目を覚まして立つ

イザヤ第63章19b節-1第64章8節  Ⅰコリント第1章3-9節     

マルコ第13章24-37節

こういう話を読んだことがあります。“ブルームハルト”という牧師が、ある日、講演をしたのだそうです。その講演は、その当時の、ドイツの教会を実に厳しく、また激しく、容赦なく批判するもので、その老牧師の話を固唾をのんで聴いていた若い神学生はいたくこころ動かされる(E・トゥルナイゼン)。そして、こう訊ねるのです。“先生、あなたのおっしゃる講演がよく分かりました。もうわたしは、神学校を出て牧師になろうとは思いませんし、教会に携わろうとも思いません…”。

けれども、ブルームハルト先生は、こう言ったそうです。

“トゥルナイゼン君、君はどうも、ぼくの話を誤解して聞いたようだね…。このような時代だからこそ、またこのような教会だからこそ、神のために、人のために、何事かを期待しながら 立ち続ける人間が必要なのだ。それを、神は待っておられるんだ…

わたしは、一度その話を読んで、忘れたことはない。というのも、私どもは、しばしば批判的になるからです。今の時代に対しても、家族に対してもそうであるかもしれない。社会に対して、あるいは職場に対しても、近所づきあいでも、学校の友達づきあいでもしばしば批判的になり、問題をあげつらってしまう。

けれども、愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん… 神は、待っておられるのです。教会の中に、何事かを期待しながら立ち続ける人間を、神は待っておられるのです

〈小黙示録〉と呼ばれるマルコによる福音書第13章、今日の日課で、主がくどいように幾度もお語りになる言葉――それは、「目を覚ましていなさい」。33節に「気をつけて目を覚ましていなさい」とある。この「気をつける」というのも“見る”という言葉で、だからここには、二つの言葉が重なっているのです。

よぅく見なさい。よぅく目を開いていなさい。しっかり目を開きながら、目覚めて立ち続けてほしい…

そして、34節。“それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ”。

「僕たち・門番」、これは私どものことです。「家を後に旅に出る人」、これ主イエスのことです。主イエスは、十字架について、復活をなさり、今、天に上げられています。今、主イエスは私どもの近くに、目に見えるかたちではおられません。そこで、主イエスはこの私どもに、そしてまた教会に、仕事を割り当てて責任を持たせたのです。主イエスがなすべき仕事を、教会、またキリスト者一人ひとりに、預けて天に上げられたのです。考えてみると大抜擢です。あなたの家の責任は、あなたの家で主がなすべき仕事は、あなたに任せてある、と言って、安心して出かけて行った――。牧師だけじゃありません。みんなの者一人ひとりに、主は、ご自分の仕事を、責任を任せて行った。それほどに私どもを信頼し、大抜擢をなさった。そうしながら私どもは門番をするのです。何事かを期待しながら、主イエスが帰って来てくださるのを待ちながら立ち続けるのです(35節)。

ここで、主イエスは少なくとも、“一日中立っていろ”とはおっしゃっていません。夕方から始まり、そして時を刻んでゆくのです。夕方にある者が立つ。やがて次の者がバトンタッチをします。それが夜の時間です。深夜の12時から、明け方の3時くらいになると、早い鶏は鳴きます。そして、交代。次は明け方です。朝の6時くらいでしょうか。ともかく門番はせいぜい3~4時間ほどの交替で、みんながそれぞれに立つのです。私どもに一晩中起きていろとおっしゃるのではない。これなら私どもにもできるかもしれません

主イエスはどうして夜中の門番の話をなさったのか――時代が夜だからでしょう。まだまだ夜の闇が続くように思われるからでしょう。暗い、影ばかりが見えるからでしょう。けれども、その暗闇の中に、何事かを期待して起ち続ける者を、主は求めておられるのです。だから主イエスはこういうふうにおっしゃった。

はっきり言っておく、これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない(30節)。

これらのことがみな起こるまで」。これも、よく誤解されて読まれます。これらのことがみな起こる――主がこれまで丁寧に話してこられたことです(5節以下)。戦争、キリスト者の迫害、家族の崩壊、そして、ほんとうにもう逃げ出す暇もないような、ようやく逃げて、逃げるだけが精いっぱいであるような滅びのときが来る。そして、太陽が暗くなり月は光を放たず星は空から落ち、天体は揺り動かされる――滅びです。

けれども、愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん…そこで止めてしまわないように、滅びのスケジュールがどういうふうになっているかということばかりに気持ちを揺り動かされないようにしましょう その次、主イエスは何とおっしゃったか(26-27節)。

そうです 人の子が、主イエス・キリストご自身が力と栄光を帯びて雲に乗って来てくださるのです。神が来てくださる。私どもの、この世界の行き先は主イエスが来ないで滅びておしまいっていうんじゃない。そして、どんなに暗闇に潜んでいる者も、暗闇に潜んで泣いている者をも訪ね、探し出してくださる。この世界は、主イエスがもう一度来てくださって、主イエスのお言葉通りにしてくださって、それではじめてこの時代が終わる、完成するのです。私どもが生きる、どんな一つひとつの場所も、です。

そのお方がおっしゃる。“天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない…(30節)

わたしは、この主の言葉を、マルコが福音書に書き留めたときに、ほんとうに嬉しかったと思います。マルコもまた、行く先、不透明な時代の中を生きたのです。マルコは、あのペトロの通訳者であったと言われますが、しかしそのペトロ、おそらくマルコ福音書が記されていたときには、殉教の死を遂げています。あの伝道者パウロも、このときはすでに殺されています。ローマの迫害の手が、今まさに教会の共同体を襲っているのです。その中で教会がどんなにおびえたことかと思う。

“けれども、主イエスのおっしゃった言葉を忘れないようにしようじゃないか…

マルコは、喜びをもって書いたのです。天地一切、すべてのものは、いつか必ず滅び去るだろう。このわたしの体も地上からはなくなるだろう――けれども、それでも滅びないものがある。今、その滅びない言葉を私どもは聴き続けている。それが主イエスの言葉だ… ――その、滅びない言葉に支えられて、私どもがあるのです。滅びない言葉に支えられて、教会があるのです。滅びない言葉に支えられて、あなたこれまでがあり、あなたの今日があり、もう間もなく迎える、あなたの2024年がある

愛する礼拝共同体、神の家族の皆さん…私どもが今、聴いているのは、死によっても滅ぼされることなく、すでによみがえられた方、永遠のいのちへと至る、主イエス・キリストの言葉です。それが今日、あなたを支える。私どもの人生を完成するのは、主であります。私どもの世界を完成するのは、主であります。

何事かを期待しながら、それぞれの場所に立ち続ける者を、主は待っておられます。