呼ばれて、従う

ホセア書第5章15節-第6章6  ローマ第4章13-25  マタイ第9章9-13節、18-26

 今日の〈マタイの召命〉は、マルコ、ルカによる福音書にも、ほとんど同じような出来事として、記されています。けれども一つ、違うことは、徴税人マタイではなく、徴税人の“レビ”という、別の名前のひとが呼ばれたという話になっています。細かい議論をすべて省略して申しますと、もともとは、これは、やはりレビというひとが招かれた物語であった、そのような話として伝えられていたのだ。けれどもそれを読んだマタイが、自分の名前に書き変えてしまった、ということです

 「(徴税人の)マタイ」と出てくるのは、この第9章と、続く第10章の最初のところ(3節)だけですが、彼は、主イエスのいわゆる12弟子、使徒のひとりとして、自分の著した福音書の中に、自らの名前をそっと記した――忍び込ませたのです。言ってみればここでマタイは、私ども教会の言葉で言えば、突然ここで、〈証し〉を始めるのです。自分がどのようにして主イエスに声をかけられたか、どうして自分は主イエスに従う者とさせられたか――。ああ…これは、自分の物語だ。自分の話だ…

 しかもマタイはここで、自分一人だけの物語としてそういうことをしたのではないと思います。

 これは、あなたの物語ですよ… あなたも主イエスに呼ばれているのですよ…

 そういう思いで、ここで自分の話をしているのだと、思います。

 そのマタイが、ここで、深い、感謝をもって聴いたかもしれない言葉が、ここに記されています。いやもしかしたら、深い、痛みをもって聴いたかもしれない言葉が、ここに記されています。

 丈夫なひとに、医者はいらない。いるのは病人である。そう、主イエスがおっしゃるのです。

 このマタイは病人である… それを言い換えて、わたしが来たのは罪人を招くため… とはっきり言われるのです。考えてみるとずいぶん厳しい言葉です。このマタイは病人である、罪人である、と。罪という最悪の病気にかかってしまっている――。ここで主イエスは、マタイを、裁いておられると、そう言ってもいいかもしれません。しかもマタイはその主イエスの裁きの言葉を、感謝して聴いたと、わたしは思います。

 なぜここでマタイが病人と呼ばれ罪人と呼ばれているのか――。そのひとつの理由は、この彼が徴税人であったからですが(『新共同訳聖書』巻末用語解説の「徴税人」の項を参照)、もちろん、現代における税務署勤めの方たちとは違います。かつての教会にも税務署勤めの役員がおられましたが、一所懸命に務めを果たしていてくださる。けれども主イエスの時代の徴税人というのはそうではなかったのです。

 主イエスがマタイをご覧になり、お呼びになって――マタイは、主イエスに、あなたは病人だと言われたとき、“こんなことを真正面から向き合って、自分に言ってくれる人に出会ったのは初めてだ…と、驚愕しつつ、感謝しながらその言葉を聴いたと、わたしは信じます。

 医者を必要とするのは丈夫なひとではなく病人である――。考えてみれば興味深い表現です。なぜ主イエスはここで罪人のことを“病人”と表現しておられるのでしょうか。“お前のようなやつは地獄に堕ちろ”と言われたのではないのです。決してそうではない。わたしはどうしても、あなたを癒さないといけない。わたしがあなたを癒すんだ… ひたすらにマタイの癒しを願ってそう言われたのです。

 その主イエスのおこころを13節の前半では、“神のあわれみ”という言葉で言い表しているのです。マタイは感謝しながら、この言葉を記したに違いない。わたしは神のあわれみを受けたのだ…

 わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。罪人を招くためだ…

 主イエスはここで、断乎たる口調で、ご自身の使命を明確にしておられます。

 わたしは、正しい人は招かない――。いかなる意味においても、正しい人を招くことはしないのだ…

 この主イエスの言葉は有り難い、と思うと同時にまたたいへん、厳しい響きを持つものだと思います。

 正しい人も悪い人もまあまあの人もみんな神さまに愛されていますよ…とか、イエス様はこころの広い方だから、罪人のことだって招いてくださる。だから、普通に考えたら、我慢できないような人だって招かれるのだ。イエス様がお招きになるのは正しい人ばかりじゃない。罪人も招いてくださるのだ、など――けれども、主イエスは、そんなことはひとつもおっしゃっていない。そういう話ではないのです。

 なぜ、そこまでおっしゃるのでしょうか――。明らかに11節に出てくる、ファリサイ派の人たち(=正しい人)にそう言っておられるのです。わたしは、正しい人は招いていないよ… 罪人を招くために、救うために、わたしは来たんだ…

 主イエスが、ここでファリサイ派の人たちのことを、“正しい人”と呼んでおられるのは、決して誇張や皮肉や、嫌味などではありません。100パーセント額面どおり受け取ってよい、と、多くのひとがそのように読み取ります。ほんとうに100パーセント正しい人のことをここで、“正しい人”と言っておられるのです。

 けれども、私ども人間というものは、自分が100パーセント正しい、相手が100パーセント悪い、というときにこそ、最も深刻な罪に、誘われるのだと思います。

 そしてそのようなひとを裁くこころというのは、自分自身をも、深く裁きます。ひとを裁き、自分の正しさを自分の支えとしようとする人間は、ひとたび自分の正しさに自信を持つことができなくなると、もうそこでそのまま、倒れるほかなくなります。自分で立ち上がることもできません。ほかの誰も助け起こすこともできません。そのような私ども自身のファリサイ派のこころが、相手を苦しめるだけではない。時に、自分自身をも、どんなに苦しめていることか。だからこそ主イエスは、

 そこから立ち上がって、わたしのあわれみを学んで欲しい…!  と、言われるのです。

 神が求めておられるのは、あわれみであって、人間の正しさではない――と、13節の前半を言い換えることも、ゆるされると思います。あわれみを知らない私どもの正しさは、隣り人を癒す力も、持たないのです。まさにそこにこそ主イエスは、私どもの悲惨を見ておられたのだと思います。主イエスは明らかに、そのようにして、ファリサイ派をも、ご自分のもとへと招いておられます。

 どうかその悲惨の中から立ち上がって、そこから出てきて、わたしのあわれみを学んで欲しい。

 徴税人マタイは、「わたしに従いなさい…」と言われたときに、立ち上がって、主イエスに従いました。私がこころから願うことは、いや、私が願っているなんていうのは正確な言い方ではない。主イエスが今、こころから願っておられることは、今日も、皆さん一人ひとりが、立ち上がってくださることです。この主イエスの招きの声を聞き、主イエスのあわれみを学んで、立ち上がって、主イエスに従う… と、その決断を改めて、新しくしてくださることです。そのために私ども一人ひとりも、呼ばれています。「立ちあがれ…」と、主イエスに声をかけていただいています。

 主イエスに呼ばれ、立ち上がった者たちの集まり――。それが、この神戸教会であり、キリストの教会なのです。