父なる神の望みを知っているか

エゼキエル第18章1-4、25-32節   フィリピ第2章1-13節   マタイ第21章23-32節(28-32節)

今日の福音の日課において私どもに問われていることは、「この譬え話の聴き手である、あなた自身はどうなのか」ということでしかありません。「えっ… それだけ」と――譬え話があっけにとられるほど単純なだけに、逆に私どもを途方に暮れさせるようなところがあるかもしれません。

「この二人のうち、父親の望みどおりにしたのはどちらか」(31節)。

そんなの答えはわかりきっていますから、だからこそ逃げ道はなく、この問いは厳しいのです。そして私どもの信仰生活というのは結局のところ、この二人のうち父親の望みを果たしたのはどちらか。「あなたはどうなんだ。あなたはどっちなんだ…!?」。このまことに単純極まりない問いに、応えることができるかどうか。私どもの信仰生活というのは、結局のところそのことに尽きるのだと思うのです。

あなたはどっちなんだ…!? 父の望みをあなたは知っているか。それをどう考え、どう応えるんだ――。

絶えず、主イエスの前に立たされて、繰り返し、繰り返し、そう迫られ・問われながら、“そうだ、自分には、真の父親がいるんだ。わたしの父である神は――偽物ではなく、ほんもののわたしの父でいてくださる方、毒親のようではなく、ほんものの父親の愛を持っておられる方が――生きておられるんだ… ”という事実に気づかされてゆく――。その神を本気で相手にするならば、もうわたしは人生をわたしだけで生きているんじゃない。一日中、何を考え、何をしているときにも、わたしの天の父の望みは何かということを、第一に考えないわけにはいかない。だからこそ私どもは主の祈りにおいても、あなたの御名があがめられるように、あなたの御国が来ますように。あなたの御心が行われるように… と祈るのでしょう。

そのような毎日というのは、決して窮屈なものではなく、いちばん幸せな生活であるはずですし、そしてもしも私どもの生活がその父の愛から遠く隔たった無関係なところでつくられているとするならば、こんなに惨めなことはないだろうと思うのです。

今日、主イエスがお語りになった中に、「考え直して」という言葉が二度、出てきます(29節、31節後半)。そうです “どうか考え直してほしい…あなたも考え直して、戻って、帰ってきてほしい――”。主イエスは、私どもに願い、そう言われるのです。しかし、考え直すっていったいどういうことでしょう。考え直してぶどう園で働くというのは――もちろんこれはひとつの比喩でしょうけれども――その考え直した人間の生活っていったいどういうことなのだろうか。

『ハイデルベルク信仰問答』という、460年前、教会の改革期にドイツで書かれた、すぐれた、小さな信仰問答書があります。その第三部に、「感謝について」という、項目があるのです。「感謝について」。

それはつまり神に救われた人間が具体的にどういう生活をするのか、という話で、興味深いのはこの信仰問答はそこで、たとえば「よい生活について」とか「正しい生活について」とか「キリスト者らしい生活について」などとは書かない。「感謝について」。“我々の生活はすなわち感謝の生活である”と言う。

感謝というのは――考えてみれば当たり前のことですが――相手があって初めて成り立つ概念です。もしも感謝する相手がおらず、またその相手もよくわからないままでいるならば、感謝の生活もあり得ません。しかし、私どもの生活には、まことに具体的な相手がおり、その一人の方に感謝して、今ここにある生活をつくっているのです。もちろんそれは、父なる神です。何をするときにも何を考えるときにもあるいはほかの誰かと生きるときにも、神に対する感謝が私どもの全生活を支配するようになります。

そうしたら、その生活の具体的な姿だって、きっと変わってくるところがあると思います。それを「感謝しなければならない」と、律法化するのは滑稽なことですが、何も変わらない、というのもおかしなことです。そうしてそういう私どもの生活を見て他の誰かが気づくところがあるかもしれません。“おや、あなたはどうしてそういうことをするのですか。どうしてそういう物の考え方をするのですか”。はい、わたしは、神に、感謝しているのです――。いつでもそう答えることができる。それが私どもに与えられた生活です。

今日の主イエスの譬え話を、“求められているのは不言実行だ”。“口先だけで立派なことを言っても実践が伴わなければ意味がない”などと通俗的に解釈してしまうと、実におかしなことになる。なぜなら、ここで「いやです」と答えたが後で考え直して出かけた、というのは、徴税人・娼婦たちのことでしょう。その彼らは、言葉はいい加減でも実際の生活はちゃんとしていたのか。そんなことはまったくないのです。

そして、口先で調子のいいことを言っただけ、という人に譬えられているのは、ヨハネが来たのに信じようとしなかった祭司長や長老たち(23節)のことでしょう。けれどもこの人たちは口先だけで、実際には何のよい行いもしていなかったのか。そんなことはないのです。神の律法を忠実に守り、絶えず礼拝を献げ、貧しい人への施しをも怠らず、有言実行の生活をしておりました。けれどもここで、「この二人のうちどちらが父親の望みどおりにしたか。徴税人や娼婦たちこそ、父親の望みを見事に果たしたのだ――」。

主イエスがハッキリとそう言われたのは、あれやこれやの何かよいことをしたからではありません。ヨハネが来て義の道(=神とのまっすぐな関係をつくる道)を示したときに、それを信じたからです(31節)。

父なる神に、「いやです」と言ったり、口先でだけ調子のいいことを言ったり――けれどもそんな私どものために洗礼者ヨハネが語ったことは、“帰ってきなさい… 父なる神の愛のもとに戻るんだ… ”と。

その神からの声に応えて、徴税人も娼婦たちも――つまり当時の評価から言えばこれ以上の罪人はいないだろう、と思われていたような人たちが――神の愛のもとに帰ることができました。彼らがしたことは、それだけです。そして彼らが故郷と呼ぶべき、本来の居場所に帰ってきたとき、まさに父親の望みは果たされ、父親はそのことを、いちばんに喜ばれたのです。

かつて、主イエスが、それこそ徴税人や罪人たちと食事を共にしていたとき、それを見た律法学者・ファリサイ派たちが文句を言ったことがある。そこで、主はご自分のしていることを説明しようと、ひとつの譬えをお語りになりました(ルカによる福音書第15章1~7、10節)。

ある人が、百匹の羊を持っていた。けれどもそのうちの一匹が、いなくなったんだ。そうしたら、残りの99匹を野原に置いてでも、捜しに行くはずじゃないか。そしてそれを見つけたら――つまり、もしも一人の罪人が、神のもとに立ち帰ってくるなら――天には大きな喜びが、天使たちの間にも大きな喜びがあるだろう… 何よりも父の望みがそこで果たされ、父なる神はどんなにお喜びになることだろうか――。

今日の二人の息子の譬えも同じなのです。この二人のうちどちらが父親の望みどおりにしたか――。この父の望みはただひとつ、父のもとに帰ることです。そしてそこでこそ、私どもは言うことができます。

そうです、わたしはあなたのものです。わたしの全生活、全部あなたのものです… と――。

今は私どもも、何をするにしても、すべてを神に対する、感謝の生活として、今、与えられている、ありのままの生活をそのまま、神へお献げすることができるのです。それこそ、我々人間の、幸せの極みなのだと、そのことをここでも主イエスはこころを込めて、私どもに語ってくださるのです。