2005年クリスマスに向けて 02
『ヨセフの苦悩』マタイ 1:18-25
先週は、受胎告知のときのマリヤを取り上げましたが、今週はその夫であるヨセフを取り上げます。
ヨセフは悩んでいました。
それは、婚約者のマリヤが妊娠したことを知ったからです。
そして、それはヨセフの子どもではないのです。
信仰深い娘と思っていたマリヤが、ヨセフを裏切るようなことをしたのです。
婚約中の姦淫は、結婚してる者の姦淫と同じく死刑です。
ヨセフは、マリヤを密かに去らせようと決めました。(19節)
それは、マリヤの命を救うためです。
そして、すべての責任をヨセフ自身が負うと決心したことを表します。
その時、主の御使いがヨセフに現れました。
そこで言われたことは、ありえないことの連続でした。
マリヤのおなかの中の子どもは、神様によって妊娠したこと。
つまり、マリヤは、神様の子どもを妊娠しているということです。
神様はとてつもなく聖い存在で、もし、人間が見てしまったら、あまりの聖さに耐え切れず、人間が死んでしまうと言われていました。
それを、マリヤはおなかに宿しているというのです。
その子どもは救い主であること。
神様の子どもが、救い主としてこの地上に来るのです。
救い主ということは、自分のいのちを捨てて、罪人を救うということを意味します。
つまり、マリヤのおなかの中の赤ちゃんは、身代わりとなって死ぬために生まれてくるのです。
そして何よりも、処女マリヤが妊娠していること。
これらすべてが、ありえないことばかりです。
そして、このありえないことを正しいと前提しなければ、キリスト教は成り立たないのです。
私たちの救いは、成り立たないのです。
こう考えてみると、なんと脆弱な土台の上に、私たちの救いが成り立っているのでしょうか。
キリスト教に賛同しない多くの方たちも(かつての私もそうだったのですが)、こんなありえないことを土台として成り立つ救いなど取るに足らないと考えてしまうのも無理ありません。
しかし、この謎を解く鍵があります。
それは、「神様が人間を愛している」という事です。
神様は聖なる存在です。
しかし、それ以上に大きな愛の存在なのです。
神様が人間を愛するがゆえに、そのひとり子のいのちを罪の贖いのために差し出したのです。
神様が人間を愛するがゆえに、人間の姿をとってひとり子をこの世におくったのです。
神様が人間を愛するがゆえに、他の人間の手を介さないために、処女マリヤを妊娠させたのです。
「神様が人間を愛している」という、この鍵を使わなければ、聖書は何もわかりません。
聖書にはこうあります。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(ヨハネの第1の手紙 4:8)
ここは、こう言いかえる事もできるでしょう。
愛という鍵を使わなければ、神様はわかりません。なぜなら神様は愛だからです。
この鍵を用いるならば、この箇所のみならず、聖書すべてが開けてくるのです。
神様は、愛の証拠として、イエスさまをこの世におくって下さったのです。
では、私たちはどうしたらいいでしょうか。
小さな子どもが、クリスマスにサンタクロースからのプレゼントを貰います。
その時、子どもは遠慮するでしょうか?
いいえ、しませんね。
大喜びで、そのプレゼントを受け取ることでしょう。
私たちも同じです。
神様からの愛のプレゼントであるイエスさまを、遠慮なしに、喜んで受ければいいのです。
ウキウキするような気持ちで、このプレゼントを受けましょう。
そこから、あなたの喜びの人生が始まります。
あなたのためにお祈りしています。
|