聖書には、初めに神は天と地とを創造され、次に植物と動物をその種類に従って造り、最後に人間を造って命の息を与えたとあります(創世記第1章)。ある人達は聖書は宗教書であって科学書ではないから、科学の理論と比べること自体が的外れだと言います。しかし、常識的にはもっともと思われるこの見解に対して、多くの科学者たちが創造論を支持していることをご存じですか?
この創造論に対し、進化論では、すべてのものは偶然によって出来上がり、アメーバやクラゲのようなものが魚になり、それがワニや恐竜のようないろいろな動物に変わって、さらにサルのようなものから今の人間に進化したと言っています。一体どちらが正しいのでしょう?
進化の思想は古代ギリシャに始まりますが、1859年にチャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表することによって、その土台が作られました。この思想は全生命は自然に生起し、適者生存の原理で進化したというものです。彼の説については進化論内部でもさまざまな理論的難点が指摘されていますが、特に物質の世界では放置されれば崩壊と混乱へと進むのに(これを科学では混沌の増大という意味で「エントロピーの増大」といいます)、どうして生命体についてだけは進化という逆の方向へ進んできたのかという点の説明されていないことが最大の難点と言われています。
ひとつの細胞の電子顕微鏡写真を見ると、その構造が、活動している大都市のように複雑精巧にできているのに驚かされます。各細胞の中心にはDNAという糸状のものが無数にあり、ヒトの場合はその糸を引き伸ばすと、細胞1コで1.8mにもなるそうです。この糸はラセン状の平行線で、はしごのような階段になっていて、何と50億ものいろいろな遺伝情報が組み込まれています。50億というと、1000冊の大百科事典の文字数に相当し、世界の全人口に匹敵します。
これほどのものが、顕微鏡でやっと見える一つの細胞中の核に含まれており、こうした細胞が60兆も精巧に組み合わされてできているのが、私達一人一人なのです。たった一つの細胞でもこれだけ精密だということは、生物が偶然や進化でできたものではないことが、この事によっても分かります。
進化論では、無生物→単細胞動物(アメーバなど)→無脊椎動物(クラゲやイソギンチャクなど)→脊椎動物(魚類)→両生類(カエルなど)→爬虫類(トカゲなど)→人類と長い期間をかけて進化してきたといいます。それならその長い期間に、進化しないアメーバやクラゲ、魚などが現在もなお存在しているのはなぜでしょう。また、植物でも何億年前というイチョウやブドウの葉の化石が、現在の葉と変わっていないのはなぜなのでしょうか。
最近山形県で1500万年前という魚の化石が発見されましたが、同じ種類の現在の魚と比べてみると、ほとんど変わっていないのです。そうするとこれは、むしろ1500万年かかっても「進化しなかった」という証拠になるでしょう。これはむしろ聖書が言うように、それぞれ「その種類によって造られた」(創世1:21)という証拠なのです。
馬とロバを掛け合わせるとラバが生まれ、ライオンとヒョウの間にはレオポンが生まれることをご存知の方もいるでしょう。しかし、ラバどうしやレオポンどうしでは不妊であり、どうしても子を産めません。
遺伝の研究をしたことで有名なのはメンデルです。彼は同じ種類の中での変種(豆のシワのある無しなど)が発生する法則を発見しましたが、犬から猫が生まれることはないように、A種がB種になることはないということを明らかにしています。それは染色体が違うからです。進化論では、進化と変種とを混同しており、変種ができているうちに別の種類のものになるのだろうと、思い違いをしているのです。神は「人を人として造られた」のであり、私達一人一人は神からの賜物なのです。
確かに自然界では10万回に1,2回の割合で突然変異の起きることが知られています。突然変異というのは遺伝子の性質や量に変化の起きることですが、しかし実際はそのためほとんどのものが機能障害を来たしています。「自然選択の起こり方を見ていると、選択はむしろ変わった変異を取り除き、種の形態を安定させ、従来のままに保つように働いているとも考えられる。すなわち、ダーウィンが考えたのとは逆に作用している傾向すら見える」(平凡社百科事典「進化論」の項目より)。突然変異は放射能や化学薬品によっても起きますが、原爆の放射能やサリドマイドが胎児に悪影響を及ぼして、奇形が現れたことは衆知の事実です。このように突然変異は、たとえ積み重なって起きたとしても、退化こそあれ、一定方向への連続的な進化は起こらないのです。