この人を見よ

イザヤ第44章6-8節 ローマ第8章12-25節 マタイ第13章24節-30節、36-43節

 今朝の主イエスによる譬え話、ここでひとつ私どもが、決して読み落としてはならないのは、「天の国は次のようにたとえられる」(24節)という言葉です。そう、これは「天の国の譬え」なのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さんこれは、天の国の譬えなのです。言い換えれば、神が支配し、生きておられる、その姿が、このように描かれている、ということなのです。ただ、この世界(=畑/38節)の実情を、淡々と描いただけの話ではない。最後の刈り入れの時まで、地上に悪(=毒麦)が絶えることはない。その世の中の現実を、現実として冷静に受けとめよう、と――確かに一面では、そのようにこの譬えを読むことができるかもしれません。現に、そういうところで冷静になれない人間は、むしろそういう人こそが最も、大きな過ちを犯す。熱狂主義者とでもいうべき人たちが、自分たちの独善的な理想に燃えて、正義の実現のためならば暴力をも辞さないと、過激な行動に出たりします。そういうことを主イエスは戒めておられるのだ。だから、自分で遮二無二、毒麦を抜こうとするな、と。

 しかもこういうことは私どもの毎日の生活でいつも問われることで、主イエスは既にあの山上の説教において、“人を裁くな”と、言われました(第7章1節)。“毒麦を裁くな”と、いうことです。“悪人に手向かってはならない。右の頬を打たれたら、左の頬をも向けよ”(第5章39節)と、そこまで言われたのです。それと同じことをここでも語っておられるのだと読むのもまた、一面では、正しいであろうと思います。

 以前用いられていた口語訳聖書は、24節を、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである」と訳しました。原文のギリシア語でさらにそのことがハッキリします。まず文頭に、「天の国は、人に譬えられる」とある。その人が何をするかというと、「良い種を畑に蒔いた」。「天の国は、この人に譬えられる」と、そう言うのです。この物語全体この情景全体が神の国の譬えであるというよりもむしろ、このひとりの人、良い種を蒔いた人、そして、毒麦を抜くことを、厳しく、禁じられた人――。

 そうなのです 私どもの信仰というのは、その意味では、たいへん、単純なものです。この人を見よ…すなわち、神は生きておられる そのことを信じるのです。主イエス・キリストが、真実の支配者でいてくださる、この人を見よ…そのことを、どんなときにも信じ抜くのです。

 そのときに私どもは、繰り返し学び直さなければならないのです。この神はいったい、いかなる支配をなさる方なのか。“良い麦も毒麦も、育つままにしておきなさい――”。そんなことを言われる神を、ほんとうに信頼することができるのか。今私どもはいかなる神を信じ、いかなる神を礼拝しているのでしょうか。

 そこで、今日、主イエスの語られた、毒麦の譬えを理解するために、どうしても、創世記第18章、第19章の記事を、わたくしの信じるところに従って、繙きたいのです。

 ソドムと、ゴモラという、たいへん豊かで繁栄した、それだけに、罪深くなってしまったふたつの町が、ついに神の手によって焼き滅ぼされてしまったという、たいへん厳しい出来事が、第19章まで読み進めると描かれます。そして、その前の、第18章23節以下で、アブラハムという人が、まるで神の前に立ちはだかるようにして、ひとつの交渉をするのです。その交渉というのは要するに、“神よ、あなたはほんとうに良い麦を、毒麦と一緒に焼いてしまわれるのですか。そんなはずはないでしょう…!?” という話なのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん…アブラハムの言うとおり、神は正しいお方です。正しい者を正しくない者と一緒に滅ぼすような、そんな雑なことをなさるお方では断じてありません。ここで、興味深いのは、なお、さらに、アブラハムは、神に対してその人数を、値切ってゆくのです(第18章27節以下)。

 主の答えは、明確でした。わたしは、わたしの正義を最後まで貫く――。10人の正しい人がいたら、わたしはその10人のために、この町全体を赦す。(最終的には、結局正しい者が、10人に満たなかったのだけれども)――そう、言われたのです。私どもは、この、神を、信じているのです。この、神が、今も生きて支配しておられることを、信じているのです。それは今私どもにとって、何を意味するのでしょうか。

 ――他方、主イエスのたとえ話においては、主人は、こう言いました。“そのままにしておきなさい”。何故でしょうか。“毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない”。

 この譬え話から、ある教訓を引き出すことができるとするならば、お互い寛容になりましょうとか、我々の性急な判断はしばしば間違うから気をつけようとか――それがたとえば、えん罪の問題、死刑廃止論、宗教間対話などへも繋がるかもしれません。一つひとつ、もっともなことです。

 実際に教会の歴史を振り返ってみても、キリスト教会自身が、この毒麦の譬えを見事に読み忘れたために、どんなに深刻な間違いを犯し続けたか、よくわかります。中世の十字軍も、ユダヤ人迫害も、あるいは、宗教裁判も――しかしそういうことが起こるのも、私ども一人ひとりがそういう過ちを犯しやすい、人間だからでしかないのです。“あっ、毒麦だ…引っこ抜け”と、言ったときに、私どもは実にしばしば、神が、大事にしておられる、良い麦を、傷つけてしまっているものだと思います。

 しかしそこで求められるのは、ただ我慢したり反省したり、いろんな教訓を得たりと、いうことではないので、この人を、このお方のご支配を見よ 毒麦を抜いてはならない… わたしは一本たりとも良い麦を失いたくはないのだ――。そう、言われた、主のご支配の姿を、ひたすらじっと見つめるときに、そこにどんなに深い神の忍耐があり、実は私ども一人ひとりが既に、その神の愛と深く結びつく神の忍耐のゆえに、今ここに生かされている、そのことに、こころを開かれていくと信じます。

 先ほど紹介した創世記の、ソドムとゴモラの出来事の厳しい結末を、後のキリストの教会は、まったく新しい想いで、聴き取り直すようになりました。何故この世界は今、この町はまだ、神の火によって、焼き滅ぼされていないのか――。我々はどうなのか、と。10人の正しい人が、いたからか。いや10人どころじゃない。ただ一人の正しい人、主イエス・キリストが、我々のために十字架の上で執り成してくださったから、今私どもも滅ぼされずに済んでいるし、今我々が安んじて神の前に立ち礼拝に与っているのも、この、ひとりの人がいてくださったからでしかないのです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第5章に、こう書きました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は、わたしたちに対する愛を示されました」(8節)。

 「まだ罪人であったとき」。しかし、まさにだからこそ、神の愛が示された。神の愛とひとつになるような、神の忍耐が、毒麦を良い麦に変えてくださったことを、それを、このわたしに起こった事実として、私どもは信じているのです。そしてその事実を知るときに、私どもも、まさにこのたとえ話に出てくる、主人の僕たちのように、この主人のもとで、忍耐を学んでいくのです。隣人のためにも――自分が忍耐するっていうんじゃない。神の忍耐を、神の愛を、伝え続けていくのです。この神のご支配のもとで、造られていく、私ども一人ひとりの生活であります。この教会の、奉仕の生活、伝道の生活すべてが、この神の忍耐、この天の国・神の支配の中で、造られてゆくものなのです。