御顔の輝き

礼拝説教 「御顔の輝き」 2020年11月8日 動画はこちら    

聖書 詩篇27篇7~10節

(序)11月21日は、竹田俊造師が召天なさって70年を迎えます。そこで竹田俊造師・ヨネ夫人の召天70周年の記念会を計画していましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で予定していました記念会と毎年行っています召天者記念礼拝は残念ながら取りやめ『教会だより』の特集として記念の号を発行しました。『教会だより』の巻頭言にも書かせていただきましたが、紙面には制限がありますので、今朝の礼拝において、もう少し詳しくお話したいと願っています。

一、御顔を慕い求める

詩篇27篇8~9節をご覧ください。詩篇27篇は、ダビデ作の詩篇です。「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」とあります。ここで、ダビデは、「主の御顔」を求めています。

『燃ゆる棘』の中に掲載された「御顔の威光」と題する竹田俊造先生の説教の一節をお読みしたいと思います。

「神の臨在は確かである。その約束は変わらない。…その御声が聞こえるほど近くいましたもう。そのささやきすら聞こえる。しかし、その臨在にもかかわらず、神は、『汝ら、わが顔を尋ね求めよ』と言われる。ダビデは驚いて、はっとしたようにそのみことばに応じ、改めて叫び求めた。」(『燃ゆる棘』)

ダビデの主の御顔を求める姿がありありと映し出されて伝わって来るではありませんか。

旧約聖書で「主の臨在」を表す言葉は、「顔」を意味するパニームという言葉です。ダビデは、「主の御顔」すなわち「主の臨在」を慕い求めているのです。ダビデは、主の御前に静まり、その御声が聞こえるほど、主に近づいていますが、近づけば近づくほど、さらに渇いて、主の臨在を求めているのです。

二、御顔の輝き

先ほどお読みしました「御顔の威光」と題する竹田俊造先生の説教の終わりに、「御顔の恵みは輝く」と小見出しが付けられて、6つの項目が挙げられています。

すなわち、①御顔の前には、満ち足りた喜びがある。

「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。

あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16篇11節)

②御顔は救いである。

「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。

私の前で思い乱れているのか。神を待ち望め。

私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42篇5節)

③御顔は聖別である。

「私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民とが、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」(出エジプト記33章16節)

④御顔は安息である。

「わたし自身が一緒に行って、あなたを休ませよう。」(出エジプト記33章14節)「我親(みずから)汝と共にゆくべし我汝をして安泰(やすらか)にならしめん」(出エジプト33章14節、文語訳)

⑤御顔は勝利である。

「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、

自分の腕が彼らを救ったのでもありません。

ただあなたの右の手、あなたの腕、

あなたの御顔の光が、そうしたのです。

あなたが彼らを愛されたからです。」(詩篇44篇3節)

⑥御顔は隠れ家である。

「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」(詩篇31篇20節)

これらの一つひとつを深く味わいたいと思います。

竹田俊造先生は、「御顔の恵みの輝き」の集約を父の独り子としての主イエスの栄光、すなわち恵みとまことに満ちた主イエスの御顔にある神の栄光の輝きのうちに見て、「カルバリの山で、事を成就された御顔の輝き、我らは、ペンテコステの恵みのうちに御顔を拝し、来るべき栄光の日を待ち望む」と結んでおられます。

三、神の臨在の不断の現実感

ダビデは、詩篇27篇1節で、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のとりで。だれを私はこわがろう」と主への信頼を歌っています。その上で、ダビデは、主の御顔を切に求めて祈っているのです。

再度、8~9節をご覧ください。「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。」

とあります。私たちも、主の御顔を、主の臨在を切に求めて、御前に静まりましょう。

竹田俊造先生の印象について、「主の臨在」である、と小島伊助先生は、『小島全集』第7巻に掲載された『懐かしの残像』という回顧録の中において述べ、しばしば竹田先生の御用された聖会において、「主の臨在の現実感」を経験させられた、と記しておられます。

ドイツ敬虔派聖書学者ベンゲルは、「敬虔とは、神の臨在の不断の現実感である」と言ったそうですが、私たちは、この「神の臨在の不断の現実感」に常に生きる者とならせて頂きましょう。

いつでも、どこでも、どういう状況でも、「私はここにいるよ」と仰って下さる主のみ声を聞く者でありたいと思います。