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罪の生活から方向転換して、神に立ち帰ることです(マタイ18:3、ルカ22:32)。私達の心はそのままではかたくなで、神に従おうとしません。だから、イエスが言われたように、「父が引き寄せて下さらなければ」(ヨハネ6:44)誰もイエスのもとに来ることはできません。それでは、私たちの心の中に、何か分からないけれども、聖霊が入れることのできるスイッチのようなものでもあるのでしょうか。いいえ、神が招き、聖霊が罪びとを信仰に導く手段というのは、ただ福音のメッセージ、つまり神の言葉です。それが反抗の鎧を断ち切り、聞く耳のある心に信仰の種を植える力を持っているのです。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)。
聖書の正典に含まれていない文書のことで、霊感されたものではないと認められたものです。ウェストミンスター信仰告白(1643年)で権威のないものとみなされたのですが、カトリックではいくつかのアポクリファを正典とみなしています。最近出版された「新共同訳聖書」はプロテスタントとカトリックの共同になる聖書の翻訳ですが、アポクリファを含むカトリック版と含まない版とが発行されています。
外典はいわばキリスト教小説のようなものと言えばいいでしょうか。キリスト教関係の多くの小説が書かれていますが、いくらそれらが優れていても、誰もそれを聖書そのものと考える人はありません。長い歴史の中で生み出されたそれらと、聖書とを私達ははっきり区別できます。聖書の著者は神ご自身であり、その他の書物の著者は人間です。
旧約時代やユダヤ教において、神との契約を示す儀式で、男性性器の包皮を切除するものです。神がアブラハムと契約を結んだときに始まります(創世17:11-14)。 神はモーセやヨシュアにも同様に命じられました(出エジプト12:48;ヨシュア5:2-5)。 神の民となる契約のしるしであったわけですが、キリスト以降は、肉体の割礼によってクリスチャンになるのではなく、キリストを救い主と信じる、心の割礼が大切なのです。聖書には次のように書かれています:「あなた方はまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉の体を脱ぎ捨てたのである。あなた方はバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中から甦らせた神の力を信じる信仰によって、彼と共に甦らされたのである」(コロサイ 2:11、12)。
カトリックというのは「一般的、普遍的」を表わすギリシャ語、カソリコスに由来します。個々の教会ではなく、普遍的全体としての教会での信仰をめざしていたのですが、その長い歴史の中で生まれてきた諸教義が聖書に基づく信仰から離れてしまいました。たとえば、ローマカトリックの教える、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚)のうち、洗礼と聖餐を除く5つと、煉獄、免罪符、聖人崇拝などは聖書のどこにもありません。これらは、最高権威を聖書のみことばだけではなく、ローマ法王という人間をも真理の源泉としているところから来るのです。そのような中にいて、聖書の教え通り、純粋にイエス・キリストと信じ続けていく事はとても困難なことではないかと思います。違いを端的に言えば、「聖書も」信じるのか、「聖書のみを」信じるのかという事です。
ローマ時代の地下に作った長廊式の共同墓地です。ローマに限られず、ヨーロッパや北アフリカの諸都市にも見られます。しかし、規模の最も大きいものはローマのカタコンベで、現在までに知られているものは35箇所あまり、総延長560kmにも及んでいるそうです。カタコンベを有名にしたのは、様々な壁画や内部の装飾で、それらは古代世界の異教的美術の中から中世のキリスト教美術がどのようにして生まれていったかを示しています。また、初代キリスト教時代の迫害下、クリスチャン達はこのカタコンベに難を避けて礼拝を守りました。カタコンベを集会の場に選んだのは、ローマの官憲が墓地を神聖な場所としたため、迫害下にはほとんど破壊されなかったことなどがあげられています。
