礼拝説教「民を羊の群れのように導かれる神」2020年10月25日 動画はこちら
聖書 詩篇78篇40~55節
(序)本日も詩篇78篇よりお話いたします。
一、大いなる救いの御業を忘れたイスラエルの民
40~41節を見ると、「幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒地で神を悲しませたことか。彼らはくり返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。」とあります。今、「月刊ベラカ」の聖書日課で民数記を読んでいますが、繰り返し、イスラエルの民が不平をつぶやき、モーセやアロン、ひいては神ご自身に対して、逆らっている記事が出て来ます。詩篇78篇でも12~16節、23~28節、さらには44~51節などに神の恵みの御業が記されています。ところが、イスラエルの民は、それらの神の恵みの御業をしばしば忘れ、神を試み、逆らい、不平を述べています。特に、40~41節では、「神を悲しませ…神を試み…イスラエルの聖なる方を痛めた」というのです。「イスラエルの聖なる方」とは、神が一切のものを超越し、支配し、歴史をつかさどっておられる絶対者なる方として、イスラエルと諸国民をさばき、また、救い給う方としての表現です。要するに創造者なる神の唯一性、至高性、絶対性が示されたところの表現です。
何とイスラエルの民は、この「イスラエルの聖なる方を痛めた」と言うのです。他の訳では、「イスラエルの聖なる方を悩ませた。」「イスラエルの聖なる方を傷つけ」とあります。絶対者なる神様を悩ませ、傷つけ、痛めるとは実に怖ろしいことです。
さらに、42~43節を見ると、彼らは、神の力も神が敵から贖い出してくださったことも、エジプトで行われた神の奇蹟も全く忘れたというのです。
二、民を羊の群れのように導かれるあわれみ深い神
52節をご覧ください。「しかし神は」と言うのです。先週も申し上げましたように、不誠実極まりないイスラエルの民に対して、主なる神は、あわれみと忍耐を示されたのです。主なる神は、「あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代に保ち、咎と背きを赦す方」なのです。
さらに、52節に「ご自分の民を」とあります。どんなに神の恵みの御業を忘れ、神を試み、神に逆らい、不平を述べるイスラエルに対しても「ご自分の民」として取り扱っていて下さるのです。そして、「羊の群れのように連れ出し」てくださるのです。すなわち、優しく愛とあわれみをもって導いてくださるのです。
53節を見ますと、「彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった」というのです。
そして、55節、主なる神は、ご自分の民に約束の地をそれぞれの嗣業の地として与え、そこに住まわせられたというのです。
三、たましいの牧者であり監督者であるキリスト
ここでペテロ第1の手紙2章25節をご覧いただきたいと思います。
「あなたがたは、羊のようにさ迷っていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(ペテロ第1の手紙2章25節)とあります。21節以降のキリストのご苦難についてイザヤ書53章を背景として語られているゆえに、この25節の「羊のようにさ迷っていましたが」とは、イザヤ書53章6節の「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」が背景にあることが明らかです。そして、「自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った」とは、マタイの福音書18章11~13節において、主イエスが話された譬え話、羊飼いが99匹を残し、迷い出た一匹を捜す羊飼いのことが背景としてあります。ここに、あわれみ深い神としてのキリストのお姿が示されています。牧者は、羊のことを気にかけ、絶えず水や餌を供給し、野の獣から羊を守ります。主イエスは、「失われていた者を捜し救うために来た」と言われるのです。ですから、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った私たちに対し、ペテロは、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第1の手紙5章7節)と言うのです。
(結論)羊の群れのように連れ出してくださるあわれみ深い神、たましいの牧者であり監督者である方を信頼し、すべての思い煩いをゆだねて参りましょう。