旭基督教会は、ディサイプルズ派の宣教師協会から独立したミルトン・B マデン夫妻の働きによって始められ、1936年、天満橋から現在の旭区の地に移転してきた。余談になりますが、このマデン夫妻は日本基督教団の仙台川平教会や玉出教会をも創設しています。下の写真は設立当初の1936年に建てられた最初の教会堂で、著名な建築家ウィリアム・メリル・ヴォーリズによる設計です。ヴォーリズ建築の特徴である半円形の丸窓を備えていました。残念ながら、この教会堂は1945年6月7日の空襲で全焼してしまいました。
戦前の旭基督教会、初代会堂 ウィリアム・メリル・ヴォーリズの設計
また、旭基督教会は戦前からある教会で、戦中も日本基督教団に合同することのなかった珍しい沿革を持つ教会です。姉妹教会のほとんどが日本基督教団に加入する中、当時の牧師も教団へ加入するよう働きかけたそうですが、教会としてそれを固く拒んだため、牧師は去っていった。
「我々は如何なる組織にも加わらない。我々は独立の教会であり続ける」
というのが理由でありました。当然、様々な圧力があったそうですが、それに屈することなく教会を支えたのは長老のS氏でした。教会の不動産をS氏の名義に替えて、少ない人数ながら礼拝を守り、細々と活動を続けたという。
憲兵隊が嫌がらせにやって来た時には、陸軍士官学校出身で退役軍人だったS氏が軍服を着て抗議し、追い返したというエピソードもあります。
S氏の一人息子は戦死していらっしゃいますが、1937年に徴兵され、戦死するまでの8年間、一度も帰宅することが許されませんでした。そのことについてS氏は戦後、「息子が死んだのは、私が教会を守ったためだ。士官学校出身者の息子が兵隊に取られて一度も帰宅が許されず、そのまま激戦地に送られて戦死するなんて、普通はあり得ない」と口にしていたそうです。息子の死は軍部の意向があったのではないかとS氏は考えていたそうです。それが事実なのかどうか、今となっては確かめようがありません。しかし、S氏が多大な犠牲を払われたことは間違いありません。戦時中も大阪に留まり、牧師に代わって教会を守り抜いたその苦労は並大抵のものではなかったはずです。
そのような信仰の先達たちが守られた教会で今も毎週日曜日に、主イエス・キリストを覚える礼拝が行われています。
戦災すぐから2012年まで半世紀に渡り使われていた2代目会堂
教団・教派
当教会は単立のプロテスタントの教会ですが、そのルーツはアメリカで起こった信仰復興運動に起因するチャーチオブクライスト(キリストの教会・有楽器派)という流れに属します。