「喜びの年」 2005年 大晦日礼拝
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ人への手紙第4章4節(2005年 年間聖句)
今日は大晦日です。
1年を締めくくるこの日に、こうして皆さんと御言葉を分かち合えることを感謝します。
今週の聖書箇所は、サンパウロ・ゴスペルハウスの2005年の年間聖句です。
今年の元旦にこの箇所からメッセージをして、今年1年を「喜びの年」としました。
毎週の礼拝では、喜びを中心テーマにして、御言葉を解き明かしてきました。
そして本日はその最終回というわけです。
元旦礼拝の時、私は聖書に「喜」という文字が何回書かれているかをお話しました。
何回だったか、覚えていらっしゃいますか?
答えは、747回です。(新改訳聖書・坂本調べ)
下手な語呂合わせで、「無し(74)にな(7)らない喜び」とご説明いたしました。
1年が365日ですから、747回は1日平均2回強ということになります。
みなさんは今年1年をふり返って、どうでしょう?1日に2回以上喜べたでしょうか。
手前味噌ですが、私自身は喜んだ回数747回をクリアしたと自負しています。
アリアンサ(私が通っている語学学校)の掃除のおばちゃん(ほとんど会話したことがない)にも、「この人はいつも喜んでいる」と言われるくらいでした。
しかし、この喜びの年には、もう一つのポイントがあったのでした。
もう一つと言うよりは、こちらのほうが大切と言うべきポイントです。
それは「主にあって」、ポルトガル語で言うならば “no Senhor” 、英語では “in the Lord” です。
ただ喜ぶのではなく、神様の愛の中にあって、イエスさまのいのちがけの愛の中にあって、その愛を十分に受けて喜ぶ。
これが本当の喜び、自分自身だけでなく環境までも幸せにできる喜びだったのです。
これについては、残念ながら、私は落第でした。
神様の愛を忘れてしまって、人を裁いたり傷つけてしまったり、自分自身を責めたりすることがしばしばありました。
そのたびに、イエスさまに諭されて悔い改めたり、寛太郎さんにご指摘いただいて立ち返ったりの繰り返しでした。
しかし、そんな不十分な私にとって、神様の大きなあわれみと赦し、そして、皆さんの寛容があったからこそ、今年1年を乗り越えることができたのだと確信できるのです。
ふり返れば、不十分な私を包む神様の愛を心から感じることができ、そして、心から喜ぶことができます。
そういった意味では、やはり、徹頭徹尾、「喜びの年」でありました。
サンパウロ・ゴスペルハウスでは、2005年を喜びの年としましたが、今年1年で喜びが終わってしまうわけではありません。
そんな流行やブームで終わってしまうような喜びではないのです。
なぜなら、不十分な私たちに根拠がある喜びではないからです。
イエスさまがいのちをかけた、大きな大きな愛に根ざす、全人類のための永遠の喜びなのです。
これからも神様からの喜びが皆さんの上に豊かにありますよう、心からお祈りいたします。
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