今ここに、復活のいのちが

エゼキエル第37章1-14節   ローマ第8章6-11節   ヨハネ第11章1-45節(17-44節)

 ラザロという、ひとりの男の葬儀の席における、主イエス・キリストのことばを今、ご一緒に聴きました。主イエス・キリストが、復活そのもののお方として、葬儀の真ん中に立っていてくださって、おっしゃる。

 わたしは復活であり命である――。もっとはっきり訳せば、「わたしが」復活だ。「わたしが」命だ。ここにいる… そして、その主イエスを囲みながら私たちは、葬儀の席でも、礼拝にあずかるのです。福音の日課の初めには、「さて、イエスが行ってご覧になると」とある(17節)。ここをギリシャ語どおり素直に訳すとこうなります。「行って、イエスは見た、彼を」。主イエスが行って、見られたのです。ラザロを――。

 けれども不思議です。このとき主イエスはまだ、村の外にいるのです。なのに、どうしてラザロを見ることができるのだろうか。あるいは墓の近くに行っても、墓穴は大きな石で閉じられていて、彼を直接見ることができるわけではない。そこで新共同訳聖書はその不思議さを打ち消すために、「行ってご覧になると、ラザロが墓に葬られてすでに四日も経っていた」と意訳したのでしょう。けれども、わたしは、そのギリシャ語の語順通りに訳してもよいと思う。それは事実とは異なるかもしれません。〈信仰のこころ〉がしかしそこにハッキリとあらわれている 主イエスはご覧くださるのです。ラザロの“死”そのものを――。どんなに遠くからであっても、私どもに愛しい、死者たちをご覧くださる、まなざしを注ぎ続けてくださるのです。

 主イエスはこの後、「涙を流された」とあります(35節)。ご自分は復活の命を得、ラザロは死ぬ。それは人間として当然のことだと主はお考えにならない。33節に、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります(原意「馬が激しく興奮して鼻を鳴らす」)。主イエスの喉が鳴ったか鼻が鳴ったか、主イエスのお心が、音を立てた とても激しく、動いておられる。死を見据えながら――。何に対して憤りを覚えられたのかは記されていない。“人びとの不信仰に”というひとがいます。御自分に対する敵意を抱きながら、うろうろしていたユダヤ人が、ここでは、この姉妹を愛しているが故でしょう、もしかしたらここに主イエスを殺そうとして石に手をかけた人もいたかもしれないのですけれども、ここではしかし、マリアに深く同情しながら泣いている。御自分を無視しながら、それだけにいよいよ愚かに、死の前に立ち往生して泣いている人びとの姿に、激しい怒りを覚えられたのだ、と――。しかしそれだけではない、とわたしは思うのです。

 墓の前で、主イエスは涙を流された。それに対するユダヤ人たちの言葉は、鮮やかなひとつの証言であろうと思います。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか――」(36節)

 その通りです今日の第11章1節以下、というより、主イエスのおられるところではいつも、常に、愛の物語、出来事が起こるのです! ここでは主イエスの愛が、涙を流しています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに…(21、32節)というマルタとマリアの気持ちを、わからない方では断じてありません。それがまた、同時に憤りのこころをも呼び起こしているのだと、言うことができます。そして、これがどんなに私どもにとって、大きな慰めになることしょう。――わたしは、愛する者、愛する方々の、死の現実にぶち当って、「ああ…主イエスがここにいてくださったならばこんなに悲しみを味わわなくて済んだのに」と訴えずにおれない想いに、わたし自身も誘われながら、しかし、その愚かさの中に留まっていないで、私どもが涙に暮れている時に、主イエスが同じところで涙を流していてくださるということを、想い起こすべきであろうと思います。愛の涙です。

 そして、この涙を流しておられる主イエスの愛が、激しく興奮して、音を立てるほどに、興奮して、こころに、憤りを覚えていてくださる。このように、人びとのこころを、悲しみに引きずり込んでしまう、死に対して、憤りを覚えておられたのではないだろうか。こんなに深く、悲しみを呼び起こす程に、こころを縛りつけ、愚かにしてしまっている罪の力に対して、憤りを覚えておられたのではないだろうか――。主イエスはここでは、ただ涙に暮れている人びとを、見ておられるだけではなくて、マルタやマリアを、ここまでに追い込んでしまっている、死と罪の力と、向かい合い、戦っておられる。だから激しく興奮しておられる。そして、“ラザロよ出てこい… 死に勝利の声を上げさせないのです。“わたしが復活だ…

 これは、不思議な言葉です。こうおっしゃったのち、主イエスは、十字架へと向かうのです。「わたしが復活であり、命である」とおっしゃったお方は、死ななかった方ではないのです。あらゆる刑罰の中で、最も非道で残酷と言われる十字架刑です。そこに至る道行きも、どんなに苦悩と激痛に満ちていたことでしょう――。もしかしたら、死後、からだが傷み始めるのもラザロよりずっと早かったかもしれない。

けれども、そのお方が、復活を先取りするようにしまして、葬儀の席におられる。わたしが復活だ…

 「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」とマルタは告白しました。このあと使徒信条で告白するように、わたしたちは、私たちの死をもって終わりではないと信じています。代々の教会はそう信じてきた。からだのよみがえり、とこしえの命を信ずマルタはそのことを私どもより先に知っていました。けれど主イエスは、“知っている”というだけでは満足なさならなったようです。頭の中のことじゃない。

 永遠の命に生きる、というのは、病を、死を、一番の恐れと思い込まないということ。病より、死よりももっと強いものがあるということを確信するということです。それは、主イエス・キリストの愛です。主イエスを信じる者は、死んでも生きる 私たちの肉体はやがて死ぬでしょう。けれども主イエスとの絆は決してそれを断ち切ることはできません。「生きていてわたしを信じる者は誰も決して死ぬことはない」。そう、私たちのこのからだは死ななければなりません。けれども、命そのものである主イエスをまといながら、罪赦されて私どもはもう一度立ち上がる… そして、その命を今、すでに生きている。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん だから、私たちは、今でも、これからも、愛し続けることができる。不器用でしょう。なかなかうまく行かないでしょう。そして時に自分の殻の中に閉じこもってしまうかもしれない。しかし主イエス・キリスト、命そのもの、愛そのものである方が私もの前にいつまでも、いつまでも立っていてくださいます。私たちは暴力に怯えるでしょう。この世の暗い力に怯えて足がすくんでしまうことがあるかもしれない。けれども主イエス・キリストは繰り返し、繰り返し私たちの、名を呼び、語りかけながら、前に立ってくださる。わたしが復活だ、命だ。そこから出てこい…死の中に閉じ込められるな

 主イエスが、“わたしの復活の中で、命の中で生きてほしい”と願っていてくださる。あなたに、死んでも、決して誰も殺すことのできない命を与えよう、と言っていてくださる。私たちもマルタと、代々の教会の先達達と共に応えたい。“そうです主よ、あなたこそわたしの命そのものだ、復活そのものだ…”と。