レント〜イースター2008 02 
『無駄遣いの愛』 マルコ 14:3-9 
  
今週の聖書箇所は、イエスさまが十字架にかかる前の1週間に起こった出来事です。 
マルコ福音書によると、2日前、ヨハネ福音書によると6日前の出来事と読みとれます。 
いずれにしても、十字架を目前にしたイエスさまに起こった出来事です。 
  
このときイエスさまに注がれたナルドの香油は、約300グラムです。 
そして代金は、もし売ったならば300デナリ以上と書かれています。 
労働者1日分の給料が1デナリですから、300日分の給料以上ということになります。 
計算を簡単にするために1日1万円とするならば、300万円以上の価値があるといえましょう。 
とても高価な香油です。 
  
それを惜しげもなく、というか、必要以上と思われる莫大な量を、一気に使ってしまったのですから、弟子たちは驚いたことでしょう。 
驚いただけでなく、彼らは怒って、彼女を責めたのです。 
弟子たちの反応は、当たり前の反応ともいえます。 
普通に考えれば、無駄遣いにしか見えない行為です。 
もちろん、弟子たちの心に嫉妬や功名心もあったかもしれませんが。 
  
ところで、愛は無駄遣いに見えることが多いのも事実です。 
見返りを求めない本当の愛は、損得勘定から言えば常に損だからです。 
例えば、子どもを育てる親は、将来の見返りのためにがんばれるのではありません。 
乳飲み子を抱えた母親が、「老後の面倒見てもらうために、おっぱいあげるよ。」などとは考えることはないのです。 
ただ、愛のゆえの行為です。 
行為から、一切の無駄を取り去ってしまったなら、そこに愛は残らないといってもいいでしょう。 
  
彼女の無駄遣いの愛に、イエスさまは喜びました。 
「埋葬のために」とイエスさまは言いましたが、彼女がそこまで理解していたかどうかは定かではありません。 
私は、彼女は理解していなかったと考えます。 
しかし、彼女の行為はイエスさまにとって、とても必要な埋葬の準備であり、愛の行為だったのです。 
  
彼女は理解していなかったかもしれませんが、「純粋で、非常に高価な」ものを「惜しみなく」注いだということは確かです。 
300デナリ以上の香油を、ポンとつぼを割って、すべて注いでしまうのですから、たいしたものです。 
  
私は、根がずるくて計算高い人間ですから、ポンとつぼを割れなかったと思います。 
どこか裏の方で別の容器にそっと残して、「これくらいでいいか」とか考えてしまうタイプなのです。 
こんな私ですから、ふだんの生活ではあえて損をするようにして、バランスをとっています。 
それでも人より計算高かったりしますが・・・・ 
  
ところが彼女は計算しませんでした。 
自分のできる限りの愛を注いだのです。 
周りの目を気にすることもなく、全力で愛を注いだのです。 
  
そして、この愛をイエスさまは喜んで全身に受け止めました。 
頭の先から足まで、イエスさまは香油の香り、彼女の愛の香りにつつまれていたのです。 
そしてイエスさまは、このすてきな香りを身につけて、十字架への道を進んでいくことになります。 
神様のひとり子が、罪人を救うために十字架で呪われて死ぬという、究極の無駄遣いの愛を達成するためにです。 
ここに、弟子たちの現実的な計算など入り込む余地はないのです。 
  
私たちも、惜しみなくイエスさまに愛を注ぎましょう。 
「純粋で、非常に高価な」贈り物は、あなた自身です。あなたの人生です。 
あなた自身を、イエスさまに注いでしまいましょう。 
教会へでもなく、牧師にでもなく、イエスさまに注ぐのです。 
周りの目を気にすることはありません。 
イエスさまは、あなたの愛を喜んで受け止めてくれます。 
無駄遣いに見えてもいいんです。 
あなたの愛のつぼを割って、あなたの愛をあふれさせましょう。 
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