いのちの流れ

民数記 第11章24-30節  使徒言行録 第2章1-21節  ヨハネ 第7章37-39節

 かつて、モーセが、自分と共に歩む七十人の長老たちに聖霊を授けましたときに、「聖霊は、あなた一人だけに与えられるべきではないか。七十人もの者たちに分け与えたならば、あなたの預言者としての位置が危うくなるのではないか」と訝しんだ者たちに向かって、モーセは、こうハッキリと言いました。

 主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ(民数記 第11章29節)。

 そう、神の霊を受けた者は、ほんとうは、みな預言者(=神から託された御言葉を預かる者)とされるのです。それまでは、主の霊というのはもっぱら、限られた人だけに与えられるものでした。そう、この日までは――。しかし、この日から神のご計画が変わったのです。モーセが願い続けてきたことが、ついに現実となった…それが、ペンテコステ(=主イエスの復活から五十日)です。二千年前のあの日、聖霊が訪れ、皆が預言を、説教を始めたのです。主イエスに命じられたようにエルサレムに留まり続けていた弟子たち。そこに、突然、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、………炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。するとみんなが、聖霊(=風・息・炎)に満たされ、新しいこころをいただいて、一人ひとり、それぞれの新しいことばで語り出したのです(使徒言行録第2章2-4節)。

 けれどもまた、聖霊というのは、このように激しい現象を伴うものとしてだけ、いつも語られているわけではありません。主イエスの母・マリアがキリストをその胎に宿したのは、密やかに行われた聖霊のわざでした。また、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった直後には、聖霊は音も無く、鳩のようにこの方の上に降りました(ルカ第1章26節以下、ルカ第3章21節以下)。

 聖霊は、しばしば人格的にも表現されます。福音書記者ヨハネは、聖霊を〈弁護者〉と呼んでいます。一人ひとりの罪を赦し、包み、たった独りで戦わなければならないような裁きのときに、絶対の味方として傍らに立ち、弁護してくださるお方です(ヨハネ第14章25節以下)。あの使徒パウロも、祈ることのできない私たちを助け、共に祈り・言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるお方として、聖霊を捉えています(ローマの信徒への手紙 第8章26節)。どちらも、私たちの内側に住み、私たちの罪の弁護者、とりなし人として、一緒に生きていてくださるお方、どちらのイメージもとても人格的です。このように聖霊についての聖書の表現は実に多様。それほど、ずばりひとことで言えないものだということです。

 そこで、今日、キリストは、その聖霊のイメージを、〈生ける水〉と、その〈流れ〉のイメージに重ね合わせておっしゃいました(ヨハネ 第7章37-39節)。たいへん珍しいことに、立ち上がって、しかも大声で――。

 「渇いている人は誰でも…誰でもわたしのところに来なさい。そして惜しみなく飲んだらいい わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 〈人間関係〉という言葉をわたしたちはしばしば使います。人間関係も、「交流」という言葉が表すように、一つの流れです。〈こころからこころへの流れ〉です。こころが通じ合う関係には、その間に静かに流れるものがあり、ギクシャクした関係では、その流れが澱んでしまう。人と人とが、信頼し合い、認め合い、必要とし合っているとき、こころには清々しく、何とも言えない流れがあります。しかし、傷つけ、拒み、罵り、関係が挫折したとき、流れはいきなりせき止められます。

 人間関係が挫折したとき、人はなぜ苦しむのでしょうか――。わたしは、苦しみというのもまた、ひとつのエネルギーだと思う。本来流れるべきエネルギーが、こころからこころに〈流れる〉ことができずに、鬱屈してしまって、自分の中で逆流する――。それが人間関係の苦しみです。それが、悲しみや、怒りや、悔しさや、妬みや、苛立ちや――相手を否定しようとする感情として、こころに渦巻いてしまうのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 主のみ名によって二人または三人が集うところ、そこにはキリストがおられるのですから、おのずと暖かく、確かな〈キリストの愛による流れ〉が生じ、互いのこころが和らぐのは自然です。しかしそこに、罪が忍び込んでその場を仕切り、その流れを淀ませ、逆流させようとする。そうすると人間関係は苦しみに満ちたものになります。愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん神は、私たちに、主キリストの愛に基づく、互いの〈こころからこころへの〉人格的な交流を求めておられます。

 「水に流す」という言葉があります。人間関係がこじれたとき、私たちはどうしても「白か黒か」決着をつけなければならないと思い込んでしまいがちです。昔、日本の川は、短くて流れが速く、そのまま自然の浄化槽でした。清濁併せ呑みながら、汚れることのない清流。汚い物も、水に流せば少しずつ分解され、浄化される。それが数十年前までの日本の川でした。そういうところから、「水に流そう」という発想も生まれてきたのでしょう。優れた知恵であったと思います。

 短くて速い流れではありませんが、着実に流れてゆき、一瞬も堰止められることのない時の流れと共に、というよりその時の流れの中に滲み込むようにして、キリストの愛が、とうとうと流れています。私たちはその流れの中、生けるいのちの流れのただ中に生かされています。だから、こだわりや思い煩いは、その都度、主キリストの愛の流れの中に託し、再び、繰り返し 繰り返し新たに生ける水を飲たっぷり飲ませていただいて、このお方に身をゆだねて生きてゆくのが、相応しいし、それがゆるされています。

 主は言われました。「今日一日の苦労は今日一日で十分だ… 明日のことは明日自らが思い煩う」。今日のことは今日水に流し、明日のことは明日水に流す。ただ無理やり忘れるとか、なかったことにする、自らを省みることをしない、などというのでは決してない。そうではなくて、聖霊の流れに託すのです。聖霊の流れの中に流すのです この流れがあれば、必ずこころは暖まり、流れが止まればこころは冷えます。生ける水と共にこころが流通するところで人は和み、それが遮られるところで、人は憎み合うのです。

 使徒言行録によれば、聖霊に満たされた弟子たちは、いろんな国の言葉で、新たに語り始めました。それは、国籍や人種を超え、立場を超え、あらゆる隔ての壁を突き破って こころにキリストの愛による流れが生じたことの、確かな証しであったのです。

 それ以降今日まで、約二千年――。教会も決して順風満帆ではありませんでした。人の集まるところは人の世です。問題も生まれ、住みにくさも生まれます。けれども、キリストは、ご自身の愛を人びとに伝え、この私を聖霊に目覚めさせるために、教会を必要とされたのです。私たちの内にいのちの流れをもたらす神の言葉はまず、この神戸教会において、主イエスの言葉を通してあなたに告げられるのです。主イエスは、私たちのところに来てくださった そして、たとえ時が良くても悪くても、キリストは教会を必要とされているのです。ここが、御言葉が伝えられるために、最初に神が選ばれた場所だからです

 神の聖霊はペンテコステの弟子たちに注ぎ、最初期の教会を通して生ける水の大きな流れとなって、私たちのこの小さな教会にも流れ、そして今、わたくしたちひとり、ひとりの上に注がれ、骨に力を与え、魂を潤します。私たちも、新鮮な思いで、その流れに浴しましょう。