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チェンマイ日本語キリスト教会の始まりは、
1992年に一組の日本人宣教師がチェンマイに到着した時にさかのぼります。カレン族への宣教に備える大里宣教師ご夫妻到着当時、日本語の礼拝はチェンマイにありませんでした。英語礼拝に参加する日本人クリスチャンたちは、母国語での交流と励ましを必要としていました。1996年まで、年に数回から月1,2回へと回数を増やしつつ持たれた不定期な集会は、1997年、ついに毎月1度の日本語礼拝となりました。1999年からは、これまでの宣教師館からパヤップ大学へと礼拝の場が移り、2001年からは同じく山岳民族宣教に備える有澤宣教師ご夫妻も加わって、月に1度の日本語礼拝が継続されました。

両師が、本来の宣教地へ遣わされる2004年、2002年に
有澤宣教師が日本語礼拝継続を願って繰り返し記された最後のニュースレターを読み、祈っておられた野尻孝篤・明子夫妻が、チェンマイにおける日本語での礼拝継続を神さまからの招きとして応答し、チェンマイにおける教会形成へと踏み出されました。63歳でした。

野尻師ご夫妻は、1980年から1989年まで
バンコクでタイ人への宣教師としてご奉仕されたご経験がありました。タイでのご経験があるとはいえ、熱帯の国での再出発には大変なご覚悟が必要であったことと思います。その背中を押した一つの事柄は、野尻師が信仰を持つきっかけとなられた女性宣教師ミリカン師の存在でした。戦前、ご夫妻で日本人への宣教師としてご奉仕されたミリカン師は、戦中、アメリカへの帰国を余儀なくされましたが、戦後、未亡人となられながらも日本に戻ることを切望され、63歳で単身、日本での宣教を再開された方でした。野尻師が、タイへの宣教師となられたのも、ミリカン師がしてくださったことを覚えてのことでした。

野尻師ご夫妻到着直後に
チェンマイ中国人教会の敷地内に会堂と宣教師館が与えられ、2004年10月末から、毎週の日本語礼拝が始まり、ついにチェンマイ日本語キリスト教会が誕生したのです。

それから、多くの方々がこの教会で信仰へと導かれ、霊肉の養いを受け、
ある方々は厚い看取りを受けて召天されました。タイの福祉やロングステイヤーをめぐる環境にも多くの変化があった年月。在住邦人の数も減少傾向にありましたが、この地で生涯を閉じられる方もまだ多くおられます。中国人教会墓地の一角に日本語教会の墓地を備えつつ、関わる方々の一歩一歩に伴走された野尻師ご夫妻も70代を迎え、後任牧師を祈り求めておられました。

2012年、かねてからタイで出会った人々のために祈っていた長谷部師がタイを再訪した直後、
チェンマイ日本語キリスト教会後任牧師の必要を、思いがけなく知らされることとなります。そこから、多くの祈りが積まれ、2017年、数年後の牧師交代を目指して長谷部師がチェンマイに派遣されました。

ところが、長谷部師の到着間もなく、野尻夫人にご病気が判明し、
治療のために野尻師ご夫妻を日本へと見送ることに。長期の治療が必要であったため、そのまま本帰国を決断されるに到りました。夫人は寛解されましたが、野尻師は2019年に召天され、教会は地上での突然のお別れに大きな寂しさも味わいました。

しかし、この教会の歴史は、
神さまがチェンマイ在住邦人のために備えてくださった教会の必要をよくご存じであったことをも明らかにしています。大里・有澤宣教師、そして野尻師ご夫妻を始め、宣教師たちのお留守を守ってくださった諸先生方や教会の方々、タイの方々、すべての存在が、時にかなって美しい、神さまの配剤でした。

2010年に出版された教会の5周年記念誌のタイトルは、
「エベン・エゼル ここまで主が私たちを助けてくださった」です。エベン・エゼルというのは、旧約聖書において神さまの助けを記念するために据えられた一つの石です。それは、教会の歩みだけではなく、私たち自身の歩みの中にも置かれるべきものでしょう。

2021年、チェンマイ日本語キリスト教会は、
高齢化するチェンマイ在住邦人社会における教会の使命を覚え、17年親しんだ場所から会堂を移しました。これまで40段の階段に阻まれて集えなかった方々とともに礼拝するためです。これからも、神さまを愛し、神さまに愛されている一人一人を大切にしつつ、神さまに導かれて歩むことを目指します。