2018.8.19.
のメッセージ
聖書箇所 ヨハネの福音書11章33~44節
■序論: この箇所はラザロがよみがえったときのことが書かれています。マルタもマリヤもイエス様が早く来て下されば、と願っていましたが、ラザロが亡くなった後、イエス様は到着しました。一見絶望的な状況ですが、この時イエス様は、神の子救い主である証拠としてのしるし(きせき)を行われました。
イエス・キリストは、今も生きておられ、全てのことを支配しておられる御方です。自分でどうすることもできない問題に直面したとき、私たちの信仰者としての真の姿が問われます。
■本論
1、見ないで信じる
わたしたちの信仰は、まだ現実に至っていないことでも、神の御心ならば必ず成る、と見ないで信じることが信仰です。ノアは、雨が降らない状態でも箱船を造り始めました。大雨が降り洪水になったのを見てから造りはじめたのではありません。ノアは神のことばを信じていました(ヘブル11:7)
2、期待して信じる
わたしたちは神の御業に期待しているでしょうか。祈りつつ待ち望んでも、半ばあきらめていることはないでしょうか。アブラハムは神の約束を信じました(ローマ4:18)。神のことばに期待して、信じていました。神は、全知全能なる御方、人知をはるかに超えるかたちで私たちの祈りに答えられる力ある方であることを信じましょう。
3、最善を信じる
私たちは、祈りの答えを頂いたとき、もしくは、現状が自分の願っていたことと異なっているときも、それが主の最善であるという信仰に立っているでしょうか。神さまのなさることは時にかなって美しく(伝道者の書3章)、最善です。すべてのことを働かせて益としてくださることを信じましょう(創世記50:20)
■結論
イエス様は最初から御自身がしようとしていることをご存知でした。しかし、私たちには神の計画がすべて明かにされてはいません。試練や困難に直面したとき、「神の栄光が現れる」と信じて祈り待ち望みましょう。