聖書の神は唯一の、生ける真の神です。この唯一神への信仰は、他に多くの神々を拝する「多神論」、万物を神とする「汎神論」、多くの神々を認めつつ一神のみを拝する「拝一神論」とは異なります。神は霊であり(ヨハネ4:24)、天地万物の創造者(創世1:1)、全能にして(創世17:1)、聖く(1ペテロ1:16)、愛であるお方です(1ヨハネ4:16)。たとえていうならば、水が氷−水−水蒸気と、形や性質を変えてもなおH2Oであり、しかも全地を覆っているように、父−御子−聖霊は三位にして一体なる唯一の神です。 人は御子キリストによって神に近づき(ヘブル10:19-22)、神はイエスをキリストと信じる人の罪を赦し(1ヨハネ1:7)、神の子供とし(ヨハネ1:12)、永遠の命を与えて下さいます(ヨハネ3:16、36)。
「恵み」という意味のギリシャ語 χαριs(カリス)の派生語で、神から一人一人に無償で賜わる恵みの賜物をさす言葉です。新約聖書ではもっぱらパウロが次のような意味においてこの言葉を使っています: このうち、(4)の賜物を特に強調する人々は、異言を語ったり、奇跡的な神癒を行なう事を重視し、そのことがなければ救われないとまで主張する事があります。しかし、それらは日々みことばに聴き、みこころに生きる事の重要性に比べれば副次的なことです。1コリント13章参照。
カルビン主義というのは、16世記にジョン・カルビンによって唱道された一連の神学教義ですが、それによると、神は天地創造以前に、全的堕落にある人々のうちの誰を救うかということを無条件に定めていて、あらかじめ定めていた時期が来た時に、その人の意志に拘りなく、信仰という贈り物を下さるのだというのです。確かに「聖書的予定」というものがあるのですが、それはカルビン主義の見解と同じではありません。神に選ばれるには特定の条件に合致する必要がありますが、罪びとの誰が信じる者となるかということは神がお決めになることではありません。決定権は実は、罪びとの方にあるのです。聖書にはこう書かれています:「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)
聖書には救われて神の国に入ることのできるのは、正しい人だけと書かれていますが(例:箴言11:6)、罪を犯すに早い私たち人間のうち一体誰が自らの力で義なる者となることができるでしょうか。しかし、イエスは言われました、「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9:13)。
では罪びとはどのようにして義とされるのでしょうか?「義化」という単語は「義とする」という意味ではなく、「義と宣言する、義とみなす、義として扱う」という意味なのです。その意味するところは、義認が私たちの状態や、罪に陥った性質の者である私たちの内側を変化させるというものではなく、神と私たちとの関係の客観的・外形的変化です。それは基本的には罪の赦しや免除と同じです。ローマ4:4-8を参照して下さい。
聖書を読んでいて、イエスの海上歩行とか、病気の癒しなど私たちの常識ではどうしても分からない記事が出てきます。奇跡の読み方・理解の仕方には3通りあるでしょう。
私たちの肉体の目でみる自然の法則の流れとは違った価値を持つものの存在を認めるのが信仰の世界です。これは理屈の問題ではなく決断の問題です。マスコミによってしばしば取り上げられる超常現象と聖書の奇跡には明かな差異があります。それは単なる異常現象なのか、それとも私たち人間への神の愛の表れであるのかの根本的違いです。
- (1)奇跡の存在を否定する読み方。
- (2)イエスのなさることだから、なんでもできるはずだとして全面的に受け入れる読み方。
- (3)聖書の中になぜその奇跡があるのかを考えてゆく読み方、つまり一つ一つの場合を歴史的・分脈的に検討してその意味を考えていく読み方です。
旧約聖書とは、一口に言えばユダヤ(イスラエル)人という民族の歴史であると言えるでしょう。しかし、ただ普通の歴史ではなく、彼らが信ずる神との関わりの中で、どのように生きたかという点を中心にした歴史です。彼らは先祖アブラハムの時代以来、自分達が神に選ばれた民であることを自覚していました。しかし、その選びは彼らが優れていたからではなく、むしろその逆であり(申命記7:7)、しかも他の諸国民を神の祝福に導くためのとりなしをするためだったのです(出エジプト19:6)。ところが、イスラエルは誤った選民意識の虜となり、神の目的に反するところとなり、敗戦と亡国の経験を重ねることとなってしまったのです。このつらい体験の中で、やがてメシヤ(救世主)が現われるとの神の約束が預言者を通して与えられ、イエス・キリストの出現が備えられていたのです。
