2   マルタとマリヤ(話そう02 2004.05.08)
シリーズ イエス様と話そう 02
『マルタとマリヤ』 ルカ 10:38-42
 
二人の姉妹、マルタとマリヤの対照的な姿が描かれています。
神様が愛すべき存在(宝物)としてお造りになった私たちは、だれ一人同じものがありません。
一人ひとりに個性が与えられ、だれと比べられることもなく、神様の前にかけがえのない大切な存在なのです。
 
マルタは、もてなしの心にあふれ、イエスさまのために一生懸命立ち回っています。
マリヤは、静かにイエスさまの前に座って、イエスさまの御言葉を一生懸命聞いています。
動的な奉仕のマルタに対して、静的な奉仕のマリヤ。
これは神様が与えた個性(気質)の違いです。
神様はどちらの奉仕も最大級の喜びを持ってお受けになります。
 
お互いの個性(気質)を認め合えないと、人間関係がギクシャクします。
動的な人には、静まって考える人のことが理解しにくいでしょう。
怠け者のように感じさえもします。
ここで、マルタはまさにこの状態に陥っています。
逆に、静的な人は、たえず動き回っている人のことを理解できず、下品に感じさえもします。
 
動的な奉仕も静的な奉仕も、それぞれの個性あふれる奉仕。
神様にとっては両方とも大切な愛すべき奉仕です。
しかし、そのはずなのに、イエスさまは「どうしても必要なことは一つだけ」(42節)とおっしゃいました。
そして、どうしても必要なことは、今でも一つだけなのです。
なぜでしょうか?
 
マルタは忙しさのあまり、マリヤを責めています。
マリヤだけでなく、イエスさままで責めてしまっています。
マルタの奉仕は、愛を注ぐ奉仕、愛を行う奉仕です。
ところが、愛を注ぐ対象であるはずのイエスさままで責めてしまいました。
マリヤの奉仕は、御言葉(神様の愛)を受ける奉仕。
愛の行いはキリスト教の最高の戒め(命令)です。
しかし、そのエネルギーは、愛の源泉である神様からのもの。
神様の愛以外ではありえません。
聖書の戒め(命令)のすべての前提は、神様に愛されることなのです。
 
もう一つの理由があります。
神様はこの世を愛したゆえに、救い主イエスさまをこの世に遣わされました。
イエスさまによってあらわされた神様の愛を私たちが受け取り、永遠のいのちを得るためです。
神様にとって私たちは愛の対象なのです。
イエスさまの十字架前の最後の説教の最初のテーマは「わたしの愛の中にとどまりなさい」でした。
私たちは愛されるべき使命を負っているのです。
 
イエスさまの愛を受けて二人は変わりました。
ヨハネによる福音書12章1節〜3節を読んでください。
イエスさまはマルタとマリヤの兄弟であるラザロをよみがえらせました。
イエスさまの愛による奇蹟です。
ラザロの復活の後、マルタは喜んで食事の支度をし、マリヤは300デナリ(300日分の給料に該当します)もの香油を惜しげもなくささげました。
二人の姉妹の個性あふれる愛の行為です。
二人の愛の行為で、この家は愛の香りでいっぱいになりました!(3節)
 
イエスさまの愛はあなたの心を愛でいっぱいにします。
イエスさまの愛はあなたの家庭を愛の香りでいっぱいにします。
イエスさまの愛はあなたのまわりのすべてを愛の環境にします。
本当に必要なことは、ただ一つだけです。
そう、愛されましょう。
 
あなたのためにお祈りしています。



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