創世記 序論 「初めに神は天地を創られた」


 聖書の最初の書、創世記は「初めに」(ヘブル語で“ベレシート”)という言葉で始まっています。そしてその通り、創世記には様々な事柄の「初め」がたくさん書かれています。その幾つかを上げてみましょう:
 このように創世記には多種多様な事柄の成り立ちが書かれていますが、実はベレシートには“成り立ち”という意味もあるのです。ですから、聖書は冒頭で「(物事の)成り立ち!」と宣言しているとも言えます。
 ただし意外なことに、天国については語っていません。一体にして聖書は天国の存在は宣言するものの、成り立ちについては語らないのです。それは創世記を初めとして、聖書が人間の世界に熱い視線を送っているからなのです。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世1:31)という言葉は、神は大いなる愛を持って、私達のためにまず完全な世界を造って下さったということを示しているのです。

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創世記 第1章 「神は光あれと言われた」


 ある女の子が神様に手紙を書きました。「神様、どうして夜にお日様をどけてしまうのですか?一番必要なときなのに … 。私は7歳です。」
 この女の子でなくも、夜の暗さの中で私達は光を求めます(詩篇130:6)。ただ夜間の照明が至る所にある現代では、夜の真闇の怖さははなかなか味わう機会がありませんが、様々な戦慄的な事件が次々と起きる現代は、まさに暗闇の時代ということができると思います。私達は一体どこに光を求めることができるのでしょうか?
 宇宙の創造にあたって、主なる神から発せられた最初の言葉は「光あれ!」でした。天地創造はこうしてまばゆいばかりの光の中で行われたのです。この創造の御業には《「言われた」−「そのようになった」−「良しとされた」》というパターンが一貫しています(例:創世1:3,4; 創世1:9,10)。初めに言葉があり、神は言葉によって暗黒の中に全てを創造してゆかれたのです。現代でも神は信じる人に聖書の言葉を通して「言われ」−「そのようにし」−「良し」として下さいます。またこのことは詩篇の作者達も証ししています(詩篇27:1; 詩篇119:105)。

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創世記 第2章 「そこで人は生きた者となった」


 1853年にプチャーチンと共に来航したロシアの小説家ゴンチャロフは、幕末の日本についての印象を「軍艦パルラダ号」にまとめていますが、彼は当時の日本人を能面のように無表情で亡霊のようだと言っています。徳川三百年の幽閉生活で日本人は神の作られた命を抑圧されていたのでしょうか。

 呼吸をして動きまわっているだけでは、人間が真の意味で生きていることにはなりません。神が人間を創造した六日目に焦点を当てながら、私達は人が真の意味で生きた者とされた4つの要件を見てみましょう。

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創世記 第3章 「アダムとエバ」


 最初の人類としてアダムとエバは有名ですが、彼らは地上で最初に罪を犯した人としても有名です。人間は本来、永遠に生きるべく創造されたのですが、彼らの罪の結果、人は死すべきものとされたと聖書には書かれています(創世記3:17-19)。
 何不自由ないエデンの園に住みながら、二人はどうしてそのような取り返しのつかない過ちを犯してしまったのでしょうか。二人は自分達の過ちとして謝るどころか「蛇が騙したのです」と言っていますが、蛇は彼らのどこに誘惑の糸口を見つけたのでしょうか?エバが言ったことと主なる神の言われたこととを対比させてみましょう。
 
エバの発言(3:2) 神の言葉(2:16-17)
恵の矮小化 園の木の実を食べる事は許されています 園のどの木からでも心のままに取って食べてよい
いまいましさ ただ園の中央にある木の実については しかし善悪を知る木からは
厳しさの誇張 これを取って食べるな、これに触れるな 取って食べてはならない
警告の矮小化 死んではいけないから きっと死ぬであろう

 明らかに罪の根は彼らの不満にあったことが伺われます。誘惑者は私達の不平・不満の心を見逃しません。ここを糸口として彼は私達を罪に誘うのです。
 この時点で主なる神は、罪を犯した二人を滅ぼすこともお出来になりましたが、むしろ彼らのために皮の着物を作って着せて下さいました(創世記3:21)。これは地上で最初の動物犠牲でした。罪を犯した二人のために犠牲となった動物はやがて来たるべきイエスとその十字架の犠牲を暗示していると言われています。

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創世記 第4章「カインとアベル」


 毎日伝えられるニュースでは、たくさんの犯罪、とりわけ殺人事件の報道が後を絶ちません。現代の私達は文明・文化の進歩を誇りますが、その進歩は犯罪を減らすどころか、もっと増大させています。人はなぜ殺すのかということをめぐって、刑法学は緻密な分析を重ねていますが、どんなに精緻な理論と刑罰を持ってしても、人間社会から殺人などの犯罪を撲滅し得ていません。

 創世記4章は人類史上最初に起きた殺人事件の有り様を伝えています。事件は二人が神に供えものをした時に起こりました。神は弟アベルの献げものを喜ばれ、兄カインの献げものを顧みられなかったと書かれています。
 主なる神のえこひいきが原因だったのでしょうか?3,4節を読むとすぐに分かるのはカインは「地の産物」を持ってきたのに対し、アベルは「群れの初子と肥えたものと」を持ってきたとあることです。これがヘブル書11:4がアベルを信仰の人としているゆえんでしょう。

 興味深いのはカインとアベルという名前のヘブル語での意味です。カインとは“私は得た”という意味で人間の所有欲を表し、アベル(ヘブル語では「ハベル」で伝道の書冒頭の単語と同じ)は“空、息”つまり「空しい」という意味です。ふたりを合わせると、あたかも聖書が「欲は空しい」と言っているように思うのは飛躍し過ぎでしょうか。

 いずれにしても、カインは悔い改める事をせずに、アベルを殺すことで神の愛を独占しようとしたのでしょう。神の愛は無限であり、無限を半分にしても無限です。それなのに、カインは一度の事で神の無限の愛を信じることをしなくなったのでした。

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創世記 第5章「神と共に歩んだエノク」


 日本語の「家」という言葉には、どこか封建的な臭いがあって、あまり好まれない向きもありますが、英語では無機的な響きを持つ house に対して、home には“ぬくもりのある家庭”というイメージがあるそうです。

 4章の後半から5章にかけて、アダムから起こった二つの家系が記録されています。一つはレメクに焦点を当てるカインの家系、もう一つはエノクに焦点をあてるセツの家系です。

 レメク家は多彩な人々からなり、牧場主あり、音楽家あり、鍛冶屋ありでした。また当のレメクも非常に強烈な自我の持ち主だったことが、その言動から伺われるなど(創世記4:23,24)、激越な印象を受けます。

 これと対照的に、セツの家についての記述は各々の寿命と、誰が生まれたかの羅列で、非常に静的な印象を受けます。しかし、この世的には非常に成功したレメク家の人々について、各人が何歳くらい生きたのかについて一切書かれていません。没年が不詳なほどの生き方を各人がしたのでしょうか。

 それだけにエノクについてのわずかな記述(創世記5:24)が、不思議な光を放ちます。エノクの生きた年齢365歳は、現代の私達からすれば想像もつかない寿命ですが、長寿だった旧約の人々に比較するとき、かなりの短命だったと言うことができます。しかし他の全ての人々がどんなに長く生きながらえても、またこの世的な成功を収めても、結局「死んだ」ことを見ると、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」という言葉は、私達に主と共に歩むことの素晴らしさ(ヨハネ10:27-29) また、ぬくもりのある天の home に関するイエスの言葉(ヨハネ14:1-3)を思い起こさせます。

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