人々を救いに導くことです。救って下さるのはもちろん神のみわざですが、そこにまで人々の関心を喚起し、神を信じる決心にまで導くことを「救霊」と言います。聖書には次のように書かれています。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。....しかし、宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか」(ローマ10:8-15)。この宣べ伝えることが救霊なのです。
ギリシア語では「呼び出されたもの」という意味の言葉です。教会というと私達はすぐ教会堂を思い浮かべますが、このことからわかるように、教会は本来「神が呼び出して下さった人々の群れ」なのです。
人々はイエスが一体どのような方なのだろうと思っていましたが、ペテロが「あなたこそ生ける神の子、キリスト(=救い主)です」とその信仰を告白した時イエスは言われました、「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16:18)。教会はこのように、イエス・キリストへの信仰という共通の土台の上に建てられているものです。「この教会はキリストのからだであって、すべてのもののうちに満たしている方が、満ちみちているものにほかならない」(エペソ1:23)。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)。
ローマ・カトリックの最高権威者のことで、法王とも言います。もともとラテン語の Papa は父の意味で、初代教会では伝道者や牧師に対して一般的に用いられた言葉でした。しかし、紀元2世紀の末頃に、ローマの監督がペテロから継承してきている職である主張され、343年のサルディカ会議で全キリスト教会への支配権があるとの要求が出されました。
その主張によると、教皇は神より委任された職権であって、全教会を教理的・倫理的に指導する最高の権威を持つものとされています。しかし、プロテスタント教会ではキリストへの信仰が教会の礎であり、また、キリストご自身が教会の頭であるとしています。それは聖書に次のように書かれていることに明かです。「万物をキリストの足の下に従わせ彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」(エペソ1:22)。
罪を離れ神へと方向転換する事を意味する言葉で、回心とも言います。単に知的に罪を認めて懺悔する事とは違って、罪を捨て全人格をもってキリストに従っていくことを表明することをさしています。マルチン・ルターはこれを「信仰のコペルニクス的転回」と表現しました。というのは、コペルニクスはそれまで信じられていた天動説に対して地動説を唱えた人ですが、ちょうどこの革命的な世界観の転換のように、私達も「自分中心」から「キリスト中心」に転回する事が悔い改めに当たって重要な事だからです。キリストの開口一番のメッセージも悔い改めを勧めています:「時は満ちた神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)。キリストが地上に来られたのも悔い改めさせるためだったのです:「私が来たのは...罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:32)。
唯一の真の神以外で礼拝の対象にしているものすべてが偶像にあたります。金・銀・木・石などで作られているものもありますし(エレミヤ10:2-5)、昔から太陽・月・星といった自然界のものも崇拝されてきました(申命記4:19)。
しかしこうした目に見えるものが偶像であることは理解しやすいのですが、もっと危険な誘惑に満ちているのは、人物・金銭・名誉・地位、さらには自分自身や自分の感情の偶像化です。むしろこれらの方が大きな誘惑に満ちた罪なのです(ダニエル4:30-33)。なぜなら神以外に第一とするものがあれば、それがその人の偶像なのですから。
聖書にはこう書かれています:「あなたは私のほかになにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるもののどんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」(出エジプト20:2-6)。
ギリシャ語でグノーシスは「知識」を意味する言葉ですが、ギリシャ思想の観点からキリスト教を解釈しようとして起きてきた一派です。その中心的教義は、霊を聖、物質を悪とする霊肉二元論で、「キリストが汚れた肉体をとったはずはない。単に人のように見えたに過ぎない」と主張し、キリストの受肉も十字架の贖いも否定する内容でした。そして、救いはキリストによって示されたグノーシスの霊的直感的認識によってもたらされると主張しました。初代教会に早くも起きてきたこの一派への戦いでパウロは次のように言っています:「あなたがたは空しいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように気をつけなさい。それはキリストに従わず、世の諸々の霊力に従う人間の言い伝えに過ぎない」(コロサイ2:8)。
