年老いて白髪になっても

聖書 詩篇71篇18~24

敬老特別礼拝 「年老いて白髪になっても」 2020年9月20日 動画はこちら

(序)本日は、敬老特別礼拝です。本日も詩篇71篇からお話いたします。

既に申しましたとおり、この詩篇の作者は、老境に至って、この詩を歌っています。様々な苦しみに遭遇しながらも、若い時からの信仰を失うことなく、いよいよ神の義とその力ある救いの御業を思って、切に祈り、また賛美しているのです。

一、若いころからの信仰

すでに申し上げていますとおり、71篇の作者は、人生の晩年にこれを書いていると思われます。彼は、若い青年の時代から、「主を信じて来た」いや、6節を見ると「生まれたときから…母の胎から」と言っています。生まれる前、お母さんのおなかにいる時から、祈られて育ってきたと証しているのです。まことに祈られて育てられ、若い時からずっと神様を信じ、神様を賛美してきたのです。何と幸いなことでしょう。

二、年老いて白髪になっても

18節をご覧ください。「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」(詩篇71篇18節)詩人は、苦しみに遭遇する中で、「私を捨てないでください」と祈り求めています。この71篇全体を見る時、詩人は、しばしば神の助けを祈り求めています。2節に、「あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。」(2節)そして12節にも「神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください」(12節)と叫んでいます。私たちは、様々な苦難に遭遇します。若い時には若い時なりの苦しみを経験し、年老いては年老いたで固有の苦しみを経験します。私は今年洗礼を受けて60年になります。この60年の間様々なことがありましたが、そのつど主の御助けと恵みを頂いてきました。皆さんも様々な人生の経験を通してこられたことと思います。

いつも申し上げていることですが、その時与えられたみ言葉を大切にしてください。主イエスは言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24章35節)

三、尽きることのない感謝の証しと神への賛美

 詩人は、単に主の助けと救いを祈っているだけではありません。主の恵みを感謝しています。年老いて、様々な困難の中を通り、次第に弱さを覚える中でも、詩人は、神に感謝し、神をほめたたえ、次の世代の人々に自らの証しをしています。7節では、「私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。」(7節)と証しし、「私の口には一日中、あなたの賛美とあなたの光栄が満ちています」(8節)とあります。20節には、「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」(20節)と証ししています。さらに、22~23節には、六弦の竪琴もって高らかに主を賛美する様子が歌われています。贖い出され救われた恵みを高らかに賛美しているのです。

時々、年寄ると愚痴を言ったり、不足を述べたりする人がいます。しかも、何度も何度も同じことを繰り返して不平を言うのです。聞いていて、さびしさを感じます。しかしどうでしょう。この詩人は、神に尽きることのない感謝をささげ、その恵みの御業を証しし、賛美で溢れています。

15節、16節、そして24節に、「私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう。」(24節)とあります。この「あなたの義を」と訳されたところを新共同訳では、「私の舌は絶えることなく、恵みの御業を歌います。」(24節、新共同訳)となっています。ヘブル語の聖書では、「義」を意味するツァデークが用いられています。これまでも申し上げたように、「義」ツァデークには、「恵み」「救い」「勝利」という意味が含まれているのです。ですから、この所を新共同訳は「恵みの御業」と訳しています。

(結論) 私たちも、「恵みの御業」を神に感謝し、神をほめたたえ、神の恵みを証しする者となりましょう。