本日の講壇201761

 

聖書箇所 ヨハネの福音書8章1~11節

説教題 『罪のない人はいますか』

■序論

聖書を読む際に誰かを裁く思いで読んでいないだろうか。聖書のみことばはまず私自身に語られていることを覚えよう。みことばを通して光を受けよう。

 

1、姦淫の現場で捕まえられる女(1~5節)

仮庵の祭りの後、イエス様がエルサレムの神殿で人々に教えている時に、一人の女性が連れて来られた。律法学者、パリサイ人らによって公衆の面前に引き出されたのは姦淫の現場で捕えられた女性である。姦淫の現場で取り押さえられた者は、石打ちにされると定められている(申命記222324。しかし、本来姦淫の罪は男女ともに同罪である。彼らが女性だけ連れて来たのはイエス様を試すためである。女性をだけを断罪することもまた律法違反である。誰かの罪を告発したとしても、自分の罪は誤魔化されないことを覚えよう。

 

2、自分の罪を覚えて立ち去る人たち(6~9節)

イエス様は律法学者たちの目的を百も承知だった。イエス様が女性の処遇についてどう答えても、彼らはイエス様を告発できると考えていた。しかし、イエス様は身をかがめて指で地面に何かを書いておられた。返事をせかす彼らに対して、イエス様は彼らの想定外のことを言われた。神の前に「罪のない者」などはひとりもいない。心の中まですべてお見通しのイエス様の前に、誰もが自分の罪を認めざるを得なかった。年長者からその場を去り、イエス様だけが残った。自分の罪を棚に上げず、イエス様に罪の赦しを求めよう。

 

3、罪の赦しを宣言するイエス様(10~11節)

女性を連れて来た律法学者たちもその場を去っていた。イエス様は女性に語りかけ、彼女もまた心を開いた様子である。罪のない神の御子イエス様は、人を罪に定めることも、人の罪を赦すこともできるお方である。イエス様は彼女を「罪に定めない」と言われた。これは彼女の罪をあしらったのではなく、イエス様が彼女の罪の代価を払う宣言である。つまり、イエス様は十字架によって、全人類の全ての罪を背負うことを意味している。罪人を救うために招いておられるイエス様を信じ、心から感謝しよう(マルコ217

 

■結論

神は聖書を通して、私達が罪を認め、イエス様を求めるように招いておられる。すべての罪を十字架で負い、洗いきよめて下さったイエス様を仰ごう。


聖書 ヨハネの福音書8章1~11節

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。

8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。
民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。

8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、
姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、

8:4 イエスに言った。
「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。
ところで、あなたは何と言われますか。」

8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、
イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、
最初に彼女に石を投げなさい。」

8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、
イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。
あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

8:11 彼女は言った。「だれもいません。」
そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