キリストがここにいる

エゼキエル第33章7-11節  ローマ第13章8-14節  マタイ第18章15-20節

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん 教会とは、キリスト者の共同体であり、信仰も個人の信仰というにとどまらず、教会の信仰であることを、私どもは知っています。そして今日、主は、弟子たち、わたしたちにとって、互いが必要であることを教えておられます。それは、罪を犯した者がいれば、まず、二人きりになって忠告し(15節)何とかして共にいる努力を積み重ねてゆく――そのように主イエスが結びつけてくださった、血縁・地縁・学縁・社縁・趣縁――この世的なあらゆる関係を超えた、神の家族に属している信仰共同体であることを、絶えず想い起こさせるためです。ここに、教会がある。

 はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求める(=共に響き合う/「シンフォニー」という言葉の語源)なら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人、また三人がわたしの名によって集うところには、わたしもその中(=真ん中)にいる…

 「心を一つにする」。私たちは皆、それぞれ違う人間です。それぞれの個性があり、それぞれの価値基準、意見があるでしょう。それは、ちょうど、オーケストラのようです。バイオリンをもっている者がおり、フルート、トロンボーン、ホルン、ティンファニー…そうしながら、それぞれがパートごとに違う楽器を鳴らし始める。その、違う中でこころをひとつにする(小さな交響曲・シンフォニーを奏でる)のです みんなで互いの響きを聞きあいながら一つにしてゆく。真ん中におられる主イエスの声を聴き、このお方を仰ぎ、従いながら一つの曲を奏でて歩んで行く――。ここに、教会がある。

「 どんな願い事であれ」。けれど、ある人の願い事は、この人の願い事ではない可能性がある。あの人の願い事は、この人にとっては迷惑なことだってあり得ます。そのときに、不協和音を鳴らし始めるのではなく、どうやってシンフォニーを奏でていったらよいか――。主イエスはこの前に、こうおっしゃいました。

 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐ(=鎖で縛りつける)ことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解く(=その鎖を断ち切る)ことは、天上でも解かれる(18節)。

 「つなぐ」「解く」という表現をもって、主イエスはここで、「一度犯した罪に、相手を縛りつけるな」「もうあなたは罪に縛りつけられていない…」と告げて、その鎖を断ち切ってあげなさいとおっしゃっている。私たちは、語るときにも、行うときにも、何をするときにも、相手を“解き放つようにして”生きてゆくのです。

 英語独特の言い回しに、こういうものがあります。“人間にとっていちばん親切なことは、相手が上品にふるまえるようにふるまってあげることだ――”。日本語ではなかなか聞かない表現かもしれません。

 “ハッ”と思います。この人の前に出ると、なんだか、ほんとうに自分がすばらしい人間であるかのように思える。しかし、残念なことですけれども、あの人の前では、何で自分はこんなに醜い・嫌な自分になってしまうんだろう――ということはありませんか。相手が上品にふるまえるようにふるまってあげることこそ最大の親切であるというのに、私たちは時に逆のことをしてしまうことが。自分の存在そのもの、また言葉そのものが、相手を罪に、鎖によってつなぎとめてしまい、相手がどんどん下品になっていくのです。

 私どもにとって、“罪をゆるす”というのは実に難しい。――そして、時に私たちは、特定の人間を、どうあってもゆるすことができない、と居直ってしまうことがあります。あるいは、親を、友を、家族を、共に生きる者を、ゆるさないままでいることが。なぜ、私たちはゆるせないのか――。そうすることが、相手に対するささやかな、しかしもっとも根深い復讐だからです。

 『わたしの出会った子どもたち』(灰谷健次郎)という小さな本の中に紹介されている、「チューインガムひとつ」という詩があります。あまりに鮮烈で、教員を目指していた学生時代に読んで以来、忘れられないのです。――小学校3年生の、やすこちゃんが、あるとき母親に引きずられるようにして職員室にやって来る。泣きぬれていた、やすこちゃんが、小さな紙を灰谷先生に出す。「チューインガムひとつ、取ってしまいました…もうしません」。ところがそのとき、灰谷先生はやすこちゃんにこう言います。

 やすこちゃん、先生は、やすこちゃんがしたことをゆるしてあげることはできません。それは、先生がすることじゃない。駄菓子屋さんのおばさんのところに謝りに行くかもしれないけれども、おばさんにゆるすこともできません。人は、犯した罪を一生担い続ける。それが、人生のすべてだと思う。ときどき、子どもは、悪いことをすると、いっぱい大人に叱られます。そうしてこどもはいっぱい泣く。けれどもそれが終わると、ブランコに前より元気になって乗っている。けれどもそれは、嘘じゃないか――。やすこちゃん…そこのところをじぃっと、考えて、よく考えてみてください。

 わたしは、“何と厳しい先生か… ”と思う。けれども、“ここに真実がある”とも思う。灰谷先生はやすこちゃんに“もう一度よく考えて文章を書いてごらん”と言うのです。そしてやすこちゃんは40行50行、自分がしたことを「チューインガムひとつ」という詩に書き始める。そのときのことを灰谷先生はこう言う。“1行書いては泣き、1行書いてはまた泣く…。書く時間よりも泣いている時間のほうがずっと長かった。そこで普通だったら言葉のやり取りがあると思うだろうけれども、何のやり取りもない。やすこちゃんはつらかった。けれど、ぼくもつらかった――”。“共に涙を流しながら、やすこちゃんはしっかりとそれを受けとめた。この作品が生まれるまでに、彼女はどれほどひどい血だらけの格闘をしたことだろう。それは同時に、ぼくが血だらけになるということでもあるわけです”。

 血だらけになって、まだ10歳にもならない少女が一所懸命、泣きながら泣きながら書く――。灰谷先生は、やすこちゃんに罪を見つめさせ、その小さなこどもをずっと見つめ続けながら、自分もまた中年の教師になる前にどんなことがあったか、犯してきた様々な過ちを思い起こして、延々と一緒に泣く――。

 自分の罪を、血を流すほどまでに見つめて格闘する。それは、もしかするとこどもだけにできる、大きな力かもしれない。けれど、この、やすこちゃんが、ずっとその文章を書き続けられたのは灰谷先生がいてくれたからです。独りだったら怖くてとてもそんなことはできない。けれども、ほんとうにその自分をゆるしてくれる者がいる。そしてまた、その罪を深く知っていてくれる者が、共に座っている――。

 私たちもまた、自らの罪、過ちをすっかり忘れ、なかったこと・帳消しにすることはできません。けれども、そのうえでわたしは申し上げたい。主イエス・キリストを見つめよう 本来、私たちが流すべき血を主イエスが流してくださって、私どもの、あの、過ちを、この、過ちを担っていてくださる。私どもが気づかぬところで犯しているあの過ち、この過ちを担っていてくださる――主イエス・キリストが、あなたのために死んでくださった そして、復活してくださった それこそが真実なこと、ほんとうのことです。主イエス・キリストは、どんなに深い罪をも救ってくださった、ゆるしてくださったお方として私どもの隣にいてくださる――。そして、私どもはそのことを共に告げ合い、互いに解き放ちながら生きるのです。ここに、教会がある。

 主は言われます。二人または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもその真ん中にいる。