0407  FAX 059-202-0160
牧師:加藤 幹夫

〜牧師紹介〜


1962年愛知県に生まれる  電子機器関係の技術者から献身。
1994年3月、東京神学大学大学院を卒業。
遠州教会担任教師3年を経て、現在、阿漕教会(三重県津市)牧師

牧会関係:教団「牧会者とその家族のための相談室」室長・三重CMCC理事長・聖マッテヤ評議員
教誨師関係:三重刑務所・津少年鑑別所教誨師・教団教誨師会会長
        名古屋管区理事・三重県教誨師会会長