神が立ち上がられたなら

礼拝説教「神が立ち上がられたなら」2020年9月27日 動画はこちら

(序)ヒゼキヤ王の頃のこと、アッシリアの王セナケリブとその大軍が、ユダ王国の町々を襲撃し占領し、さらにエルサレムを包囲したとき、神がヒゼキヤの祈りに答え、一夜のうちに、アッシリアの軍勢18万5千人を打ち破られます。アッシリアの王セナケリブは、ニネベに逃げ帰りました(Ⅱ列王記19:35~36)。その出来事に際して、アサフの子孫が、本篇を歌ったであろうと言われています。ここに勝利者なる神の威厳と栄光が歌われています。

一、偉大なる神の臨在

 1~3節に、偉大な神の臨在が歌われています。1節「神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。」(1節:新改訳第3版)「神はユダにご自分を示される。イスラエルにその偉大さを。」(1節:新改訳2017)この時までに、北王国イスラエルはアッスリアに滅ぼされ、今やユダが残るのみです。ここでのイスラエルは、神が契約の民として選ばれたご自身の民全体を意味しており、ユダは、その代表としてこの1節に歌われています。とにかく、神は、ユダに偉大なる方としてご自身を示しておられるのです。

2節、「神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。」(2節)シャレムは、エルサレムの古い名前であり、シオンもエルサレムの別名です。「神の仮庵は」とある所を他の訳では、「神の幕屋は」と訳しています。要するに、エルサレムは、神の住まわれる臨在の場所であることを詩的に表現しているのです。

3節、「その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。」すなわち、臨在の主が、あらゆる敵の攻撃を防ぎ、勝利してくださるということです。

二、威厳と栄光に輝く勝利者なる神

 4節は、なかなか難しい箇所です。ですから、欄外にあるように、70人訳では、「えじきの山々」を「永遠の山々」と読み替えています。この節は、要するに神の輝くばかりの威厳を歌っているのです。攻め寄せて来るアッシリアの軍勢は、多くの国民を襲い、征服民を餌食にし、山のようにうず高く満たしているが、主なる神の威厳と栄光は、彼らにはるかにまさっていることを歌っているのです。5~7節、敵なる者は、どんなに強がっていようとも、眠りこけており、主なる神の御前に全く無力であることを述べているのです。

三、さばきと救いの御業を行われる神

 7節、11節、12節に、「恐ろしいい方」「恐るべき方」「恐ろしい方」とあります。主なる神が怒られる時、すべての者は、恐れ身震いします。7節に、「あなたは、あなたは恐ろしい方。あなたが怒られたら、だれが御前に立ちえましょう」(7節)とあります。「あなたは、あなたは」と「あなた」が繰り返されて強調されています。詩篇47篇2節にも「恐れられる方」とあります。詩篇46篇と47篇を味わってください。主なる神は、「静まれ」「やめよ」と声を発せられる方です。主がひとたび御声を発せられるなら、すべての者は恐ろしさのあまり、声を失い、青ざめるのです。「あなたの天からの宣告が天から聞こえると、地は恐れて、沈黙を守りました」(8節)とあるとおりです。

 9節、「神が、さばきにのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに」(9節)とあるように、主なる神は、その大いなる御業によって、悪しき者をさばかれると同時に、貧しい者を救われるのです。主なる神は、恐ろしいほどの大いなる御業をもって、さばきと救いをなされる方です。

主は、立ち上がられるのです。さばきと救いをもたらすために立ち上がって御業を行われるのです(9節)。初めに申し上げましたとおり、主なる神は、あのアッスリアの軍勢18万5千人を一晩で打ち負かし、大いなる恐ろしいばかりの勝利を勝ち取られたのです。

最後に、ローマ人への手紙8章37節をご覧ください。

パウロは、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ人への手紙8章37節)と語っています。

(結論)威厳と栄光に輝く勝利者なる主が、共にいて、私たちにも勝利を与えて下さいます。「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」と証しさせていただこうではありませんか。