こだまする主の御声

創世記第1章1節-第2章4a   Ⅱコリント第13章11-13   マタイ第28章16-20 

 福音書記者マタイは、自らの長い福音書を閉じるにあたり、主イエスご自身の言葉を記しました。

 あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる――。(第28章18-20節)

 とても興味深い。マタイによる福音書はおよみがえりの主イエスの言葉を書くことで筆を擱いたのです。主イエスは今も生きておられる。私たちと共におられる。それをどのような形で文章にしたらよいか。そこでマタイによる福音書を記した人は、主イエスの〈肉声〉で終わらせた。聖書を閉じてもなお 声が響く。主イエスの言葉が、残響を続ける、こだまを続けるのです。いつもあなたがたと共にいる――。

 「世の終わりまで」。「この世界に何か起こっても、あなたに何が起こっても、わたしは、あなたと共にいる…」。そして、その、響きを、主イエスの声を耳に、焼きつけながら耳の中で幾度も繰り返しながら、あるいは事によりますと、“そうだ…主イエスは私たちと共にいる…” そういうふうに繰り返しながら、弟子たちは、「あなたがたは行って…」と、言われたように、出かけて行ったのです。

 最初、11人の弟子たちの中には、「しかし、疑う者もいた」(16-17節)とある。ここは、「皆が疑った」と訳すことが相応しいと言われます。しかも、ここで“疑う”と訳されているのは、この福音書の第14章において使われている主イエスの言葉と同じです。ペトロが、ガリラヤの湖の水の上を歩いた。その時に、同じ水を歩いておられる、水の上に立っておられる主イエスを見ている間は、ちゃんと歩けたのだけれども、激しく吹きまくっている風、揺れ動いている波を見たときに、ペトロは溺れそうになった。主イエスはその時、おっしゃった。信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか…(第14章31節)

 このとき用いられた“疑い”という言葉を、ここでもう一度使っている。マタイ福音書ではこの二度だけです。なぜか。めったに使えない強い意味の言葉だからです(原意は「こころが二つに分かれる」)。

 ペトロは、主イエスだけを見ていれば良かったのですけれども、風や波の方にこころが動いてしまい、こころがバラバラになってしまった。一筋に主イエスだけを見つめていることができなかった――。その意味から申しますと、“疑い”というのは、ただ知識のうえでそんなことあるとは思えない、というようなことではない。少なくとも主イエスのおよみがえりについてそうです。これはむしろ信頼の問題だと言ってよい。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん およみがえりになった主イエスをじぃっと見つめて生きている人間に、主イエスのおよみがえり、キリストのよみがえりを疑う余地は、生まれて来ません。けれども、たとえ一瞬でも、ほんの一時であったとしても、ほかのものを見てしまうなら、“イエス様もいいのだけれども、それだけではどうも心もとない”などと考え始めてしまう。

 疑いを抱く者がいる、その、弟子たちの仲間に――いいえ、むしろ11人全員が疑っているその只中に――主ご自身イエスの方から近づいて来られた。「なぜ疑うのか…こっちに来い…」というのではなくて、溺れかかっているペトロをお叱りになりながらも、ペトロに、近づいてすぐさま、シッカリと御手を差し伸べ、引きあげてくださったように ここでも、主イエスは近づいて来られる。そして、まるで、弟子たちのこころに生まれた、疑いを、覆い隠してしまうように、いや、吹き飛ばしてしまうかのように、主イエスはここでまことに、力に溢れた御言葉を、お語りになりました。あなたがたは行くのだ… と。復活なさったとき、天使の口を通して、またご自身が念を押すようにして“わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい…(第28章10節)。そうおっしゃった主イエスが、よみがえったわたしと共に、しばらくガリラヤの春を楽しもう、などということではなくて、今度は、

 行け…あなたがたはここから、行きなさい。すべての国民を弟子とするために、すべての国民のところに行くのだ。世界中に行くのだ。そして、わたしが教えたことを、どの国の人でも、守り、生きて行くことができるように、その人びとに、バプテスマ――洗礼を施すのだ。わたしのよみがえりの命を注ぐのだ。あなたがたが、洗礼を施すとき、わたしの、よみがえりの命が、それらの人びとにも与えられるのだ。

 そして、「すべての国民を弟子としなさい」という言葉は、「すべての国民を兄弟とするのだ」と言ってよい言葉です。第28章10節のところで、主イエスがマグダラのマリアともうひとりのマリアに「わたしの兄弟たちに告げなさい」おっしゃったのと同じように。

 マタイによる福音書はこれまで、ずっと「弟子たち」、「弟子たち」と語ってきたのです。ところがここ(第28章10節)では、およみがえりになった主イエスが、「わたしの弟子たちにこう言いなさい」と、おっしゃったのではなくて、「わたしの兄弟たちに」こう告げなさい、とおっしゃったと、書いてあるのです。何でもないことかもしれませんけれども、これはしかし実に意義深いことだとわたしは思うのです。弟子たちのことをここで、主イエスははじめてはっきり「わたしの兄弟」とお呼びになった――。

 そういう意味では、終わりの19節の、「すべての国民をわたしの弟子にしなさい」という主イエスのご命令は、むしろ、「兄」という言葉をとって、「行って、わたしの弟として…」と、おっしゃったのだと訳したほうがよいかもしれません。ヘブライ人への手紙では、「主イエスは、わたしたちの長兄、いちばん上の兄だ」、とそういうふうに書いています(第2章11節)。そうなのです。主イエスが、およみがえりになって、そしてその主イエスのおよみがえりの命に、私たちが皆、生きることができるようになったとき、私たちは、主イエスの、弟になる。妹になる。主イエスの、家族になる――。それが明らかにされる。

 どの国の者も、どんな境遇の人も、わたしの兄弟になる。姉妹となる。信仰のきょうだいです。そしてそれらの人びとがさらに、地の果てにまで行って、主の御言葉を宣べ伝えることができるようになる。わたしの祝福の届かない場所はないのだから…

 そして、それらの人びとのあるところ、見よ、世の終わりまでいつも、共にいる――。

“ あなたがた”と言われた時に、もちろん、この弟子たちだけではない。皆さんと共に、主イエスはおられる。私たちと共に、この私と共に主はおられる。「世の終わりまで」です。私の地上の生涯が終わった時に、主イエスが“はい、さようなら”と言って、別れて別の方と共にいてくださるわけではない。誰とでも、「世の、終わりまで」。私たちが遣わされてゆくところ、あなたが、今、生き、生かされ、置かれ、派遣されているところどこででも、そして、私どもの、死を超えてでも、確かに共にいてくださる。――主イエスの御言葉というのは、そういうふうに、今、私どもを“生かす”命として、語り継がれているものであり、世の終わりまで語り続けられるものであると、わたしは確信しています。