神の選び

礼拝説教「神の選び」2020年11月1日 動画はこちら

聖書 詩篇78篇56~72節

(序)本日も詩篇78篇からお話いたします。

一、イスラエルの犯した罪に対する神の怒り

再び56~58節に、主なる神に対してイスラエルが犯した罪が列挙されています。まず、56節に、「それなのに」とあります。それは、52~55節に記された主なる神のイスラエルに対する恵み深い御業を示しています。56節、主なる神の恵み深い御業にもかかわらず、イスラエルは、「いと高き神を試み、神に逆らい、神のさとしを守らなかった」と言うのです。

57節には、裏切りの罪が指摘されています。57節に「たるんだ弓の矢のように」とあります。他の訳には、「欺く弓で射た矢のように」とあります。たるんでしまった弓は、弓を引く者の意図に反して、とんでもない的外れの方向に飛んで行きます。そのように、罪とは、神のみ旨に対して、的外れの行いをすることです。

58節には偶像礼拝の罪が指摘されています。58節の「高き所を築いて…刻んだ像で」とは、偶像礼拝のことです。これらの神に対する不敬虔なイスラエルの罪のゆえに、主なる神は、「怒りを引き起こし、…妬みを引き起こし、…激しく怒り」というのです。それゆえ、主なる神は、「イスラエルを全く捨て、…シロの御住まい…その幕屋を見放し、御力をとりこに、御栄を敵の手に、ゆだねられた」(59~61節)と言うのです。シロはかつて神の幕屋があり、そこで礼拝が行われていた所です。サムエルの少年時代、祭司エリの息子たちの罪のゆえに、ペリシテに敗れ、祭司エリの息子たちは戦死し、神の契約の箱を奪われるという事件が起こります(サムエル記上4章)。

二、シオンの山とダビデの選び

 68節からは、主なる神が、シオンの山、すなわちエルサレムを選び、また王として、ユダ部族のダビデを選ばれた事について述べています。

70節に「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し」とあります。Ⅰサムエル記16章を見ると、主の御声に従わなかった初代の王サウルに代わってダビデが王として選ばれた経緯が書かれています。サムエルは、主なる神の御声に従い、新しい王を選んで任職の油を注ぐために、ベツレヘムのエッサイのところに出かけます。サムエルは、エッサイの長男エリアブを見て、この若者が選ばれた人だと思いましたが、神様は、「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われます。エッサイは、7人の息子をサムエルの前に連れて来ますが、7人とも、主には選ばれていませんでした。サムエルが、「子どもたちはこれで全部ですか?」と尋ね、エッサイが「まだ末の子が残っています。あれは今羊の番をしています」と答えます。そして、ダビデが王として神に選ばれます。まさに詩篇78篇70節に歌われているように、「羊のおりから彼を召し、…乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた」のです。

72節には、ダビデのことが「彼は、正しいい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた」と証しされています。

三、神の選び

 最後に私たち一人ひとりを選んでくださった神の選びについてお話したいと思います。

ローマ書9章21節~24節を御覧下さい。ここに、神が「あわれみの器」として、私たちを選び、ご自身の栄光の富を知らせてくださったことが記されています。私たちは、かつては、「怒りの器」であり、滅ぼされて当然のものでした。だだ、神のあわれみのゆえに、選ばれ、救われ、神の傑作品とし、ご自身の臨在の栄光で満たすために、「きよめられたあわれみの器」として造り変えようとしていてくださるのです。

エレミヤ18章を見ますと、陶器師がろくろで器を作っている様子をエレミヤが見ている場面が描かれています。陶器師の手の中にある「仕損じた器」は、原形をとどめないほどに壊れています。陶器師はその粘土をもう一度手に取り、ロクロに乗せ、思いどおりの器に形づくったのでした。粘土は、同じその陶器師の手の中に再び握られたのです。そして、あれよあれよと言う間に、全く違った器に作り上げられたのです。チョット補修した程度の事ではありません。全く新しい器とされたのです。これは、まさに「あわれみの器」と言って良いでしょう。

これは、知人の方からお伺いした話ですが、人間国宝にまでなられた備前焼のある作家の方をお訪ねし、伺ったそうです。その作家は、「一度仕損じた土は使えません」と言われたそうです。「なるほどな」と思いました。しかし、皆さん、神様は、こんなにも度々失敗に失敗を重ねるような者でも、見捨てないで、「あなたがたはわたしの手のうちにある」と仰ってくださるのです。「滅ぼされるべき怒りの器」であり、選ばれる何の理由もない私たちを、神様は、ただあわれみのゆえに選んでくださったのです。

(結論)この神様の選びの恩寵を感謝し、どんな時にも信仰を捨てることなく、主に従って参りましょう。