剣を取る者は剣で滅びる

イザヤ第50章4-9a節    フィリピ第2章5-11節    マタイ第26章47-56節

「 剣を取る者は皆、剣で滅びる――」(マタイ第26章52節)。この主イエスの言葉に拠って、キリスト者が平和について考えるとき、だからわれわれの国が軍事力を持つことは間違っているのだと主張することがあります。けれどもそう言うと、そんな甘ったれたことを言っていられるのは、日本が外国の軍隊に守られているからじゃないか、と必ず反論されます。そして実は、軍隊なんて大きなことを考える必要もないので、たとえばお巡りさんはピストルを持っている。ピストルを持っているお巡りさんは、ピストルで滅びるのだろうか。まさか誰もそんなことは考えないでしょう。しかも、もしもお巡りさんがピストルを持つことをやめたら、実はいちばん困るのはわれわれ自身なので、おちおち外を歩くこともできなくなるでしょう。そうなると、やはり常識的な範囲で、剣を持つべき人は剣を持たないとだめなんじゃないか。まあこの言葉は、理想論としては結構だけれども・・・・・・というように、いくらでも議論ができそうです。

 いささか旧聞に属しますけれども、新聞にこんなことが書いてありました。ある国で、相変わらず内戦が続いている。泥沼とでも言うべき内戦が続く中で、案の定、新型コロナウイルスによる死者が出た。今後、この国はいったいどうなってしまうのだろう。せめて戦争はやめたらどうかと誰もが願うのだけれども、争っている当事者たちは、どうしてもやめられない、人間というものは、そういうものだと言うのです。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」、そうだ、主イエスのおっしゃったことは本当だと、誰もがそう思うのかもしれませんが、私どもだって追い詰められたらどんな剣を振り回すか分かりません。

 「ペンは剣よりも強し」という格言があります。この言葉を巡っても、ある人がこういうことを書いていました。「ペンは剣よりも強し」、実にその通り。しかしこの言葉は、必ずしも戦争反対とか、言論の自由とか、そういうご立派な意味で使われてきたわけではない、と。むしろどちらかと言えば多くの場合、これは言葉の力の恐ろしさを表現するもので、たとえば、無責任なマスコミの言論が、その言葉の力でどんなに深く人を傷つけることか。それが社会全体にとっても、どんなに大きな影響力を持つことか。インターネットの発達によって、その問題はますます深刻になっている、と言うのです。「ペンは剣よりも強し」、言葉というのは、実はどんな刃物よりも深く人を傷つける力を持っている。本当にそうだと思います。ことにこの数年、新型ウイルスの不安の中で、社会的な不況・混乱の中で、私どもはそのことを実感しているのではないでしょうか――。剣よりも強いのは、どんなウイルスよりも恐ろしいのは、実は人間の言葉である。

 旧約聖書の『箴言』にも、「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる。知恵ある人の舌は癒しを与える」(第12章18節/聖書協会共同訳)とあります。「あたかも剣で刺すかのように軽率に語る者がいる」。私どもも、実にしばしば、こういう意味での剣を振り回すことがあるでしょう。言っていることは正しいのです。けれどもそういう私どもの言葉の剣は、誰のことも救わないのです。私どもは、そういう悲しみを、いろんなところで経験し、よく知っているのです。けれどもそこで、ただ反省したり、弁解をしたとしても、私どもは、神の前においては、誰もが等しく、救われなければならない罪人なので、その罪人である私どもが救われる道が、もしもあるとするならば、それはいかなる救いなのだろう。誰が、わたしを救ってくださるのだろうか――。そこで聖書は、ひとりのお方の姿を指し示し、その言葉を伝えるのです。

 あなたを救うのは剣ではない。わたしがあなたを救う! これは、私どもの救い主の言葉なのです。このお方は、剣を持つことを拒否なさったがために、十字架につけられたのです

 このお方は、そのご生涯において、遂に一度も剣をお用いになりませんでした。その気になれば、いつでも天使の軍団を召喚できるだけの力を持ちながら(53節)、その力を自分の満足のためにお用いになったことは、一度もありませんでした。むしろ、「あなたの敵を愛しなさい」、「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」と教え、それをほんとうの意味で実践なさったのは、主イエスご本人であったのです。そしてそれは「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」(54節)、すなわち父なる神のみ旨に、徹底的に従われたことによるのであり、私どもを救うために、そうなさったのです。私どもは、剣を持たなかったこのお方に救われたのであって、それ以外に私どもが救われる道はどこにもなかったのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん もう一度申します。主イエス・キリストは、「あなたの敵を愛しなさい」と教えられたお方は、十字架につけられました。剣を持たなかったがゆえに――。

 私どもは、いつも、あれが足りない、これも足りない、だから神さま、わたしをこういうふうに救ってください、こうしてください、ああしてくださいと、いろんなことを願うのですが――私どもの本当の問題というのは、実はいつもたったひとつなのです。私どもが、いつも剣を握りしめているのは、それがどんな種類の剣であれ、結局私どもが愛に挫折しているということでしかない。その意味で、剣というのは、私どもが愛に挫折している、そういう意味で敗北している、その象徴でしかないのです。そのことをたとえば、『ハイデルベルク信仰問答』という信仰の書物は、その最初の第一部で、「あなたのみじめさとは何ですか」と問い、「愛することができないことです」と、たったひと言でそう答えるのです。

 愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん剣や棒を持っている人びとに取り囲まれて、たったひとり、剣を持たない神の子が立っておられます。「わたしは剣を持たずに、あなたを愛する」と、そう言ってくださったお方が。他の誰をも、何ものも、いかなる剣もわたしを救うことはありません。ただ神の御子イエスが、私どもに代わって十字架の上で死んでくださったことによって、初めて私どもの救いの道が開かれたし、その御子イエスを、父なる神が死者の中から引き上げてくださったとき、神の愛の戦いは必ず勝利に終わることを、確証してくださいました。私どもも、今は、この神の愛の勝利の中に立つのです。その望みに生きるとき、私どもも、私どもなりに、少しずつであったとしても、敗北のしるしでしかない私どもの剣を、捨てることを学んでゆくことができるでしょう。

 主イエスが予告されたとおり(第26章31節)、弟子たちは、このお方を見捨てて逃げてしまいました。ある人は言います。弟子たちの群れが散らされたとき、それはすなわち、教会が一度死んだということだ。主が捕らえられたとき、そして主が殺されたとき、教会は一度死んだ。ここに記されているのは、教会の死である。けれども、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(上記同章同節)。お甦りになった主が、もう一度教会を集めてくださる。主イエスの復活は、教会の復活でもあったと、そう言うのです。教会の存在は、ほかの誰の意志によるのでもない。ただ神のご意志によります。

 そのように、ただ神のご意志によって新しく立った弟子たちは、その後、もう二度と剣を取ることはありませんでした。そうです 教会というのは、その存在そのものが、剣をお用いにならなかった神の勝利のしるしなのです。剣の支配ではない、神の愛が勝利するのだ、と。

 私どもの物語・教会の姿が、このように描かれていることを、感謝をもって受けとめたいと思います。