イエス・キリストの誕生を記念する日、降誕節ともいいます。キリストの誕生日が厳密にいつのことであるのかは、聖書に日付が書かれていないので明かではありません。4世紀頃から、東方教会と呼ばれるギリシャ正教では1月6日を、西方教会では12月25日をその日としたようですが5世紀の初めに現在の12月25日になったようです。日付はないのですが、アウグストがローマ皇帝であったときとあることとか、そのほかのいくつかの手がかりにもとづいて、学者達は大体、紀元前7年あたりと推定しています。ただ、サンタクロースは明らかに、ヨーロッパの異文化の習慣から来ており、聖書とは関係がありません。キリスト生誕の厳密な日付は明かではありませんが、救い主が与えられたことを記念して世界中の人が祝うキリスト教の行事です。
キリスト教はイエス・キリストが地上に来られて始まったのですが、初代教会では自分達の事をクリスチャンとはまだ呼んでいませんでした。むしろ「道」と呼んでいたことが使徒行伝9:2等からうかがわれます(他に、使徒19:9,22:4,24:14など)。
この道の信仰者達が初めてクリスティアノス(=クリスチャン)と呼ばれたのは、シリアのアンテオケでのことでした(使徒11:26)。これは「キリストにつくもの」という意味の新語でしたが、現代の響きとは異なって、“死人の復活などという事を大真面目に信じている連中”といった、からかいを含んだニックネームだったそうです。しかし、このあだ名は初代教会の喜ぶところとなり、現代にも用いられている名称となりました。本当にキリストにつける者にとって、イエスの贖いと復活とは喜びの源泉であり、救いの確信の源だからです。
十字軍(Crusade)からきた言葉ですが、大衆伝道大会のことです。1949年、ビリー・グラハムがロサンゼルス・クルセードを行なって以来、クルセード形式の伝道が世界中で盛んに行なわれるようになりました。美しい音楽と賜物のある説教者によって、多くの人々が信仰に目を開かれています。
キリストが再びこの地に戻って来られるとき、まず空中にあらわれます。そのとき、すでに死んだクリスチャンがよみがえり、更に生きているクリスチャンが雲の中に一挙に引き上げられます。その出来事のことを携挙と言います(第一テサロニケ4:16,17)。
個人的信仰体験の重要性を強調する運動で、17世紀の初めのオランダ改革派教会に端を発しています。この運動は、ドイツの教会にいのちを吹き込み、モラヴィア兄弟団を通してイギリスに、そしてアメリカにと影響を与えていきました。
神が言葉と業によって、ご自身やそのご計画を人間に示すことをいいます。啓示の方法には2通りあります。1つは「一般啓示」、もう1つは「特別啓示」です。一般啓示は自然界、歴史、人の良心などによって示されるものです(ローマ1:19,20)。
特別啓示は、神が人となられたイエス・キリストと神の言葉-聖書を通して示されるものです(ヘブル1:1,2; ローマ16:25,26)。
神からの働きかけによって、人と結んだ約束のことです。アダムは神との契約を破り(ホセア6:7)、人類に災いが及ぶようになりました。神は折々に人間と契約を結びました(創世6:18; 9:11; 17:4-8; 申命4:13; 5:2; 29:1;サム下7:25; エレミヤ31:31その他)。聖餐式はキリストの十字架の血による新しい契約です(ルカ22:20)。
契約の箱「証しの箱」(出16:34),「神の箱」(1サム4:11),「主の箱」(王上2:26)とも呼ばれた神の臨在を象徴した、純金で覆われた箱でした。箱の中には十戒が書かれた2枚の石板とマナを入れた金の壷、それに芽を出したアロンの杖が入っていました(ヘブル9:4)。
地獄のこと。キリスト教を名乗るある一派は“地獄など存在しない”と主張していますが、聖書にははっきり「地獄」の存在が書かれています(マタイ10:28など)。スポーツを例に取るまでもなく、この世界の様々な問題は、各人のした事に対する正確な判定と、それに基づく正当な報いが行なわれない事に原因するのです。「人間には一度死ぬ事と死後に裁きを受ける事が定まっている」(ヘブル9:27)と聖書は告げています。“神様でさえ、その人が死ぬときまでは裁かない”とは味わい深い真理です。人間は全くせっかちに他人を裁くものですが、神様はできることなら、裁くよりも救いたいのです(2ペテロ3:9)。私達にとって大切なのは地獄の有無を論ずるよりも、自分の罪や過ちに対して神が忍耐と寛容を以って、私達の悔い改めを待ち望んでいて下さる事を覚える事です。
全ての人の心の中にある罪の性質のことです。歴史を遡るまでもなく、私達の周囲に罪悪は渦巻き、止む事を知りません。しかし、他を糾弾し攻撃する事で、自分を正義の代表と思うのは大きな錯覚です。他者の悪を見抜く鋭敏さと義憤の強さは、自分の中にある悪に対してはちっとも働かないのです。ちょうど人の顔の汚れは目についても、自分の顔の汚れには全く気がつかないのと同じです。そしてこういう場合、“罪を憎んで、人を憎まず”という事はおよそ不可能です。罪悪と、その罪を犯す「人」とを分離して考えることができないのは、自分の中に罪がある証拠であり、しかもそれが分からないからです。神はご自身が罪汚れのない方であるが故に、罪と罪びとをごっちゃになさいません。罪びとの私達を愛し、救おうと心を砕いて下さるのです(ヨハネ3:16)。
聖書には次のように書かれています:「兄弟達よ。そういうわけで、神のあわれみによってあなた方に勧める。あなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、あなた方のなすべき霊的な礼拝である」(ロマ12:1)。ここでクリスチャンはみな神に身を献げることが勧められています。
この言葉は通常、特に牧師・伝道者・宣教師等になるという意味で使われています。ただ更に、放送伝道・医療伝道その他を通しての宣教活動に献身する場合にも用いられます。
ある宣教師は次の4つのことを自問するように奬めています。
- (1)内的うずきがあり、しかも「これでいいんだ」という平安がありますか?
- (2)みことば(聖句)の裏付けがありますか?
- (3)牧師や先輩はなんと言っていますか?
- (4)環境がどう動いていますか?
「交わり・参加・共有」を表わすギリシャ語です。キリストにある人々は、共に集まって礼拝し、賛美し、交わりの場を持つのです。初代教会のコイノニアの様子は使徒行伝2:42-47にうかがうことができます:「そして日々心を一つにして、たえず宮もうでをなし、家ではパンをさき、喜びとまごころとをもって、食事を共にし、神を賛美し、全ての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」。この交わりを通して、信仰は成長し、互いに助け合い、有機的共同体(教会)が構成されていくのです。
自分の罪を認め、それを言い表わすことをさします。聖書には次のように書かれています:「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちをきよめてくださる」(1ヨハネ1:9)。」「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10:9、10)。
旧約聖書の最初の5つの書物−−創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。聖書の中ではこの五書をさして、「律法」とか「モーセの律法の書」といったことばを用いています。五書には天地創造、選民イスラエルの歴史、十戒、約束の地カナンの占領と分割、神の契約と律法の再述などが記されています。著者は歴史的にモーセと言われています。
回心はあくまでも個人の問題です。そこで、個人的に接触し、回心に導く事を個人伝道と言います。大衆伝道も個人伝道によって主に導く事をしなければ、ザルで水を救うことになりやすいのです。
古い綴りではgodspellと書かれていたことが示すように、ゴスペルというのは“神の言葉”を意味する英語です。日本語では「福音」と訳されていますが、この方がギリシャ語のευανγελιον(エヴァンゲリオン=うれしい知らせ)の訳としては近いのです。イエスが宣教を開始した時の開口一番は次のように記録されています:「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。(マルコ1:15)キリストの福音は弟子達によって全世界に伝えられました。それは「キリストが、聖書に書いてある通り、私達の罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目によみがえったこと、ケパに現われ、次に、12人に現われた」(1コリント15:3、4)ということでした。